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  • 2015.07.11 Saturday
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【短篇)  街路にて  (1)


 ぼくは用もないのによく街に出かけた。

 いっしょに遊んだりしゃべったりする友人もなく、出かけて行くべき知り合いもなかった。毎日一人きりで部屋にいると、ただむしょうに外に出かけたい気持になる。出かけて行って、人ごみに混じつて歩くことへの理不尽な欲求が内部からわき起こってくるのだ。

 出かけても部屋にいても、一人であることにはなんら変わりがない。むしろ入ごみの中に混じって歩くことによって、みずからの孤独性、笑うべき惨めさをいやというほど思い知らされるのが落ちなのだ。
 群衆の中では知った人がいないため、気を使わなくてもいい気楽さはった。しかし、行きかう人の目が気になつて、ぼくは終始ひどくうつむいてばかりいた。滑稽なくらいくよくよと神経を使い減らし、ボロくずのようにくしゃくしゃに疲れはてて、ああ今日も時間をむだに費やしてしまったという苦い後悔の味をかみしめながら、自分の部屋に帰ってくる。

 本を読んだり、音楽をきいたり、自分の好きなことをして過ごしたほうがどれだけよかったことかと心底から反省するのだ。そしてそのたびにもう二度と出かけまいと、「石のように固い決意」を固めることになる。その決意を有効に持続させるために、ノートにくどくどと書きつける。
 それはもうおきまりのコースだった。

 やがて再び新しい太陽が昇り、金色にかがやく美しい一日が始まる。
 すると、とてもふしぎなことに、どこからともなく決して死ぬことのない鳥のように蘇ってくる甘い希望に満ちた情念がぼくをとらえるのだ。

 その鳥は外へとぼくを誘い、ぼくはひたすら外出の口実を探しもとめることになる。
 そうなると前日の「石のように固い決意」などはひとたまりもない。なにかつまらないちょっとした口実が頭に浮かびさえすれば(それはいつでも頭に浮かんだものだが)、ぼくはすぐさまそれに飛びつく。憐れな犬ころが投げられた肉片に飛びつくように。それは幻の肉片で、飛びつくと同時にさっと引こめられるのだ。しかし、そんなことにかまっちゃいられない……何はともあれぼくはさっそくでかけることになる。「おい、またしてもこりもせずご立派なことだな!……ハハ!……まあいいさ!……」
 前後のみさかいもなく、とるものもとりあえずといった体で、ぼくは自分の棲む穴ぐらを飛び出していくのだ。
 入々が行きかう場所を目指して、電車に乗り、通りから通り、街から街へとあてもなく歩いてまわるのだ……

 正常な普通の人々のように自分もちゃんとした用があって出かけてきたというふりを、自分に対しても他人に対しても装う必要を感じるので、ときおり本屋やデパートのレコード売場に立寄りはする。

 が、その実は、ただあちこちと歩きまわっては、どこにも自分の居場所がないと感じる憐れな宿なし犬にほかならなかった。

 いや、かならずしも目的がないというのではなかった。

 そうだ、ちょうど腹を空かした犬が、あちらこちらで人に追いたてられながら、餌をあさってまわるように、人にとがめられるのを気にしながら、通りかかる若い女たちの顔や姿をひそかに盗み見ては、罪ぷかい目で喜びをむさぼり享受してまわる……そういう目当てがあるにはあった。

 そしてそれをぼくは内心うしろめたいことのように感じていた。

 だからそれらの行為のために、別のちゃんとした「本当の用件」を自分のために当てがってやる必要を感じていた。

 ぼくはいつもひどく玖しい気持に悩まされた。

 路上でも、乗り物の中でも、書店によって本を買うときでも、いつでも罪びとのように顔を伏せていた。

 通りがかりの人々の顔を見ることが妙に出来にくかった。用もないのにでかけてきた者の本質がが見ぬかれていると感じていたからかもしれない。

 それに、あえて顔をあげて通行人と眼が合えば、相手の心を害するか自分が傷っくことになるという気がした。

 つまり、相手が気の弱い男であるならば、ぼくの視線につけられたように感じるだろうし、相手が気の強い人物ならば、面と向かって見られることを敵意ある挑戦ととるかもしれない。
 相手が健康で正常な人ならば、ぼくを無視するか憐れむべきとるにたりない存在だと感じるだろう。
 若い女ならば、ぼくのような取るに足りない貧弱な男に見られることを心外に思うだろうし、それが魅カ的な娘であったとしたら、なおさら彼女を見て目で快をむさぼるというぼくのあさましく卑しい下心が公衆の面前で明るみにさらされることになり、その上彼女はぼくを鼻で笑うだろう……


頬がげっそり落ち込んでいる、気をつけなよ

  仕事で家庭訪問した家のばあさんは、手足が常時痛み苦しんでいるのであるが、いかにも心配というふうに彼に言った。

「あんた頬がげっそり落ち込んでいる。どうしたの? 気をつけなよ」

 そういわれればそうかなと思い当たる。いつも睡眠不足のせいか、頬の当たりに苦痛を感じている。頬がげっそり落ち込んでいる感じもある。鏡を見てもそうはみえないのだが。

〈彼女に何とも思われていない〉という思い。もとよりそれは承知のこと。
〈思うだけにしておこう、思うだけならいいではないか、思われることは望むべくもない……たとえ思わることがあったとしても、その先は少しも望ましいものではない……〉

 それでも、一方では、それを望みたくなるのだ。〈思われていない、望みがない〉となれば、その状況は余りにも苦しくなるから……

基本方針「固く隠す」「何も期待しない」「機会を利用する」

  朝、彼は職場の駐車場で、時間ぎりぎりまで車の中でピアノ曲を聞いていた。

 聞いている間だけ情熱的な喜びを感じるので繰り返し聞いていた。

 モーツァルト、ハイドン…

 朝方、見た彼女の姿はややうつむき加減で、こよなく優しく、憂鬱げで、魅力的だった。
 憂鬱な甘い魅力。独特のやさしい感じ…
 いや、適切な表現は難しいが、そのときの感動が今日一日の心の糧となっていた。これで彼女をひと目見られたから、出張で外へ出かけることができる。そう思って彼は出かけた。

  出るとき、強いためらいがあって彼女の方へちらりと視線を向けることができなかった。

 朝方、彼女を見たあとで彼女によって心に呼びさまされた独特の甘美で複雑な喜びのことを思いながら、車庫に向かう道々、ふとこんな考えが浮かんできた。

 
モーツァルトやハイドンのピアノソナタ(短調)を聞くとき、独特の興奮、独特の喜びを感じる。その曲が彼の心に、ある複雑で甘美な喜び、感銘を引き起こすからだ。つまり「その曲には独特の魅力が備わっている」ということである。

  それと同じように、「今朝方彼女を見たときに、やはり彼はある深い、いいようのない喜び」を感じたのだった。それは、「優しい、どことなく憂鬱な優しさを感じさせるもので、彼女の姿態、顔立ちが、そういうものを心に呼びさます効果をもっている」のだ。

 彼女の魅力は、色香といっても、いわゆる色気といった感じのものではない。彼に感じられる彼女の魅力は、もっと複雑で、精神的な(というのは適当ではないが)何かである。その感じをあらわすことはできないし、それに近いニュアンスさえも伝えることは困難だ。

 甘美な、憂鬱な、メランコリーのイメージ…

 昼休み。彼は自分の年齢を忘れ、またしても愚かな妄想を抱きそうになる自分に水をかけた。

 それはもちろんそうだ。当然のことながら、〈基本方針〉はこうである。

1 彼女への関心を「かたく隠しておく」こと。

2 彼女に対してはいっさい「何も期待しない」こと。
  (これは絶対的な大原則。この二つの原則を厳守しながら、次のことが要求されるのだ。)

3 彼女を「見る機会をできるだけ利用する」こと。

4 「見る喜びを深く感じる」こと。

 


すっかりお顔を拝見できなくなりましたがお元気ですか(ある意味大胆な手紙)」

 これこそモーツァルトのハ短調ピアノソナタ

 彼女に自作の本を送った。その送付文に

《すっかりお顔を拝見できなくなりましたがお元気ですか。
 この度『×△×△』(彼女への思いを書いたとわかるかもしれない作品)を出しましたのでお送りします。》

「すっかりお顔を拝見できなくなりましたが… 」

 ある意味非常に大胆。

 その大胆さが普通ではないところに、劇的な要素がある。
 彼女との間柄から考えるとそんなことは唐突で非常識すぎる。
 そんな大胆な、いや、「厚かましい」ことをあえてやった、という驚きと困惑、戦慄…


病院訪問、複雑な状況、弟の病状は…

(7年くらい前の日記から)

 昨日、病院の医師から、病状を聞く。もう長いことはないという。治療しても効果があがらないどころか、数値が余計に悪くなっていく。今は治療の手だてもないので、痛みを抑えながら、様子をみるしかない。云々…云々…

 

 弟の宏喜は全身あちこちに痛みを感じながら、日々をベッドで過ごしている。歩くことは出来るが、歩くと痛むのだという。宏喜の顔、相貌がいつもとはちがって、きれいに、ある意味、崇高に見えた。口の髭をそっていなかった。

 気の滅入るところだ。もちろん、宏喜が可哀想である。

 

 ぼく自身の精神にとっても、一つの危機だと感じられる。つまり魂がどうしようもなくメゲルのである。それに抗して前を向いていく心の姿勢を保たなければ、潰れてしまうと感じる。

 
 
昨日横浜へ行く途中の新幹線の中で読もうと、アンリ・バルビュスの『地獄』(岩波文庫)を持っていった。昨日から少しだけ読み始めていた。最初の方で、今の自分にはあまりおもしろくなさそうだ、読むのを止めようか、と何度も思いながら読んでいたところだが、今日新幹線の中でほぼ半分近くまで読んだ。

 たしかに素晴らしい才能だ。けれども自分が求めるのは、プルーストのようなものであって、こういう作品ではない。恐ろしい容赦のない絶望がここには立ちこめていて、人は孤独だ、決して孤独から抜け出ることはない、人は死に向かって進むだけだ、すべてがそれに帰する、人間が経験するどんな喜びも最終的にそこへ向かっていく限りは無意味である、ということを、豊かで素晴らしい表現力で、これでもか、これでもかと繰り返す。何とも苦しい気持ちにならせる作品世界だ。救いがまったくない思いにならせるのである。びっしり書き込まれているせいもあるのか、いや、それよりも暗くたれ込めて、まったく救いのない文章なので、読んでいるととても苦しい。

 バルビュスを半分ほどで中断して、横浜へ着いたころから、もう一冊持っていた本を出して読んだ。それは鷲田小弥太著『パソコンで考える技術』 
 これはずっと以前一度読んだことのある本で、これは非常に面白いし、軽く読める。帰りもずっと読み耽って、ついに一冊読み終えた。

 
 
朝、九時過ぎに家を出て、横浜の病院へ。
 
夜十一時半ころ家に帰ってきた。
 
心に重すぎる陰があって、どうしようもない。何とかそれを乗り切るしかない。たしかに人生は陰に満ちている。暗いことや死や破滅や泥沼が至るところにある。そういう災難、惨めさは、いつでも人の暮らしの中へ侵入してくる可能性がある。そういうことを感じるとき、人生の惨めさの感覚が生じて、気が滅入り、くじける思いになる。そういう至る所で惨めさに隣り合わせている暮らし中にあって、バルビュスのように、救いのない絶望、虚無の心ではなく、生きることの喜びへと手をさしのべる心の必要があると感じた。絶望、虚無に蝕まれる生き方は、悲惨のなかで悲惨のまま終わってしまう。悲惨は悲惨、人生は悲惨に満ちている。それは抗いようのない事実だろう。けれども、そういう中にあって、自分や周囲の悲惨を現に目にしながらも、生きていられる限りは、絶望の方向ではなく、希望の方向に目を向けていることが重要なのではないか。通常、みな人はそうしているのではないだろうか。

 

たくさん読むより1冊をじっくり読む

 たくさん読むより1冊をじっくり読む

 読むべき本が沢山あるからといって、全部読もうと思うな。

 これはと思われる本に出逢ったら、その1冊をじっくり読んで、そこから得るものを得ることが肝心。

 必ずしも本を全体として理解する必要はなく、

 本の中に、「自分にとって利用できる箇所」を発見して、じっくりと読む。


 問題は、それに触れることによって自分の中に生じてくるものを刈りとることだ。


森鴎外「百物語」  〜〜生まれながらの傍観者ということ〜〜

 すぐに書こうと思っていたのだが…
 森鴎外の『妄想外三篇』(岩波文庫)にやはり「百物語」というのがある。
 
 語り手が人に誘われて、「百物語」の催しに出かけるという話である。
《百物語とは多勢の人が集まって、蝋燭ろうそくを百本立てて置いて、一人が一つずつ化物ばけものの話をして、一本ずつ蝋燭を消して行くのだそうだ。そうすると百本目の蝋燭が消された時、真の化物が出ると云うことである。》

 百物語で出かける途中のことから、出逢った人たちのことなどが語られていくが、会場である人物に出逢って、そちらに深く興味をひかれて、百物語はどうでもよくなる。
 語り手(僕)は〈飾磨屋という男〉に興味を引かれる。

 「百物語」の催しを主宰した〈飾磨屋という男〉のことを述べる部分。

《飾磨屋は一体どう云う男だろう。錯雑した家族的関係やなんかが、新聞に出たこともあり、友達の噂話(うわさばなし)で耳に入ったこともあったが、僕はそんな事に興味を感じないので、格別心に留めずにしまった。しかしこの人が何かの原因から煩悶(はんもん)した人、若くは今もしている人だと云うことは疑がないらしい。大抵の人は煩悶して焼けになって、豪遊をするとなると、きっと強烈な官能的受用を求めて、それに依って意識をぼかしていようとするものである。そう云う人は躁狂に近い態度にならなくてはならない。飾磨屋はどうもそれとは違うようだ。一体あの沈鬱なような態度は何に根ざしているだろう。あの目の血走っているのも、事によったら酒と色とに夜を更(ふ)かした為めではなくて、深い物思に夜を穏(おだやか)に眠ることの出来なかった為めではあるまいか。……僕は考えれば考えるほど、飾磨屋という男が面白い研究の対象になるように感じた。
 僕はこう云う風に、飾磨屋と云う男の事を考えると同時に、どうもこの男に附いている女の事を考えずにはいられなかった。》

この人が何かの原因から煩悶(はんもん)した人、若くは今もしている人だと云うことは疑がないらしい¥」

 つまり語り手(あるいは鴎外)は、飾磨屋というこの人物に自分を同化して見ているいるのだ。

 それは「自分は生まれながらの傍観者である」という点にある。

《僕は生れながらの傍観者と云うことに就いて、深く、深く考えてみた。僕には不治の病はない。僕は生まれながらの傍観者である。子供に交って遊んだ初から大人になって社交上尊卑種々の集会に出て行くようになった後まで、どんなに感興の湧(わ)き立った時も、僕はその渦巻(うずまき)に身を投じて、心(しん)から楽んだことがない。僕は人生の活劇の舞台にいたことはあっても、役らしい役をしたことがない。高がスタチストなのである。さて舞台に上らない時は、魚(うお)が水に住むように、傍観者が傍観者の境(さかい)に安んじているのだから、僕はその時尤もその所を得ているのである。
そう云う心持になっていて、今飾磨屋と云う男を見ているうちに、僕はなんだか他郷で故人に逢うような心持がして来た。傍観者が傍観者を認めたような心持がしてきた。

《生まれながらの傍観者である》という自己認識は、語り手の「僕」(鴎外)にとって、いわば「不治の病」のようなものであって、たぶん生涯にわたってずっと煩悶し続けてきたのである。

僕はその渦巻(うずまき)に身を投じて、心(しん)から楽んだことがない。僕は人生の活劇の舞台にいたことはあっても、役らしい役をしたことがない。高がスタチストなのである。

《僕は飾磨屋の前生涯を知らない。あの男が少壮にして鉅万(きょまん)の富を譲り受けた時、どう云う志望を懐(いだ)いていたか、どう云う活動を試みたか、それは僕に語る人がなかった。しかし彼が芸人附合(つきあい)を盛んにし出して、今紀文と云われるようになってから、もう余程の年月(としつき)が立っている。察するに飾磨屋は僕のような、生れながらの傍観者ではなかっただろう。それが今は慥かに傍観者になっている。しかしどうしてなったのだろうか。……飾磨屋は、どうかした場合に、どうかした無形の創痍(そうい)を受けてそれが癒(い)えずにいる為めに、傍観者になったのではあるまいか。》 

 飾磨屋という人物に興味を感じ、自分と同じなのではないかと想像している。
 そこには、語り手の〈僕〉がなめてきた傍観者であることにに伴う人生の傷、苦しみ、悩みのごときものがかいま見られる。もちろんそのような傷、苦しみは、文学をするモノという別の視線から見れば、このうえない魅力(財産)でもあり得るのだ。
 この作品のツボはそこにある。

 この視点の上にもう一つ、この作品で、飾磨屋が長年連れ添っている、〈太郎〉という女のことが書かれている。この部分も印象に残って興味深いのだが、それはここでは省略する。

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