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  • 2015.07.11 Saturday
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森鴎外「心中」  〜〜岩波文庫「妄想外三篇」から〜〜 

 森鴎外『妄想外三篇』読み終える。(読み返し)

 もうかなり昔に買った薄っぺらい岩波文庫、1992年第8刷

 以前に読んだときもそれなりの印象をもったと思うが、作品そのものの出来とか形とかよりも、自分にとって意味があると思われるのは、作品中の「ある一部」だという思いをもった。

 たとえば「心中」という作品がある。料亭に勤める〈お金〉という住み込みの女性が、語り手(書き手)である〈僕〉に、仕事中に体験した奇特な(珍しい)話をする、という設定。

《お金(きん))がどの客にも一度はきっとする話であった。どうかして間違って二度話し掛けて、その客に「ひゅうひゅうと云うのだろう」なんぞと、先()を越して云われようものなら、お金の悔やしがりようは一通りではない。なぜと云うに、あの女は一度来た客を忘れると云うことはないと云って、ひどく自分の記憶を恃(たの))んでいたからである。
 それを客の方から頼んで二度話して貰ったものは、恐らくは僕一人であろう。それは好く聞いて覚えて置いて、いつか書こうと思ったからである。》

 こんなふうに鴎外は、状況を設定し、その状況の中に深く入り込んで、話そのjものは細ごまと凝った展開になっている。
 それ自体は、話題として語るに足る話で、それでいいのだろうが、ただそれだけのことで、とくに印象には残らない。魅力的とか面白いとか思うほどのことはない。

 この作品の中で「面白い」と感じ、印象に残ったのは、主人公〈お蝶〉の、性格を記述した部分である。
彼女はその夜男と心中する。それがこの話である。

《こう云う入り組んだ事情のある女を、そのまま使っていると云うことは、川桝(この料亭)ではこれまでついぞなかった。それを目をねむって使っているには、わけがある。一
つはお蝶がひどくお上さんの気に入っている為めである。田舎から出た娘のようではなく、何事にも好く気が附いて、好く立ち働くので、お蝶はお客の褒めものになっている。国から来た親類には、随分やかましい事を言われる様子で、お蝶はいつも神妙に俯向(うつむ)いて話を聞いていても、その人を帰した跡では、直ぐ何事もなかったように弾力を回復して、元気よく立ち働く。そしてその口の周囲には微笑の影さえ漂っている。一体お蝶は主人に間違ったことで小言を言われても、友達に意地悪くいじめられても、その時は困ったような様子で、謹んで聞いているが、直ぐ跡で機嫌を直して働く。そして例の微笑)んでいる。それが決して人を馬鹿にしたような微笑ではない。(怜悧)で何もかも分かって、それで堪忍して、おこるの怨むのと云うことはしないと云う微笑である。「あの、(えくぼ)よりは、口の(端)に、(縦)にちょいとした(皺)が寄って、それが本当に可哀うございましたの」と、お金が云った。僕はその時リオナルドオ・ダア・ヰンチのかいたモンナ・リザの画を思い出した。お客に褒められ、友達の折合も好い、愛敬((あいきょう))のあるお蝶が、この内のお上さんに気に入っているのは無理もない。
 今一つ川桝でお蝶に非難を言うことの出来ないわけがある。それは外の女中がいろいろの口実を拵()えて暇を貰うのに、お蝶は一晩も外泊をしないばかりでなく、昼間も休んだことがない。佐野さんが来るのを傍輩がかれこれ云っても、これも生帳面()に素話()をして帰るに極まっている。どんな約束をして、どう云う中か分からないが、み舞をしないから、不行跡だと云うことは出来ない。これもお蝶の信用を固うする本になっているのである。》

 この短篇ではこの部分がいいと私は思った。ここだけ肖像画の中から切り抜いて額におさめておきたいと思うところだ。

 鴎外は世間で見かけたある女性の中にこういう特徴を見て取って(あるいは想像して)、それに強く興味を感じたのにちがいない。
 あるいはこれは鴎外自身の心を書いたのかもしれない。
 そういった鴎外の関心のほどが思い浮かぶので、この部分がおもしろく興味深いのである。
 
国から来た親類には、随分やかましい事を言われる様子で、お蝶はいつも神妙に俯向(うつむ)いて話を聞いていても、その人を帰した跡では、直ぐ何事もなかったように弾力を回復して、元気よく立ち働く。そしてその口の周囲には微笑の影さえ漂っている。》

《一体お蝶は主人に間違ったことで小言を言われても、友達に意地悪くいじめられても、その時は困ったような様子で、謹んで聞いているが、直ぐ跡で機嫌を直して働く。そして例の微笑)んでいる。それが決して人を馬鹿にしたような微笑ではない。(怜悧)で何もかも分かって、それで堪忍して、おこるの怨むのと云うことはしないと云う微笑である。》



思われているという幻想

前中、事務所でずっとワープロに向かっていた。
 さらに午後出張に出て帰ってからもずっとワープロに向かっていた。
 しばらくすると嬉しいことに彼女が帰っていた!
 
 それを知ったのはいつだったか。
 彼は彼女の方をあえて見ようとしなかった。自分のことの中に閉じ籠もっていた。

 一度彼女が近くへきたとき、S氏が彼女に「Mさん、午後帰ってきたの。帰らなくてもいいのに… 総務課長が帰れといったのか… 」といっているのが聞こえた。S氏が彼女に好意を感じているらしいことは察せられる。

  どうやら彼女は神戸へ出張にいっていたらしい。通常神戸へ出張したときには、事務所に帰らなくてもいい、という慣例があった。

 彼女はS氏に何か答えていたが、その声はやや低いおさえめの声で、彼女独特の優しい調子である。その声を聞くだけで、その語調を聞くだけで、彼は彼女の優れた品性、魅力を感じてしまうのだ。そのときの彼女の声の調子がおさえぎみで、感じがよかったこと、やや当惑しているように彼には感じられたこと(いつものことだ。彼には彼女の語調が彼を意識して、心持ち当惑しているように感じられてしまうのだ)が彼に喜びを与えた。

 彼の感じたのは、「彼女が出張から帰っていままさに彼を傍に見て喜びを感じている…」ということだった。
 彼女の存在を見、彼女の声を聞くとき、深い喜びや震えとともに、彼がほとんど反射的に感じるのは、「彼女に愛されている」という気持である。
 ああ、実に奇妙なのはこの点である!
 彼の理性は現実的な判断力を失ってしまったのだろうか? 気をつけてみるなら、他の女性の行為も、見ようによっては、彼を意識しているかのように感じられるものである。しかし、そんなことはありえないということは明らかだ。普通の何でもない態度、語調が、見ようによって意味ありげに感じられるということにすぎない。彼女の素振り、当惑、語調も、そう考えて見れば、何ら特別のものではないことがわかるはずだ。ただ、彼女をひどく意識する彼の想像力(感受性)がそれを意味あるもののように感じとってしまうのだ。
  考えても見よ。S氏と彼女との短い会話は、ただのありふれた会話にすぎない。そのとき彼は彼女の方をまったく見向かなかいで、ワープロに向かっていたが、彼が耳にしたのは彼女の短い言葉、語調だけである。彼女が彼を思っていると感じた根拠と言えば、彼女の語調だけであり、他には何もない。いったいこれは何という乱暴な推論であろうか!  彼女がもし彼の推論を知ったなら、さぞ驚きあきれ、困惑するにちがいない!

  彼は一瞬強い幸福を感じたが、やがて以上のような反省を行い、彼女に思われているなどというありえない甘い幻想を繰り返し自分に対して打ち消した。彼は多忙のせいもあって彼女の近くへ一度も行かなかったし、行くのがひどく億劫な感じもしていた。行けば、われながら醜い気遣いをしなければならない。彼女から離れているほうがずっといいではないか。ただ、時々通りかかる彼女の感じをそっと目の片隅の方で感じとる。彼女の声を遠くから注意して聞いている。それだけいい…そんな気持だった。何も望んではならないし、勿論望むべくもない…愛されるなんて…そう思いながらも、この世に二つとはない彼女の姿がちらっと見えると、こりもせずにやはり同じ思いに支配されてしまうのだ。

  彼はしかしずっと彼女から離れていた。どうとでもなれ。彼はずっと黙っていたが、たまに人と話すときには実に生き生きして、自然で、軽やかな、感じのいいもののいいかたになった。自然にあふれるように、愛想のよさがわいてくるのだ。教育事務所のT氏が来て、ある用件について彼にたずねたときもそうだった。また、近くにK女史が来ていたときにも、彼は彼女にちょっと聞きたいことがあったので、声をかけた。そのあとKさんが彼の近くのワープロ用紙をとりにきたとき、彼はちょっとくだけた調子で、「リボンのテープは高いのでしょう?」といってやった。Kさんは経理担当らしく、経費節約のことを話しはじめた。そうしたやりとりを通じて、彼は自分が自然と軽快で陽気になるのを感じていた。それ以外は一日中彼はほとんど無口で黙ってばかりいたのだが。そしてやはりどうしても彼は、《彼女に思われている》という非条理な確信(というよりは気分)に取りつかれていきがちであった。それはそれでいいだろう。ただ、図に乗らないことだ。あくまでも自分を自分の中にとどめておくことだ。自分一人で(彼女なしで)秘かに甘美な夢想を享受するということだ…たとえばモーツァルトやショパンのピアノ曲を聞いて…ああそれだけで満足できるものならば…

 また、彼の前任者のK氏が彼がワープロを打っているところに来て何か話したそうな感じがした。彼も何かいいたくなったのでちょっと話し込んだ。ケースについていろいろ思い出せる限りのものをあげて彼に質問した。彼は実にいい感じで話すことが出来た。「ああしんどいわ。一日中ワープロに向かっているとしんどいな。字が下手だからワープロで打つしかないし…」
 K氏は「よういうわ…」といった。K氏がこんなにいい人だとは、四月まで思ってもいなかった。彼は、K氏を地味で無口で、さえない人だとくらいにしか思っていなかった。

 

横浜の病院から電話がかかってきた

 この素材は面白いし、いい作品になりうる、という気がする。
 問題はそのままの形で出すのはまずい、ということ。
 個人的なことを知人たちに知られたくない、というような心の奇妙な事情がある。
 文学作品はフィクションなのであって、まったくの作り事だと思わせたいのである。
 そこでそれを分からない形に変形しようとする。
 何かを書けば、たとえまったきフィクションであっても「個人の体験」だととられがちなことは経験からよくわかっている。


 2月12日
 ようやく会計検査も終わり、後は占用更新の作業を片づけて、その他もろもろ非常に多忙ではあるが、そう困難な問題もなく、任務を全うして次の担当に引き継ぐだけという思いでいたところ、またまた新しい調査ものが入って、それも日数に余裕がない。
 左腕の深刻な痛みがいっこうによくならないところ、これからまだ3月終わりまで片づけなければならないことがいっぱいある。ようやくそれに向かって集中しようと思っていたところ。
 痛みはそれ自体だけならそれほど深刻ではないのかもしれないが、それが生じる原因、それが進展していく先の事態を考えると、深刻にならざるをえない気がしている…


2月22日
 課題(フィクション化するにはどういう設定がいいか?)

 先々週木曜日だったか、横浜の病院から電話がかかってきた。病院の看護師(婦)さんからで、担当の医師が一度会って弟(昭彦)の病気の情況などを話しておきたいので、来ていただけませんか、ということだった。

 ちょうどその翌週月曜日が提出期限となっている本社からの調査もの(国の調査)があって、今はとても手が離せない。金曜日までには何とか片づけられるだろうから、土曜日ならかろうじて行けるかもしれない。ただそれではきつい。そんなことを考えて、「できることなら火曜日にしてほしい」と答えると、看護師(婦)さんは、担当の医師に聞いてみますとのこと。

 調査ものはほぼ金曜日には完了して本社に報告できる見込みがあった。もしできなくても、土、日出勤すれば、月曜日にはできるだろう。
 医師に聞いた結果の返事の電話がまた来るかもしれないので気になっていたが、調査に関係して現地を見にいく必要があったので、漁港へ出かけた。

 その翌日(金曜日)の朝、横浜のマルバツ病院の看護師(婦)から再び電話。先生に聞いた結果、「すぐにでも来て欲しいということです」
 前日の話では「病気と治療の状況を話しておきたい」ということだった。
 それだけでも重大なことかもしれないという気はしたが、当方は、今日、明日のことではないのだろうと思っていた。

 今回の電話ではもっと早く来られないかということらしい。事態はそんなのんびりしたものではなく、思いのほか切迫しているという印象の話である。
 当方は、それでは… と思案しながら、調査物の処理は、土、日出勤すれば何とかできるだろうと踏んだ。
「今日行きます」と答えた。
「何時ころにこられますか」 と看護師(婦)さん。「もし急な事態になったら連絡する携帯電話連絡先はないのですか」
「夕方5時半頃。携帯電話はありません」
 もう少し早く着くだろうという目算はあった。

 これはいよいよ危ないのか、と思うと弟(明彦)が可愛そうでもあり、この土、日に仕事をするどころではなくなるという思いが交錯した。報告ものを仕上げて送り届けないと本社の西野君が困るだろう。月曜日の期限に間に合わすには、この土、日どちらかに出勤しないとまずいだろう、という思いが繰り返しきた。

 すぐに家に帰り、横浜へ出かける準備をする。
 準備といってもただ服装だけだが、高校生の娘に「横浜へ行くからお母さんに伝えて」と何度か念を押した。それからわが末の弟の伸二の携帯電話に連絡した。伸二は今日は仕事を休んで町へ出てきている、これから病院へ行く予定だったという。
 すぐに伸二はわが家に来た。少し話をする。
 こちらはすぐ出かけるが、後からゆっくり横浜へ来るように言って別れる。伸二も動転している様子。
 ちょうどバスがくる時間だったので、すぐ高速バスの停留所までいった。しかし、時計を忘れてきたことに気づく。取りに帰れば次のバスになり1時間遅れる。しかし、5時までには着くだろう。迷ったが、取りに帰ることにした。看護婦の話ではもう危ないという感じだったから、もし明彦が亡くなったら、不案内な横浜で、しかも役所が閉まっている日曜日のこと、どうしようか、と繰り返しあれこれ考えた。

 舞子で高速バスを降りて、JRに乗り換え、新大阪まで。
 退職を迎えて自由を愉しもうと思っていたところ、自身重大な病気に懸かっていることが発見され、左手の痛みがずっとある。そのうえに弟がこんなことになってどうしようもない。ひたすら耐えるしかない思いだった。…

 新大阪から新幹線に乗った。車中ずっと本を読んでいた。先に博多へ出張したときに買った古代史の本『天皇と日本の起源−「飛鳥の大王」の謎を解く』(遠山美都男著)
 先に古代史関係の本を2冊読んだ後だったので、博多駅構内の本屋で目にして買ったものだ。それなりに興味深く読める。先日博多へは、以前から読みかけていた文庫本、ジェイン・オースティンの『説き伏せられて』(岩波文庫)をもっていって、旅中に読み終えた。オースティンはやはり非常に愉しく面白く読めた。この作者のものをもっと読みたい思いを感じた。博多の天神駅まで夕食を取りに行ったとき、ジュンク堂書店…
(今は3月2日、日記をつけるのさえもなかなか思うにまかせない。本質的な失語症的な状態のせいだ。)

 


夢 〜彼女に会ってくれと頼んで、会いにいく〜

  朝方、夢を見た。

〈彼女〉に会ってくれと頼んで、会いにいくところから始まる。

 待ち合わせの場所は、映画館か会館のような建物の入り口のところ。待ち合わせ時刻は夜の10時で、時計を見ると、もう10時になろうとしている。何とか間に合いそうだが、ちょっとまずいな、ぎりぎりの時間になってしまった、と思いながら行く。
 彼女に会ってほしいと(手紙でだろうか?)頼んだが、そんなことをしてよかったのだろうか、とんでもないことだったのではないだろうか、非常識な要求に彼女は怒っていることだろうか。ひょっとしたら彼女はきていないかもしれない。おそらく彼女のことだから、不快に感じてもきてくれるだろうか。そんな思いがあった。
 目的の場所に着くと、彼女がいた。そばに自転車が見えたから、それで来たもののようだった。時間が遅いので、残業していたのだろうかと思う。
「喫茶店でも入ろうか」と自分はいう。このときには場所は、街のスーパーマーケットの手前らしいところで、家並みの途中にたしか喫茶店があったなと思い、そちらに向かう。
 どういうわけか、彼女とは別々のルートで歩いていった。自分は少し行き過ぎたと気づいて、彼女が歩いていったはずの道に入って、道ばたの人に「このあたりに喫茶店がありませんでしたか」とたずね、それから少しもどる方向へ歩いていく。喫茶店はすぐにみつかった。入ると彼女がいた。
 自分は笑いながら何か言った、と思う。
「いま子供さんは何人ですか」といったことを記憶している。2人であることは知っている。その後、もう1人くらい生まれたかもしれない。
「3人です」と彼女。「女1人と男二人です」
 あれからまた1人生まれたのだなと自分は思う。
「うちと同じやなあ」とあまり考えもしないでいった。そういったことが彼女の気を害したかもしれないと思いながら。
 彼女はさして魅力的とも感じられなかった。印象がなまめいていた。目にするごとに、心をビビッとふるわせるようなニュアンスを感じた。それは彼女特有の色合いを感じるからだが、違和感もあったように思う。
 そのとき二人の男性がその場にきた。1人は彼女の夫だった。自分は夫と向き合って、ごく普通に好意的な調子で何かしゃべったようだ。いつのまにか彼女はいなくなっていて、これはあらかじめ彼女が夫らと示し合わせてきたのだろうかと思い始める。……

 


夢  UFO(宇宙船)が飛び立つ


「ねえ、お父さん、わたしさっき夢を見た」と娘のミナミが言いに来た。「歌手の氷川清がテレビに出ている夢」

 何でも、テレビの中で【1】という数字が悪いという話を誰かが氷川清にしていて、それを受けて氷川清が
「そういえば、子どもの頃、男の先生に怒られて、こんなことを言われたよ」と言った。「おまえの誕生日は9月1日で、【1】がついているから、地球が壊れる。けれども【1】を折り曲げて、・・・・・・・したら(ここのところがよくわからない)大丈夫」
 それから別の夢だと思うが、津波があった。家から少し離れた場所(小学校時代の女友達の家の近く)のあたりで、誰かの犬が死んだが、自分たちの家族は大丈夫だった
 さらに別の夢が次にあって、UFO(宇宙船)が飛び立つのを見た。
「向こうの方へ飛んでいった。めちゃくちゃ怖かった。私は〈宇宙船がとんだあ〉と言ったとき、目が覚めた」


 津波があったというのは、ちょうどインド洋の大津波があった直後のことで、連日、その被害の模様がテレビで報じられていた。津波は恐ろしく破壊的なもの、それが自分や家族や世界をつかまえて滅ぼしてしまうというような不安が、無意識のうちにミナミの心の底に作りだされていたのかも知れない。
 わが家は海から相当離れた位置にあるので、まず津波の心配はない。
 この夢では、被害は家の近くまで押し寄せて、少し離れた友達の家のところでは犬が死んだ。けれども自分のところは何とか大丈夫だった。
 すぐ近くからUFOが飛び立ったが、それはこちらではなく「向こうの方へ」飛んでいった。

価値は、彼女自体の中にはなく、彼女によって彼が感じたものの中に

 相変わらず彼女のことを思う。
 思い浮かべられるイメージは、どちらかというとそんなにきれいでもなく、魅力的というのでもない。彼女を見るときのあの喜びはもはや蘇らない。いったいあれは何だったのだろうか。単なる迷いだったのだろうか。

 いや、迷いではない。あれは明らかな事実なのだ。彼女を見て素晴らしい希有な喜びの情を感じていたということは。

 ときどきはっと驚くことがある。

 彼女への思いの本質(そのもっともすばらしい本質)は、可愛いとか、愛してやりたいとか、守ってやりたいとか、いったものではない、ということ。

 彼女を「思う」ことが一つの驚き、戦慄、あってはならない、あるはずもないこと、というイメージがある、まさにその感じがその本質であるということ。

 その驚きの感じ、正体を鮮明に認識することはできない。(戦慄、驚きの裏面は、羞恥の心、恥ずかしさである、という気がする。)

 日記を読み返してみても、もはや彼女と顔を合わせることもないかもしれない、彼女を明日見られるあてがあるのでもなく、もうこれで永久に別々の空間で暮らすようになってしまうような気がしているいまでは

「かつて彼女を見てあのようなものを感じたこと」
「彼女に思われていたかもしれない、すくなくとも彼女に自分の思いを知られ、それなりの心の通じ合いのようなものがあったかもしれない、といったこと」も、今となってはもう意味もなくなってしまったのだ。

 ふたたび彼女を見て、彼女と心が通じ合い、彼女を思い、彼女に思われるかもしれないといったことが将来にありえないなら、かつて思われたかどうかといったことに、何の意味があるだろう。……

 この項で書くべき本質は、かつて感じたことがまったくの幻覚=無意味だったということではない。

 そうではなくて、あれは「まぎれもない価値」だった、

 結果的に「単なる幻覚だった」という結論が出たとしても、

 その幻覚が生んだものには、まぎれもない真性の価値がある(あった)、ということだ。

 たしかに幻想、幻覚の類は、通常結果的に否定的な評価にいたるようだが、そんな幻想・幻覚が生じてそこに、この世にありえないような類の喜び、言葉ではいいようのないような価値の予感(実感)がそこから得られたのなら、まさにそんな予感(実感)こそ、真に価値があるというべきではないだろうか?

 思うに、これは、こういうことになるのではないか。

かつて彼が見て喜びを感じていた相手である彼女その人〉にそのような価値があるということではなく、〈かつて彼が彼女を見て感じていた喜びそのもの(いいようもなく深い憂愁の色に染まっている)〉に価値があるのだ、ということ。


【断章】 迷路のように進んでいってもたどりつけない道


《それにはいかなる希望もなく、脇道もなく、迷路のように進んでいけばいつかはたどりつけるかもしれない、というのでもない、完全に閉ざされている道だから…
 そういう考えが強くわきおこるときには、彼は苦痛を感じる。しかし、そういう考えを忘れて、何かしらまやかしの希望のようなものを感じているのがいつものことなのだ。
 憂鬱、悲しみ… 彼女を目の前の見れば悲しみもわこうもの。しかし、離れて思うときには、希望がわいてくる。
 道が閉ざされていることを頭に浮かべると、強い苦しみがわいてくる。》

 これは面白い表現で、まるでカフカの世界ではないだろうか。

 もちろん、これだけではただそれだけのことだが。

 このブログを創作ノートの場にするのは、ひとまずやめて、随意に面白いと思ったことを、あれこれと顧慮することもなく、、掲載していくことにする。


自分のパソコンへ帰る

 要するに、ブログはブログ。
 創作のための材料を並べて、それを料理するのに適した場所とはいえない。
 ということに気づく。

 ブログでは、大量に掲上されたデータを一覧的に見て、その中からどれかを選択して内容をみる、これとこれを組み合わせたらいいかもしれない、といった作業に向かない。(当然のことながら)

 ネット上のファイル保管サービスというのも、無料のものからあるようだが、これはファイルをパソコン内に保管するのと同じ感じで、ネット上に保管するもの。パソコン内に保管したのと変わらない。

 方法のことであれこれ模索するのは、要するに、何か便利で楽なやり方はないだろうか、という怠け心からきている。

 つまり直接創作と向き合う困難から逃げて、奇跡的にスラスラと仕事が捗っていくようないい方法がないか、と模索しているものである。

 ものを創ることに直面して感じる困難(不可能)性、を打開してくれる安易な方策を求める心から来る。
 信じられないほどうまくすらすらといく方法があるのではないか?
 しかし、そういう方法は見つからない。たとえ見つかったとしても本質的には同じなのだ。自分と向き合って、呻吟しながら新しいものを生み出していくという作業は避けて通れないのだ。

 ほかに便利な場所を求めたものの、結果的には、もともとの自分の場所に帰ってくることになる。
 ネット上ではなく自分のパソコンの中に場所を設けるのが一番いい、という結論になる。

 そこで思いあたるのは、古い自分のパソコンの中のファイル。

 たとえばStoryEditor(フリー)とか、アイデアツリーとか、カシス(Kasis)ノートブックとか、ツリー式のソフト(アウトラインプロセッサー)がいろいろあるが、あれのほうが向いている。

 左側に文書の見出し(表題)が一覧表示される。
 一覧の中からどれか選ぶと右側にその内容が表示される。
 文書間の入れ替えは自在に出来る。階層構造で管理することも出来る。

 あれを昔使っていたのに、いつのまにどうして忘れてしまっていたのだろうか。

 どんなに便利な道具を使うにしても(たしかに便利な道具はいろいろある)、そんなにスラスラと安易に仕事ができるものではない、ということだ。

 素朴そのものの方法でやっても、便利と思われる方法でやっても、同じような困難が待ち受けていて、それを避けて通ることはできない。

 「自分から逃げない」で、「自分のパソコンの中のストーリーエディターへ帰れ」ということ。

 かつてそこで困難を感じて行き詰まったから、外部へ救いを求めたのだろうけれども、外部へ逃れても救いは訪れない。

 自分から逃れて外部に救いを求めても、何も生まれない。

 結局のところ、「自分に帰って、自分に向き合う」という最初の地点にもどることになる。

幻想の生じるところ ―人の心―

 

幻想が今日も彼を支配していた。

 

幻想−それは心の期待とそのときの外界の印象、見たもの、聞いたものなどをもとにつくり出される。

 

 人はどうしても心が予期し期待するもの、あるいは恐れるものに関心があるものだから、観察された外界を自分の心の期待、恐れに沿った形で想い描こうとする。期待しているとおりであるか、期待外れであるか、という関心をもって、人や物を見る。期待の気持にあっているように取れる事実(それはたいていはっきりしない、どちらにでもとれる性格のものであるが)が少しでもあると、喜びが生じ希望が生じる。勿論始めは随分慎重に控え目に疑いの余地あるものととして受け取るのだが、それが度重なり慣れてくると、次第にそれが確信に似たものに変わっていく。しかし、それはけっして最終的な確信に達することはない。いつも不確かなもの、疑いの余地があるものであることにはちがいないのだが、しかし、ついそれに強く引きずりこまれていって、愚かな自惚れた希望を抱き始め…

 

 期待に反すると思われる事実が目撃されれば傷つくが、やがてはひょっとしたら…と思い始める。つまり期待に反する事実のように見えるが、そうではないかもしれない、別の理由があるのかもしれない、という気がしてくるのだ。

 

それは希望的な事実を目撃したときにもいえることだ。つまり彼女に思われているという強い確信に達した後で、冷静に反省すると、別の理由の可能性が発見されたりして、あれは必ずしもそうとはいえない、彼女が彼を思っているせいであるとはいえない・という結論に達するのである。その場合には確かに期待外れの苦しいものが再びもどってくることになる。

 

 たとえばはっきりした物の形を認識するときにも、人はその物の形を想像力によって作り上げている、という要素が多分にある。ここに鉛筆がある。人は鉛筆の形をはっきりと認識する。しかし、鉛筆の像は網膜の中にそのような形で入ってくるのではない。人は網膜に映った像を反射的に立体的な鉛筆の形としてとらえているのである。鉛筆の形は人が精神の中で反射的に作っているのである。鉛筆はそういうものとしてあらかじめ人の精神の中に記憶されていて、そのような形の刺激にはこのような像がイメージされるようになるのだ。

 

 人は環境に対していつもそうした形で対処している。

 

 自分の関心、自分の型に合った形で外界を想像し形作っていくのだ。それは経験の積み重ねによって概ね事実から掛け離れていないことが証明される。

 

 たとえば通常人は自分で円い地球を見たことがない。しかし、写真で見たり、教えられたりして、地球は丸い、ということを知っているので、それに沿って地球をイメージする。人は普通直接に日本列島の姿の全貌を見たことがない。しかし、人は大阪、東京、北海道、九州というところがあって、飛行機で行くとそこへ行けることを知っている。そこへ行けばそれぞれの場所でいろんな町や村があって、人々の生活が営まれていることを知っている。それも想像力の働きなのだ。

 

 周囲の人の心や思っていることについては、自分との関係で、いつも非常に気になっているので、人はいろいろな微妙な事実、徴候によって、それを読み取ろうとする。人の精神にはそういう想像力が発達しているので、観察された事実に基づいて(顔の表情や動作や小さな事実によって)、人は身近な他人の心を推測する(感じとる)能力を発達させている。想像力が事実を作っていくのだ。勿論それが事実にあっている場合もあるが、事実からかけはなれていく場合もある。特に感情の色に強く染められて期待(あるいは不安)の気持ちがとても強い場合には、人は自分で自分の幻想を紡ぎ出していくのだ。

 

 日常生活の中でも、我々は、人から好意を持たれている、人の目に自分が素晴らしい姿で(あるいは滑稽な姿で)映っているという自惚れた(あるいは逆の)幻想がしばしば心に浮かぶものである。

 


ひとりきりでひたすら自分のために書いたもの

 何年か前にプルーストの本から書き写した文章がノートに残っていた。
 とてもいい言葉だが、すっかり忘れてしまっていた。

 どんなに深く印象に残る言葉でも、繰り返し目にしていないと忘れてしまうのだ。

 以下、マルセル・プルースト『サントブーブに反論する』(保苅瑞穂訳、ちくま文庫所収)より。

《一冊の書物は、私たちがふだんの習慣、交際、さまざまな癖などに露呈させているのとは、はっきり違ったもうひとつの自我の所産なのだ。このもうひとつの自我を理解しようと希うのなら、私たちはわが身の深部にまで降りて、自分のなかにこの自我を再創造してみるほか、成果を得るすべがない。こうした内心の努力を免除してくれるようなものは、何ひとつありはしないのだ。この真実は、一から十まで、私たちが自力で作りあげねばならぬものだ。ある朝、友人の図書館司書が、未発表書簡を一通送ってきてくれて、かくて郵便物とともに真実が手元にころがりこむとか、作者と非常に親しかった某の口から、真実が入手できるとか当てこむのは、あまりにも安易にすぎる。》

孤独にひたりつつ、自分のものでもあれば、他人のものでもあるような言葉には、沈黙を命ずる。たとえひとりきりでいようと、自分になりきらないまま物事を判断しているようなとき、私たちが使っている言葉は、黙らせてしまう。そして自分自身にあらためて面と向いあい、おのが心の真の響きを聞き取ってそのまま表現しようとする。それが文学の仕事というものだろうが、サント=ブーヴは、この仕事と会話とのあいだに、どんな境界線も引こうとしなかった。
 実際には、作家が一般読者に提示するのは、ひとりきりで、ひたすら自分のために書いたものであって、それこそが彼自身の作品なのである。

深いところで私たち自身の本質をなしているこうした過去と比べれば、知性の真実などには、まるで現実味がない。》

芸術家は単独で生き、目に見える事物の絶対的価値など問題にせず、もっぱらおのれの内部にのみ価値の尺度を置くものだということが 知力自慢の人々には分らないのである。どこか、地方の劇場の、聞くに耐えない演奏会でも、趣味の良い人たちからすればとんだ物笑いのダンス・パーティでも、オペラ座で聴く完璧な演奏や、フォープール・サン=ジェルマンの優雅この上ない夜会よりも、芸術家の内心にずっと豊富な回想を呼び起すことがあるし、一連の夢想や関心事と、はるかに強く結ばれあうことだってありうるのだ。北フランスの鉄道時刻表に、さまざまな駅名が載っている。それを見ながら彼が思い浮ぺるのは、秋の夕ぺ、車両から降り立つ自分の姿だ。木々はすでに葉を落し、澄みきった空気に特有の匂いを放っている。…趣味の良い人たちには、時刻表など無味乾燥と映るだろうが、そこには、少年時代このかた、絶えて耳にしなかった名前が満載されていて、彼にしてみれば、立派な哲学書とはまたまったく別様の価値があるものなのだ。高尚な人たちはそれと知って、才能ある男なのに趣味はひどく低級だなと言うかもしれない。》

 ただ引用することができるだけでも、嬉しくなる言葉である。

自分のものでもあれば、他人のものでもあるような言葉には、沈黙を命ずる。自分になりきらないまま物事を判断しているようなとき、私たちが使っている言葉は、黙らせてしまう。そして自分自身にあらためて面と向いあい、おのが心の真の響きを聞き取ってそのまま表現しようとする。

 そのとおり、これだ、と思う。しかし、それをどう自分の文章に生かしていくのかとなると、まったくどうしようもない。


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