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  • 2015.07.11 Saturday
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一つの着想 ――ある女性を思いそれを隠している――

一つの着想が浮かんだ。

ある女性を思うようになって、それを「隠している」という話を、カフカの『城』のような文体で淡々と書いていくのだ。

現実的な状況から、結ばれるような可能性はない。あってはならない。
あればとんでもないことで、どちらにとっても取り返しのつかない破滅ということになる。
まず、そういう状況を設定する。

そんな中で、「彼女を思うこと」を自分に禁じない。
彼女から遠ざかろうとするのではなく、彼女の周辺にいて、彼女が彼に与えうる喜びや苦しみを享受する。享受しながら、それを完全に自分の中だけに隠している。言葉にも動作にも表さない。
言葉は交わすが、それとは関係ないことだけを話す。

実際にはそんな場合隠すことが難しいだろうし、泰然としていることも困難だろうが、
架空の話だから、隠し通すことがあってもいいわけだ。そこが面白いところなのだから。

「彼女とどうなる」ということはあってはならない、という線の範囲内で彼女を思うのだ。

それだけの話ならツマラナイと普通は思われるだろう。

しかし、それだけのことが興味深い話になりうる、ことを作品で示せるのではないか。

秘訣は心理的な中身の豊饒さと、淡々と進んでいく、明確で実際的、叙述的な文体だ。

題材の性質上、同じようなことを繰り返し書いてしまう恐れがあるが、単調になってはダメだ。

変化をつけなければならない。

書こうとしているのは、原稿用紙200枚ていどだから、同じことを繰り返さないでもすむはずだ。

同じものは思いきって捨てる、省略する。


彼女のそばへいって深い喜びに満ちた興奮と震えを感じた

 カフカ『城』を何度目かに読んでいて、作品全体に長々とした会話が展開されている。読んでいて、何のことを言っているのか、あれこれ想像するのだが、すべてよくわかるというわけではない。たしかに非常に興味深いことをいっているとは思われるのだが、難解でもあり、途方もないことでもある。いい加減にしてくれよという気になることもある。
 そんなふうに思う存分に書いてもいいのだ、ということを学んだ気がする。
 関連して思い出されるのは、最近読んだばかりの小島信夫の『残光』。
 小島信夫の文章も実に饒舌でまったく途方もない、何の意味があるんだ、もういい加減にしてほしいという気にならせるものだが、それがまた面白い。
 それに力を得て、自分もその調子で書いてみるのもいいのではないかという気になった。電子文章のネット上ではとても読めた物ではないだろうが、ブログは、自分にとっては、まあ文章の仮置き場だから、それはそれとしておこう。
 それでずっと昔の日記から引用する形で、来るべき作品に生かせそうな部分を取り上げて見る。

《今日もいいことがあったような気がするのだが、しかし、実のところはどうなのか、まったくなんともいいようがない。それにたとえそれがいいことであったとしても事態はますます苦しいものになりつつある。
 今日彼は彼女のそばへいって深い喜びに満ちた興奮と震えを感じた。それはこの上もなく素晴らしいものだった。しかも、気のせいかどうか、彼女の印象にも震えと興奮が認められるように感じたのである… しかし、感じるものがすばらしく、その興奮の質が何ともいえないものであるのを感じるほど、苦しみもまたどうにもならないものに思われてくるのだ。

 
3月でもう彼女のことは終わってしまうのかもしれないという恐れ… もう彼女を今のようには見られず、彼女をもう思うこともできなくなるのではないかという致命的な恐れ…

 朝、出勤したとき彼女の姿が見えなかった。彼は出張の命令簿を取りにいった。彼女が来てからにすればよかったのに。それが彼女の机の上にあることは昨日見ている。今朝、見ると、彼の命令簿が一番上になっていた。朝、だれか触ったのか、昨日は彼の命令書の上に何冊か置いてあった。彼女の姿が見えなかったが、彼女はもう来ていたのだろうか。そして彼の命令簿を一番上に置きなおしたのだろうか。しかし、それについては何ともいいようがない。
 しばらくして彼女がいるのを確かめてから、近くへ社印を押しにいった。ついでに彼女に旅費請求書をわたそうと思っていた。行くとき、そこに彼女と村元君がいるのが目に入った。社印審査の印を彼女に頼むことになるのだろうか、と思って戸惑いを感じた。かまわずにいった。そのとき粟口君が社印を押しに来ていて、村元君が粟口君の求めに応じて社印審査の印を押していた。彼は彼女に近づいて、黙ってそっと請求書の用紙を差し出した。昨日彼女にわたそうと思い、書いておいたものだ。「お願いします」というつもりだったのに、ためらってやめた。彼女にそういいたい気持を人に気取られることを避ける気持からそうなったのだ。彼女はそのとき「ああ」と声を出した。その声には何かとてもやさしいものが、あるいはかすかな思いが、そして心の震えが感じられるような気がした。彼女は彼に好意をもっている、それが思わず声の感じに表れたのだ、という印象…
  思い出すが、そのとき彼女の顔、姿態にどこか思いやつれた印象があるような気がした。ある時見れば彼女はとても落ち着いていて、人見知りなどせず、人を目の前にして震えを感じたりする人だという印象はないのに、近くで対面して見ると、意外に動揺したような揺れ、乱れ、当惑の感じがあるのに気づく。なよやかさといってもいいかもしれない。なよやかさが彼女の独特の魅力の特徴かもしれない気がする。彼女は彼を思っている、という印象を受けたのは、その微妙な当惑、揺れ、動揺の感じを目にしたためである。
  彼は黙って何も言わずにわたした。前に粟口君らがいたせいだろうか、わたすとき、彼は彼女を特に注意して見なかった。しかし、わたす手つきにそっと好意的な気持、親しみを感じている感じがこもった、そして彼女はそれを感じとった、という気がした。あるかないかわからない了解がそこにあるような、はっきりしない印象…

  そのあとすぐに彼は社印を押しに村元君と粟口君がいるところへいった。心は軽い状態だった。
「ついでに…」と彼は言った。粟口君の社印の審査をしたついでに、という意味だ。村元君が日付のことを言う。「あ、そうや、26日で。日付はどうでもいいのだけれど」
 それから軽い調子で笑いながら、村元君と言葉をさらに交わした。言葉を交わすうちに、すぐ目の前の席の彼女が目に入った。一瞬、彼女がどんな様子をしているかみてやろううという考えが浮かんだ。彼がそばで楽しそうに話しているので、彼女は動揺の感じを隠せないでいるのではないか…
 彼女がややうつむき加減ににこりともしない顔で、机に向かっているのが見えた。緊張して固く感じられた。しかし、期待したようなもの、動揺や困惑の感じはなかった。
 他のすべての場合と同じように、この場合も、二とおりの正反対の解釈が可能である。そのときの彼女の印象には、彼を思っている徴候が見られたとも考えられるし、反対にまったく彼のことなど何とも思っていない徴があった、とも考えられるのだ。
 
彼女が固い感じでいると思われたけれども、それは彼がそこに来たせいであるかどうか、不明である。それは固い感じであったとも、彼女の普通の感じだともいえるのである。など…
 それは後で思ったことである。そのとき彼は彼女に思われていると感じていた。村元君との会話の口調に独特のやさしさと控え目な陽気さ、心の軽さ、明るさ、人のよさがこもっているように感じ、それを耳にして、彼女は心を引かれると同時に彼から何とも思われていないという印象を感じたのではないか、と思ったりした… 
 彼は彼女の方を注意して見ることができなかった。印を押すとすぐに彼女の顔を見ないで彼女のもとを去った。
 もう出かける時間も近かった。もう一度彼女を見たいと思った。コピー機械のコーナーへ行く彼女が目に入った。出てくるのを待っていた。出てきた。そのとき彼女の姿をそっと目で追った。すると身体に何ともいえず快く素晴らしい独特の喜びを感じた。彼女の着ている制服の紺色がその喜び(欲望)に憂鬱さのこもった独特の色合いを与えていた。
 しかし、せっかくのチャンスに彼女をまともに見ることが一度もできなかったことを反省した。もっとしっかりと意識しながら見てもいい… 》 

 


彼女はひどく緊張し、ひどく青ざめた感じで


 今日はまた事態の新しい印象、そのようなものを感じるとは思ってもいなかった、ずっと以前似たようなものを感じたことはあるがすっかり忘れていた、そういう印象を彼はまざまざと感じたのだった。

 
彼女が彼をとても意識している、それも何か思いやつれる感じで意識しているという印象を受けたのだ。勿論これも幻想の一つの表れなのかもしれない、おそらくそうだ、と思うのだが。

 ちょうど異動(転勤)の時期になった。あとひと月で別の所属になってしまう恐れが非常にある。

  彼女を傍に感じるときの彼自身の呪われた緊張や狼狽ぶり、それを彼女が感知し意識することからあの印象は来ているのだろうと思う。

 
夕方、コピーコーナーへ行ったとき、中に彼女がいたのだ。彼は思わず「あ!」と驚きの声をあげ、目に見えて狼狽した様子を見せてしまった。彼女は緊張し、ひどく青ざめた感じで、彼から身を引いて傍に立っていた。その感じが何かしら惨めに苦しんでいるようで、印象に残った。彼女は誰とでも気軽に明るくものを言う性格であるのに、彼に対してはよほどの用がないかぎり話しかけることもないし、彼に親しみを示したい気持をもっている感じもない、といった様々な状況証拠から考えるとありえないことだと思うのだが、彼女は彼のことで苦しんでいるのではないか、恋の思いからではなくて、単に彼に対して〈わるい〉といった気遣いからかもしれないが(たとえば、あの『本』を贈られながらそのことについて素知らぬ顔で通してきたとか)、彼女は苦しんでいる、という印象をまざまざと感じたのだ。

 あのとき彼自身の感じにも、狼狽し、緊張し、彼女のために惨めな思いで苦しんでいる、といった印象を彼女に与えてたと考えてもおかしくないものがあった。
 彼女はそれを感じとったのだろうか、という気もする。
 そのときの印象がひどく強かったので(後になると次第に単なる早呑み込みだったのではないかと思われてきたが)、彼は今までにない思いに沈んでしまった。…

 勿論彼女とどうこうなることなど思いもしない。そんなことは考えるもおぞましいし、彼女にとっては何もいいことはない。

 今のまま続いて時期が来れば終わってしまうこと、それ以上の何が望めるだろうか。

 一定の線からはみ出すことを望んではならない、と繰り返し自分に言った。彼女とは今のような形でしか、つまり何の会話さえもなく、ただ毎日同じ事務所にいて姿を目にするという形でしか、接することができないのだ。

 実際に思われているとは信じられない。あのとき同時に彼は、〈彼女に嫌われ避けられている〉という印象をもったのではなかったか。彼女を意識し、ひどく過敏になっている彼の感じ、彼女はそれを感知して、彼と同席することに困惑を感じたのだろうか。
  しかし、同時にそのとき彼女は苦しんでいるという印象を受けた。彼女の苦しみの印象が一瞬にして彼の意識の中に広がったので、彼女にそのような思いを与えるのはひどい罪だと感じた。ずっとこれまで彼女を思い、思われたい、という願いによって生きてきた。しかし、自分の願ってきたことは、いったいこんなことだったのだろうか?  彼女に思われるとは、まさにこういうことではないか。それは救いも希望もない苦しみを彼女に与えることでしかない…

 今朝、予め車の中で思った。あくまでも思われていないという前提を堅持しなければ…
 自分の容貌、年齢のことを忘れないようにしよう…

 そのことに甘んじる気持がなければ、醜さが生じる。思われたいという色気さえなければ、ためらいはない…

 昼休み、弁当を食べたあと、『羊たちの沈黙』という映画のビデオを探しに、ジャスコの近くのレンタルビデオ店へ行った。そこにあったので、借りた。いつか、職員互助会の斡旋映画の題名を彼女にききにいって、結局その題名が分からなかった。先日図書館で一昨年夏の新聞の映画欄を見て、それが分かった。

 カーステレオでフンメルのピアノ協奏曲を聞きながら、「この曲が予感させる素晴らしい喜びを、彼女を見るとき、彼女を思うときに感じることができる」と思った。その喜びは何ともいえず魅力的でロマンチックなものであると感じられ、彼女を失うことは、このうえなく悲しいことだという気がした。
 失う?  しかし、彼女を今のような状態で思うことによってしか彼女を享受することはできない。それでいいのだ・それしかないのだから…

 ビデオ店の若い男子職員と話すとき、彼はどうも奇妙な心理状態になっていた。人を意識してしまい、相手の顔を見られず、恥ずかしそうな、具合の悪そうな感じになった。睡眠不足、疲労のせいもあっただろう。それでまた惨めになった。自分はダメ、人を近寄らせない過敏なものが自分の中にはある。何でもないことにおいても表れてしまう、人前でのこの滑稽な当惑、緊張はどうしようもない

 午前中、社印を押しにいく用があった。総務課長のところ。
 そのとき彼は川下さんに「蘇我さんから聞いてもらったかな。早川さんが3月1日に退院するので」と話し始めた。別に言う必要もないと思ったけれども、
「彼女」のいる前で人と話をして、彼女の意識の中に少しでも入り込みたかったのだ。
 
川下さんは明るい感じで話に応じてくれた。川下さんとかなり長く話をすることができた。
 彼はずっと〈彼女〉を意識し、すぐ前の席にいる〈彼女〉の姿が目にちらつくのを感じた。途中で〈彼女〉のところへ誰かきたのか、〈彼女〉が立って応じていた。その語調は明るく落ち着いているように感じられた。川下さんの話を聞きながら、彼は〈彼女〉を意識するため何度か顔がブルッと震えそうになるのを感じて、その都度懸命におさえた。自分ながら感じよく明るく話せたという気がした。しかし、〈彼女〉と話せたわけではない・〈彼女〉の顔を見ながら話したのであったなら、ほんの一言であっても、喜びは素晴らしいものであっただろうに・仕事の上で彼女と言葉を交わす機会があったら、彼ももっといい感じで〈彼女〉と話すにちがいないのだけれど…
  川下さんとの会話中に、しかし、ときどき顔が震えそうに感じた。こういうことを平静に何でもなく処理できない自分の精神の過敏さ、欠陥を感じる。彼は川村さんとかなり話したが、〈彼女〉の顔を見ることは一度もしなかった。見ようという考えも起こらず、避けていた。
  彼女の明るさが戻っていた。
 語調は明るくしっかりしている。さわやか。しかし、まだどこかひっかかりがあり、心に潤滑油が満ちているあの絶好調の滑らかさではない。そのうちきっとそうなるだろう…

 彼女の明るい感じを耳にすると、彼は怯えのようなものを感じる。彼自身の心がおびえて冷え込むのだ…

 午後、役場の奥野さんが来ていた。文書の棚に書類をもっていったとき、奥野さんが彼の方へ会釈を贈った、彼も会釈を返した。彼は文書を奥野さんに渡し、ちょっと声をかけた。その必要はないのだけれども。ひょっとして〈彼女〉にそのことを気づかれるようにと期待して。しかし〈彼女〉はこちらには気づかなかったようだった。奥野さんに声をかけたとき、惨めで憂鬱なな小声になってしまった。
「今日は何?  会議でもあったの?」
「いえ、海西さんに書類を提出に来た」

 それだけ。

 彼は気がふさぎ、緊張して、何も言えない自分を再認識することになった。

 彼女は陽気で華やかである。その声を聞くと、戸惑い、悲しみ・彼は自虐的にその悲しみを意識した。すると一瞬胸がキュンと疼く感じになるのだ。その疼きは快く喜びそのものでもあった。


老いた彼女たちの中に生きている人間を見る思いが

 今日は部落の老人会の親睦会。10時半からマイクロバスで松原荘へいく。体調がよくない。胸焼け、喘息など。
 老人会。けっこう大勢参加していた。男性も女性もみるからに老人、腰が曲がった人も多い。とくに女性はほとんどみな腰が曲がっているのは、百姓仕事で苦労してきたためだろうか。自分たちが一番若い、という意識が自分にあるのは自然だろうが、同時にいずれ自分もあのようになることは避けられない、遠い将来のことではない(すでにかなりの程度そうなっている)、という思いも去来する。といっても、そういうことをそう深刻に思い感じるのでもない。ただ、ぼんやりと思うのである。
 振り返ると、昭和58年に故郷に戻ってきた。それからもう22年になるのか、と驚く。ついさきほどまで15年になるだろうか、と思ったりしていたばかりなのに。
 それだけ住んで、あまり気が進まないながらも、中年会や部落の行事にも時折参加してきたので、顔を見知っている人がほとんどである。女性の方は近所の人以外はどこのどなただかほとんど知らないが、顔は何となく見知るようになった。ほんとうにおばあさんそのものという外観の人たちである。宴会が進んで、カラオケがはじまった。歌うのは圧倒的に男性だが、そのうち女性がでてきた。歌に自信があるのだろう、また歌うのが好きなのだろう、と注目してみていると、驚いたことに大津美子の「ここに幸あり」がはじまった。それまで歌のほうへ注意を向けずにしゃべりあっていた女性たちがいっせいに歌い手の方へ顔を向けて聴き入る様子である。男性もみなそうだ。女性が歌うのを耳にする機会は少ないから、注目されるのだろう。たしかに非常に上手である。その後また男性が歌ったが、そのときには女性たちはもとの雑談にもどった。
 幼い頃からよく知っている三根敏子さんが「命くれない」という歌を歌い始めた。彼女がこんな歌を歌うのに驚くとともに感動した。この人は娘時代非常に秀才だったという。美人としても注目されていた。
 その後も何人か女性が歌ったが、腰の曲がる年齢になったおばあさんがそのように歌う様子を見ると、なぜか感動させられた。彼女たちにとっては、歌は何かであり、そういう歌をこういう場所で歌うことは、彼女たちが単なるひからびた世俗の女性、日々の世事に明け暮れて今日に至った型どおりの世俗人である以上に、生きて、憧れ、夢見る人間だったのだというような感慨に浸らされた。彼女たちの中に生きている人間を見る思いがして、新鮮な感銘を受けるのだ。


彼女の近くへ行っても何もないという気が

 

彼女の近くへ行っても何もないという気が

 何もない、という印象…勿論、あるかもしれない、そのことを確かめたい、ということも心にあるのだが、彼女の笑い声を聞くと、とても苦痛を感じるので、つい「よし、それならそれでいいのだ、秘かに苦しむだけのこと」という気持になる。

 

 彼女の近くへ行っても何もないという気がしてきた。これまではその同じ彼女のたたずまいに、何かがあると感じていたのに。


 悲しいことは彼女を見ても、それほど強く心を引かれないことだ。
 ただ、思いだけは自動機械のようにずっと深いところで働く。

 近くへ行く機会が何度もあったのに、嬉しいものは得られなかった。ただ、彼女の明るさ。彼女を見るとき、以前そこに思いの影を感じていたのに、今日はその同じものが何も思っていない徴候のように感じられた。

  昼前彼女が近くへ来ていた。副所長と言葉を交わしている。言葉は押さえ気味。そんなに派手な感じにはならない。意識されているという幻想が形成されはじめるのだ。彼は顔を上げたいと思った。けれどもできない。席を立った。彼女の様子に意識がないとも言えない気がした。彼女は去っていった。ずっと思い、何か言葉を交わしたいと思っていたとしても、このように何もなく、素振りもなく過ぎていく毎日では根もつきてしまうだろう。

 

昼休み事務所にもどり、キーをとりに行くとき、強い不安と痛みのようなものを感じた。心臓に強い不安…

彼女が木谷氏と話している。キーをとるとき、彼女が動揺を見せるのを感じとる(というよりも想像する)、けれども彼女を見たわけではないから、その後彼が使用簿をとって戻るときにも彼女が明るい感じの言葉を木谷氏に向けつづけていて、彼がすぐそばに来たことの影響がまったくないのを見ると、彼の心は苦痛を感じた。彼がそこに来たことは彼女の心の上に何の影も落とさなかった、ということは、彼女が彼のことを何とも意識していない有力な徴なのだ。彼女の顔は明るい感じで笑っていて、その顔は心を打つものを感じさせ、妬ましい気持にならせた。妬ましいといっても、それは彼女への感情であって、…

さらに彼女は和気君と隣り合わせに坐って、何かの書類をいっしょに見ながら話し込んでいて、とても親しい明るい感じで笑うのがしばしば聞こえてきた。いったい、あのような彼女に彼への意識や思いがあるとは、とても思われないのである。

 

そういう彼女を目にし、声を耳にするごとに、恨みがましい気持になり、不快、苦痛を感じた。彼女には彼への悪意などあるわけがない、ただあるのは無関心だけなのに。彼女は和気君に親しみを感じている、彼女の心はこちらに向けられることはない、そう感じるときの脅威と痛み、苦しみ

よしそれならばそれでいい… という気になるのだ。

その裏にはやはり彼女をこんなに思っているのだから、当然彼女にも優しい気持で思われてもいい、という気持があるのにちがいない。

こんなときには、思っている様子を彼女に見せようと思っても、水をかけられるようなはっきりとした無関心が帰ってくるだけで、思われていないというこれほどはっきりとした徴があるだろうか…

松川君と車で一宮へ。

帰ってから、夕方も彼女はしばしば明るく笑っていた。その声は彼の心の欲望をとても刺激し、彼は悩ましく引きつけられるとともに、彼女への恨み心が高じて、ほとんど彼女への憎悪に近いような苦痛を感じるのである。彼女の近くへ行っても、彼女の明るさ、彼への無関心は歴然とした事実だったので(いったい、彼は彼女に思われるなどとどうして思ったのだろう、そんなことがあり得るとどうして思ったのだろう)、彼はもう彼女を見ることもできない気持だった。けれども見ないではいられない、彼女の様子を確かめたいと思わずにはいられないし、見ると傷つくのである。それで彼は思うのだった。彼女に思われているかどうかではない、ただ、彼女の顔を確かめるために見るだけ、そういう気持で彼女を見れば、苦痛は感じない…

  夕方、6時ころ先に出て駐車場の人目につかないところでところで待っていた。彼女は6時20分ころ出てきた。けれども、ずっと遠くから見ただけ、彼女が車に向かうほんの一瞬の姿を見るだけだった。そのときには、確かに服装の色や身体の特徴から彼女を感じた。その後車がこちらに向かって近づくときには、彼女は車の中なので、よく見えないし、彼がそこにいることなどに彼女が気づくはずもないので、彼は物足りないのだった。彼女は妊娠のために確かに平常時よりも不格好になっている。けれども彼女の姿を見ると、確かにとてもいいもの、いい形を感じるのである。

 


不都合で困ったことをやることになるのではという不安

 彼女を思う気持をもっと感じたいという心の状態を感じていた。彼女を見ればそれを感じることができる。彼女を見に行きたい…

 

  これは純情な恋心というのではなく、享楽主義者の思いである。思われていなくても思いたい、というのは、純情な気持ではなく、思うことに深い何ともいいがたい味わいをもった喜びがあるからである。

 

何らかの形ででも彼女と結ばれることがあったなら、それはあまり好ましいものにはならないだろう。不愉快な障害が多すぎる。たまに会って話すというようなことがたとえありえたとしても、そのことはすぐに幻滅になって終わるだろう。彼が彼女に幻滅するのではなく、彼女が彼に幻滅するのである。現実的には彼はとてもつまらなく取るに足りない、取り柄のない、面白くない人間であるにすぎない。

 

彼女がもどってくるまであと4か月。

彼女がもどってきたらどんな不都合で困ったこと、嫌悪すべきようなことをやることになるのかという不安がある。彼女を見ることが困難となっているだけに、彼女を垣間見て心を強く引かれることが重なると、彼はいっそう困難な立場に追い込まれることになって、何か醜いことまでもしないではすまなくなってしまうのではないか、きっとそうなる。… そのことがいまから懸念される。

 

 


危機であっても、苦しみであっても、不幸であっても

 

危機であっても、苦しみであっても、不幸であっても

 
やはり彼女をあのように不十分にわずかにでも見ることはとてもいいことだ。感じるものがまるでちがう。今日はあの彼女のことをずっと思う状態にあった。彼女がそばにいたころのように濃厚な思いを感じることはとてもできないが、彼女の顔、姿、いや彼女の存在が感じさせる何ともいいようのないなつかしさを感じると、それが自分のものになることのない現実を感じた。せめてそれをこんなふうにかすかにではなくもっと深く忘れがたいほどに感じたい、それこそは彼女なのであるから、という思いを感じた。

  彼女に避けられているのでは(彼が彼女の周辺に出没することを知って彼女は彼を避けたいと思っているのでは)、という不安を感じたりするのだが、昨日彼女に気づかれた可能性は低い。気づかれる危険性はあったが、まず気づかれたとは思われない。それよりもやはり彼女は彼に好意的な気持をもっている、それが苦しい恋の感情を含んだものではないとしても、おそらくこれまでにもそうであったように、彼に出会ったら彼女は心からの親しみを見せたいと思うだろうという気がする。それは彼女にずっと本を贈り続けてきた彼への義理だての気持(そんな好意を示されて冷たい素知らぬ顔はできない、そんなことをすれば相手から不愉快な女だと思われる、という気遣い)からだけというのではない、彼への人間的な親しさからだと思われる。

  そしてもしかしたら、彼女はやはり彼のことをとても思っていたのかもしれない… そんな気がした過去の数々のシーンのことが思われるのである。(実は何もなく、単なる彼の思い込みだったとしたら、何と恥ずかしいことか…)

  手をさわやかに振りながら歩く彼女の印象… それは単なる明るさ、さわやかさではなく、その奥に特別な色合いをもった彼女の存在が感じられる。そういう感じが彼の中に残っていたので、彼は歩くとき自然とそれを真似るようにしていた。あのときの彼女の印象の記憶、それが彼女というひとの存在の感触を彼に感じさせるのだった。それはとてもなつかしいものであるので、それを感じることは一つの危機を感じることでもありうることが予感された。けれども彼はそれを感じたい、危機であっても、苦しみであっても、不幸であっても、それを感じないよりは感じることの方を彼は望む。それを感じることは他のいかなることよりも貴重であると感じられるから。

 


彼女を〈見る〉などということが起こりうるとは信じられない 090821

 

今朝は控える気持で、前の駐車場。ぎりぎりの時刻が近づいても現れる気配がない。やっぱり駄目かもしれない…そんな気になっていたとき、何でもないように通りかかった車。「おや、似ている」と一瞬思い、見るとまさに彼女。彼女を彼は〈見た〉。

 
 その一瞬感じたものを言葉で言うと、「彼女を〈見る〉などということが起こりうるとは信じられない」という感じだった。彼女がそこを通り、彼女を彼が〈見る〉などということは信じられない…

 

勿論それは何でもないごく当たり前のことだと頭ではわかっているのだが、それはあまりにも胸ときめくようなこと、ありえないような豪華なことだという感じがあるのだった。

 おそらくこうだったかもしれない。そのとき彼は彼女の存在に触れるような可能性をかいま見ていて(なぜなら彼女もその気になっているとしたら、その可能性はひょっとしたら…)、それが信じられない、ありえないことなので、悩ましいようなときめき、めまいのようなものを感じたのだ。

 

 彼の思いはしばしば夢想にすぎないもの、現実には実現することも近づくこともありえないもの、現実とはまったく別個の世界に属するものであるはずなのだが、しかし、それは彼の心の中ではいつも現実の彼女との接触、究極的にはおそらく性的な接触へと繋がっているのである。

 

 彼女を見たとき、彼女は一瞬「ああ」というように顔をうつむける動作を見せた。それは一つのニュアンスであってそれほどはっきりしたものではない。うつむけるというよりも、「ああ」とため息をもらすときのような感じだった。顔は前を向いたままだったが、瞬間的に微妙に頭が縦に動いた。そのとき彼が感じ取ったところでは、いつかのように彼と出会うことを求めてきて、「結局出会わなかった、ああ…」という思いに捉えられたと思わせるような動作だと思われたのだった。(勿論他にまったく別の意味があったのか、あるいは意味など得になかったのか。それはわからない。)

 その動作の印象を彼の心は直ちに昨夕のことと結びつけた。やっぱり昨夕、彼女は家の前で散水しながら彼を見たのだ。見なかったはずがない。そして彼女はそのことに強い衝撃を受け、路上で彼の車と出会うことを求めて今朝早めに出てきたのだ。(彼はしばしばこれまでにもそうだったように、彼女の通勤の道を逆上ってくるかもしれない。)そんな考えが浮かんだ。昨夕の出会いを彼は彼女から嫌われているようにも思い描きがちなのであるが、今朝彼女を見てからは、彼女は案外にも彼のことを思っていたのかもしれない、今朝彼と出会うことを求めて出てきて、出会えなかったことで、「ああ」という思いを感じるほどに。そんな彼女の像が彼の心に描き出された。彼女は一瞬にして通りすぎ、彼の方へは勿論顔を向けず、彼に気づいたようすはまったくなかった。むしろ角を曲がるには早すぎる感じで、奥の駐車場の方へ左折していった。彼女を目にしたのは短い一瞬である。彼からはガラスを通して不明瞭な彼女の横顔が見えただけである。それは客観的にはそんなに綺麗だとも心を引く形をしているともいえない気がした。けれども何といったらいいのだろうか。彼は心にぐっと来るようなものを感じた。それを説明することも、その感じを思い出すことも難しい。

  一つは彼女を〈見る〉ことへの戦慄のようなもの。(〈見る〉ことには彼女を享受することのような感じがある。)もう一つは彼が見るその彼女が彼への思いを感じていると感じることによる戦慄のようなもの。さらにもう一つは彼女の印象に、なにかしら水っぽいもの、感受性ににじむように溶け込むものを彼は感じるのである。

 もっともみんな推量、曖昧さの領域の話でしかない。こうしたことにはたしかなものは何もないのだ。彼女が朝あの時間にそこを通ったことは確かであるが、それが何を意味するのか、彼と関係があるのか、そもそも昨日彼女は彼に気づいたのか、といったことになると確かなものは何もない。

 

 しばしば自分の姿のみっともないこと、自分という人間の劣っていることなどを感じるときがあり、いったい自分は何を非現実的な恥ずかしいことを思っているのか、彼女が彼のことを思うことなどありえるはずのないことだ、という実感に強くとらわれることがある。そんな強い認識に達した後でもまた、不思議にも彼女は彼への思いを感じているのではないかという可能性を追求しはじめ、それが真実ありうると思っているかのような気持になっているのである。これこそとても不思議なことである!(現実に目覚めたときにはとてもありえないはずのこと、信じられないことであるのに。)

 


散水する彼女の前を通り抜ける。しばらくして道路に人の姿。 090820

 夕方。彼女は早めに現れた。今日も昨日と似た感じ。心を引かれても一瞬のこと。車に近づく最後の方で彼女の髪と顔の印象に何かしら茫漠とした感じ、表現は難しいが、漠とした悲しみといったもののイメージが感じられた。彼女が悲しみを感じているというのではなくて、顔、髪が醸しだす印象に何かしらキュッと憂愁がしぼり出されたような(たとえていえばレモン汁をキュッとしぼってそれがその周りに広がったような)、そんな印象があって、心が引かれていくのを感じた。
 後をつけた。間に車が2台入って、ちょうどいい具合だったが、今日は彼女の車の動きに、後方の彼に気づいていると思わせるようなものはまったくなかった。彼女はいつも比較的スピードを出す。彼女の前に車がつかえていたため、彼女はその車の後を追う感じで進んでいた。彼女の後に二台入り、見ようと思えば彼の車を見ることができただろう。気づいていて、嫌って逃げていると思わせるものもなかった。細い道に入ったとき、彼は遠慮して距離を置いた。彼女はたちまちスピードをあげて距離がみるみる開いた。
 家に近づいたとき、昨日と同様明かるすぎるので、後を追って家の前を通ることを避けた。離れた場所から双眼鏡で見ると、今日は彼女の車が滞ることなくすんなりとそのまま家に着き、庭に駐車するとすぐに彼女が現れ、玄関に消えた。
 入ってしまった… おそらく彼女はもう現れないだろう… と軽く考えて、彼は心を決めて家の方へ進んでいった。ひょっとしたら彼女が庭に出てくる可能性もあると思い、それを恐れまた期待する気持もあった。今日は少し思いきったことをしたい気にもなっていたのだ。藪陰が続き、それから彼女の家が見える開けた場所に出たとき、彼は注意して前方の彼女の家の庭を見た。そこにまさに彼女の姿が目に入った。彼女は家から出てきて、散水用のホースを手にとってちょうど水をやろうとしはじめたところのようだった。彼は一瞬引き返そうかと思った。けれども車はすでに彼女から見える場所に出ていた。そんなところで引き返せば、もし見られた場合見苦しくみっともないことになる。いや、彼が恐れたのは、彼女からこそこそと逃げ回っているというイメージを持たれることだったのではないか。当惑しながらも、とっさに心を決めて進んでいった。最初彼女は散水する植物畑の方に向いていた。近づいていく彼からすると、彼女は横向きだった。車に気づいたら彼女はこちらを向くかもしれない、近所の知った人かもしれないと予期して(まさか彼だとは夢にも思わないだろうから)、こちらを見るかもしれない、そしてとてもまずいことになるかもしれない… そう感じながらも彼は近づくほかのことはできなかった。彼の車が近づくにつれ、彼女は散水しながら顔をややこちらに向け加減にし(このときにはこちらを見る向け方ではなかった)、すぐ近くまで来たとき、もう少し明確に顔をこちらに向けた。その感じは、近所の知った人ならそれなりに笑いを浮かべて挨拶らしいものを見せる必要もあるだろうか、というような向け方だと感じられた。まずい、彼女に気づかれる、と感じながら、彼はそうするほかない身振りを見せた。つまりそれとわからないかもしれない程度に軽く曖昧に頭を下げる様子を見せ、それからから彼女のまさにすぐ側にきた瞬間に、左手を軽く口にあてる動作をした。車のガラスを通していたから彼女にわかったかどうか、第一彼女が彼を見たかどうか、たしかなことは言えない。その瞬間彼は気づかれたとかなりの強さで感じた。
 後で思うと残念だが、最初から最後まで彼は彼女をまともに見ることができなかった。ただ、彼女の姿を漠然と目にしただけだった。最後の瞬間には彼女を見ていなかった。したがって、彼女がどんな顔をしていたか、笑いを浮かべていたかどうか、彼を目にして彼に気づいたような何らかの反応があったかなかったか、そんなことはまったくわからなかった。ただ、あのときの状況、彼女の顔の向け方、まだあるていどの明るさがあったことを考えると、彼女は彼の車に気づいたのではないか、と思われた。過ぎてから衝撃があったが、それはそれほど激しいショックというのでもなかった。
家に帰るためにはもう一度あの前を通らなければならない。とはいえすぐにもう一度引き返して彼女の前を通ることは厚かましすぎてできなかった。

彼を目にした後も彼女が庭に残るかどうか、すぐに急いで家に入ってしまったかどうか、それをとても見たかった。ちょっと時間を置いてからと思ったが、家にも早く帰らないといけない。途中まで引き返して、家の窓を見たが、そんなところに彼女が見えるわけがない。もう一度思いきって彼女の前を通るという冒険を冒したい気持もあったが、それは彼女に嫌われている場合には過激すぎる。

考えたすえに、再び彼女の目の前を通ることは断念して(そうしたい誘惑はあったが)、細い田舎道を迂回して坂の下に出て、坂の下方の離れた場所から彼女が庭にまだいるかどうかを見ることにした。
 再び下方(対岸)から双眼鏡で家の庭を見たとき(そのときにはすでに、彼女が散水を終えて家に入ってしまったかもしれないと思われる程度には時間が経過していた)、家の前の道を人の姿が動くのが見えた。彼女かもしれない…とても遠いのでよくわからないが、姿形の印象が彼女ではないように思われた。感じとしては、まだ若い印象で、背が高くすらっとしていて、あるいは男だったかもしれない。その姿は最初彼女の家から少しだけ離れた場所にあって、彼女の家の方へ歩いていき、その辺りで消えた。彼女の家の人ではなかった。近所の人だろうか?  その可能性はあるが、ひょっとしたら彼女だったかもしれない、とも思うのである。その辺りで近所の若い人を見かけることはこれまでほとんどなかった。あれがもし彼女だったとしたらどうだろうか? 彼女を求めてこんなところへ来る(こんな惨めなことをする)ほど彼女のことを思っている彼を目にして、彼女は心に衝撃を感じたかもしれない。彼がもう一度帰りに通ることを予期し、思いきって彼にもう一度出会いたいと思って(それは彼女としてはとても気違いじみたことである!)、道路に出ていたのではないだろうか。この考えは彼をとても興奮させる。そのことを強く期待する気持はあるが、そういうことが現実にあるとは思いにくいところもある。
 第一あれが彼女だったかどうか。遠くから見た目には彼女らしくない印象があったのもたしかである。彼女だったかもしれないと思う根拠は、客観的にあの場所をこの時期、この時刻に彼女以外の若い人が通ることはあまりないのではないか、と考えるからである。彼女なら、まさにその直前にその近くにいたのだから、そこにいても納得できることである。しかし、結局彼女でなかったかもしれない。近所の農家の人だったのかもしれない。
 明朝彼女が早めに出てくるかどうか、それが楽しみ。月〜水と三日間連続で遅かった。

 Yさんが朝植松氏とコンピューターで何かを調べていた。彼がそこへ入っていったとき、彼は彼女の顔を見た。Yさんは珍しく親しい調子で彼の名を呼んだ。彼の担当のことで植松氏と話していて、彼がそこへ通りかかったので、彼にきこうと思ったのだ。それは別に意味のあることではないが、ただ彼女の親しい感じは嬉しいものだった。その後夕方まで、しかし彼女の印象にそれらしいものはなにもなかったように思われる。むしろ何とも意識されているわけではない、と感じることがずっと続いた。


どうしたの、えらいあわててるじゃない

 朝方彼女を見て、あれほど心をひかれたのに、その後彼はずっと彼女の方をほとんど見ないまま過ごしていた。

 午後彼は左向かいの席のA君の机の上にあったノートパソコンを自分のところへもってこようとしていた。
 ちょうどそのとき、前方のSさんのところに来ている彼女の姿が目に入った。
 彼はそれを見るとひどく動揺を感じはじめた。
 彼女の方を見ようとしたというのではない。むしろほとんど見なかった。ただ、彼女の後ろ姿が向こうに見えていて、彼女も彼の方を意識しているというような幻想があった。
 パソコンの電源コードを引くのに隣の席の喜多氏の机のところを通さないといけない。彼は奇妙にそわそわして、落ち着かず、失敗を繰り返した。
「あ、どうも」「いかん…どうも…」と連発した。すると喜多氏が
「どうしたの?  えらい、慌てているやないの」と言った。
 彼はまずいと感じた。彼女を意識して動転していることを見ぬかれているのかと思った。以前から喜多氏は彼の心の中にあるものに気づいているという気がしていたから。
 彼はなるべくさり気ない様子を保つように努めた。しかし、どうにも過剰な意識による動揺はしずまらない。パソコンを打ち出しても、姿勢は前屈みで固く緊張していて、無闇とカサカサと早く打った。

 彼女の姿が目の前の方から消えると(彼女がいたのはそんなに近くではなかったのに)、彼はたちまち落ち着きを取り戻した。

 そのあとしばらくしてまた彼女が前方に表れたとき、またしても彼は固くなり、動転し、落ち着きをなくしてしまった。無闇とキーを打ち、しばしば何を打っているかわからなくなり、「記号、記号」と打っては消している自分に気づいた。ごまかすのに苦労した。しかし、全体としては喜多氏の目を何とか誤魔化せたように感じていた。

  彼は、栄さんと家さんのところへ行く機会があったとき、彼女たちにちょっと声をかけ、家さんが笑談めいた調子で言葉を返した。すると、彼も意外に明るい陽気な調子で答えた。そんな陽気さが自分の中から飛び出してこようとは予想していなかった。…
 それが喜多氏の疑いを晴らしてくれただろうと感じた。

 彼は調子に乗ってきた。ようやく、彼女の近くへゴム印を押しにいった。ところが、あいにくちょうど彼女がいなかった。残念…一度しかないとっておきのチャンスに…

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