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  • 2015.07.11 Saturday
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ゆがんだ風景

  
   ゆがんだ風景


   傾  く

  世間のことやこの世界のことについて、まだ何も知らなかった子どものころ、夜になると、ときどきぼくは遠いどよめきを聞くことがあった。ほとんど聞きとれないくらいの遠く鈍いどよめき。たとえていってみるなら、ドーン、ドーンと巨大なハンマーで地面をたたくような音。遠く、実に遠くで起こる物音なので、ほとんど音とはいえないような響きなのだ。その音に、かすかに、何ものとも知れないイヤらしい奇声が混じって聞こえるような気がした。ぼくの想像では、それは悪魔たちが世界を引きずり下ろす音だった。大人たちのだれにも聞こえないその音が、子どものぼくの耳には入ってきた。どんなに耳をふさいでも、それは聞こえてきた。聞くまいと思っても、どうしても耳を傾けないではいられなかった…
  また、別の夜には、どこからともなく、キーンという音が聞こえてきた。その音は、地面の底からのように、長くいつ果てるともなく続くのだった。すると、ぼくの脳裏には一本の火の見やぐらの姿が見えてきた。それは鋼鉄の棒を組み合わせて出来たもので、ぼくらはそれを『ハンショ(半鐘)』と呼んでいた。ぼくの家の近所にもそれが一つあった。そこはぼくらの恰好の遊び場所の一つだった。一番上の所に釣鐘が一つぶら下がっていた。ぼくはよく下からハンショを見上げた。すると、青い空を明るい真っ白な雲が動くにつれて、ハンショはどんどん傾いていった。
  夜、ぼくの脳裏に浮かんだハンショは、ぼんやりしたもので、昼間のような明るさはなかった。どこか向こうの方にあって、じっと見ていると、キーンという音とともにやはり少しずつ傾いていった。少しずつ、ほんの少しずつ…不思議なことにそれはいつまでたっても傾き続けた。傾いても傾いても、まだ傾き続けて、しまいには見ているぼく自身までがいっしょに傾いて、闇の中へと沈んでいくのだった…
 

     火の玉 
     

  子どものころ、ぼくは幽霊を異常なほど怖がっていた。夜、外出するときや便所に行くときなど、いつも幽霊のことを思って、周りに目を凝らした。いつもありもしない影を想像して、心臓が凍りつきそうになった。後ろから何か気味悪いものの影が近づいてくるような気がし、前方に何か得体のしれないものがあらわれないか、見えてはならないはずのものが見えたりしないかという思いから自由になれなかった。
  そのころ火の玉のうわさを子どもたちはよくした。田舎の風習で、当時はまだ人が死んだら土葬する風習が残っていた。ぼくの祖父が死んだときもそうだった。葬儀があったあと、墓地の近くの家の子どもが、火の玉を見たといっていた。大きな火の玉が、夜、彼の家の屋根の上をグルグルまわって飛んでいたとか…「気持ち悪かったで…」とその友達はいった。
  祖父はぼくをとても可愛がっていたので、ぼくの名前を繰り返し呼びながら死んでいった。母はぼくに「おじいちゃんのところへ行ってやり。あんなに名前を呼んでいるじゃないの。もう死ぬかもしれないのよ。最後に行って手を握ってやり」としきりに言った。しかし、ぼくは祖父の寝ている部屋に近づくことをイヤがって、絶対に行こうとしなかった。祖父は死のうとしている。呼吸をするたびに、喉が変な音をたてている。ぼくはどうしても祖父に近づくことができなかった。
  祖父がぼくの名前を呼びながら死んだ陰には、ぼくの実父の思い出があったのだ。実父は養子としてぼくの家に来た。彼は、地味で、人目を引くことを嫌う、憂鬱な性分だったようだが、気立てがやさしく人なつこいところがあったらしく、ひどく祖父の気にいっていたらしい。ぼくが3才にならないうちに父はこの世を去った。そのとき祖父は泣いて彼の死を惜しんだ。「どうして先に死んだのか」と。祖父は盲目で、その後の生活は真っ暗だった。
  ぼくは父と瓜二つだとよくいわれた。しばしば祖父は間違えて父の名でぼくを呼んだ。死ぬときも、祖父はしきりにぼくの名を呼ぶ一方で、とっくに死んだぼくの父の名を繰り返し呼んでいた。
  ぼくの名前と父の名前を交互に呼びながら死んでいったという人が、ほかにも三人いる。父の母親や兄姉たち。父は若くして病気で死んだので、その思い出が近親者から特に大事にされていたようだ。彼らがぼくの名を呼びながら死んでいったというのも、ぼくへの親愛からというよりは、父の思い出がそれだけ深かったということなのだ。ぼくはごく小さい子どものころを除いて、彼らとはそれほどつきあったことがない。それにいろんな点でぼくは父ほどには人から愛される人柄ではなかったのだから。
  夜、外出するとき、あちこちの家の電灯の光が火の玉に見えてしようがなかった。ぼくは真っ暗な田舎の屋外を歩きながら、あれは火の玉ではないか、向こうのは何だか尻尾を引いているように見えるぞ…ひょっとしたら…といったことばかりを思っていた。冷たいものを背筋に感じながら。
  そんなある夜、部落の子どもが集まって祭りの練習をした帰りのことだった。ぼくは一人いつものとおり、こわごわと、あちこちの光の玉を吟味しながら歩いていた。意識しはじめると、いくらおさえてもだめなのだ。まるで冷蔵庫の中に入ったみたいな感じ…ふと遠く西の空にいつもとはちがった小さな光の玉が飛んでいるのが目に入った。するとぼくの目はもうそれから逃れられなくなった。それは紛れもなく尾を引いていて、おたまじゃくしのように尻尾を振りながら北から南へと動いていた。ぼくは、まるで魔につかれたように、歩きながらじっとそれを見ていた。それは、向こうの山までは遠くない、しかしすぐ近くというほどは近くでもないあたりの空間を、ゆっくりと泳ぐように飛んでいた。じっと見ているうちに、怖さがこうじてくると、目をそらして、もう二度と見まいと思うのだ。しかし、しばらくすると、またそれを見て確かめたくなった。見ると、まぎれもない…飛んでいる…ちょうど神社の巨大な樹木がひろがっているその近くの空をふわりふわりと飛んでいて、その大きさからみて、樹木よりはかなり向こうのように見えた。見るたびに説明できないような恐怖を感じた。そのようにして、ぼくはようやく家に帰った。家には祖母がいた。ぼくは真っ青な顔をして、祖母の顔を見たが、何も言わなかった。そして窓のところへ行くと、こわごわと、そちらのほうの空を見た。すると窓の外にアレがやはり見えるのだった…
「何をみているの?」と祖母がきいた。
「いや、何も、別に…」
  祖母に火の玉のことをいうことはできなかった。それは恐ろしいことで、祖母を不安に巻き込むだろう…ぼくはそれが怖かった…
 
  いったい、あれは何だったのだろうか?  幻覚だったのだろうか?  と今でもときどきぼくは思うのだ。確かにあれを見た。それはまちがいない。気のせいなどではなかった。しかし、いったい、あれは幻だったのだろうか?  それとも本物だったのだろうか?
 

     揺れる
      
  夜中、部屋にこもっていて、ふっと何気なく書棚の方を振り向いたとき、おかしなことに気づいた。本たちが揺れているのだ。もう一度振り返ってみると、やはりまちがいなかった。書棚の本たちが海の底の海藻みたいに、いっせいにゆらゆらと揺らぎ、ある段のはちょっと右に、別の段のは左にといった風に微妙にかしぎながら、ふくらんだり縮んだりして、奇妙な具合に揺れ動いている。みんな何かしら喜ばしい精気を与えられた生き物たちであるかのように。 ああ、そこには何という生命がぎっしりと詰め込まれていることか。いや、待てよ。これはみんなぼく自身の中の風景かもしれないぞ。本たちはぼくの中で息づき揺らめいているのではないだろうか?  不思議な可能性をささやきながら、本たちは揺れているのだ。いや、いや、待てよ、揺れているのはぼく自身の方かもしれないぞ…
  ふっと気がつくと、揺れているのは本だけではない。本棚も、柱も、ドアも、木目の着いた板壁に張ってあるシャガールの絵、時計、カーテン、室内灯、机、椅子、さらには机の上の書きつぶしの紙片、ペンたて、コーヒーのコップ…それらのものたちが、まるで呼吸する生き物であるかのように、膨らんだり縮んだりしながら、揺れている。しかも奇異なことに、そのことがぼくには少しも不思議ではなく、遠い昔から慣れ親しんでいるごくあたりまえの、ありふれた現象であるかのように感じられた。何の違和感もない、とても快い現象…
  ふっと気づくと、ぼくの周りには無数の海藻類がそよぎ揺れている。暗黒の鱗(うろこ)をもった奇怪な深海の生き物たちが息づき脈打っている。そんな中を不気味に一匹の巨大な魚が泳いでいる…
  深海の怪魚…そのイメージは以前からぼくの中に巣くっていた。そいつは目玉が鈍く光る怪物で、傷だらけの暗色の胴体には、様々の海藻類や苔や樹木の枝などがまとわりつき、塩や砂が傷口に深くしみこんでいるのだ。まるで原始の岩につけられた太古の切り傷みたいな黒い傷。中には不気味な深い傷もあって、それはぼくになぜともしれない戦慄と喜びを感じさせるのだ… 


     さとみ 
     
  ぼくは娘のさとみを連れて海水浴場に来ていた。さとみは小学校の一年生。真夏の太陽の光の中、広い砂浜は水着姿の人々であふれていた。ぼくは砂浜でさとみを泳がせていた。そのうち不思議なことが起こった。砂浜に打ち寄せていた波が一瞬のうちに引いていったのだ。見事なほどすうっと下の方まで引いていった。今まで海水があったところが砂浜になり、ずっとずっと下の方まで砂浜が広がった。見た感じ、海水浴場は大きな碗のような感じで、丸みを帯びてずっと深く下方まで続いていた。一瞬ぼくは強い不安を感じた。波がもどってくるにちがいない…わけもなくそんな考えにとらわれたぼくは、小さな娘の手を引いて、急いで上方の土手を目指してかけ出した。入江は深く、土手ははるか上方にあって、そこにわずかな樹木が生えている。急がないと危ない…土手の所まで逃げてもまだ安全かどうかわからないけれど…気がつくと、もうすべての人たちが逃げ出していて、ぼくら父娘が最後になっているのであった…

  また、あるとき、ぼくはさとみと神社の境内で蝉取りをしていた。さとみは女の子のくせに、蝉やクワガタ、カブトムシなどの昆虫が気狂いみたいに好きなのだ。もう夕方になろうとしていた。巨大な樹木の枝と葉が広がっていた。ふっと気がつくと、樹木の背後に、月よりは少し小さいくらいの、ひどく明るい天体が見えた。《おや?  いやに明るいな?》とぼくは思った。見ていると、それは次第に大きくなって、その表面の濃淡の模様がはっきりと見えてきた。青ざめた海みたいな色の天体で、木星みたいな感じだった。どうして木星なのかよくわからないが、そのときぼくはそう思ったのだ。それはみるみるうちに地球に近づいてきて、ついには空全体をおおうほどになった。近づくにつれて、それはますます青ざめて真っ青になっていった。ああ、衝突は避けられない…とぼくは感じた。避けようもない…
  ぼくはさとみに不安を与えまいとして、手を強く握って言った。
「心配しないで。だいじょうぶ。だいじょうぶだからね…」


     来訪者
      
  日は暮れかけていた。けれど本当は始まろうとしていたのだ。
  K氏は、二階の部屋で仲間たちの来るのを待っていた。日頃めったにする機会のなかった遊びをする約束ができていて、それを心待ちにしているところだった。本当ならもっと早くから始めたかったところである。そうすれば、さらに長い時間にわたって、こころゆくまで愉しみに耽ることができたであろうに!  そうすることもできたのに、そうしないでむざむざと時間を空費していることはひどく残念なことだった。相手がいなくて遠ざかっていた遊びの機会。K氏は、ムズムズする気持で、その機会が来るのを待っていたのだ。もっともそのことを自分に対しても他人に対しても認めたくない、といった微妙な気持もあったわけなのではあるが…
  仲間の中で、自分を感じたいという自然な欲求を、彼は、自分の中に認めたくない気持をもっていた。自分は孤独な性分で、孤独を愛している。人々との交流を求めなくても、充分楽しく充実して生きていけるのだ、という誇り、或いは自分は人々の中ではうまくやっていけないのだ、と感じるときの一種の悲哀への、こだわりの気持…
  事実、今日来る予定になっている仲間というのは、彼ら同士では仲間であっても、K氏にとっては必ずしもそういったものではないのだ。どういう加減でかはよくわからないが、彼は、人々の間に自分を感じるということができないのである。自分を彼らの仲間であると感じることができないのだ。自分には彼らになじめない異質なものがあり、彼らはそれを自然に察知してしまう。そんなふうに彼のほうで一人ぎめに思い込んでしまう傾向があるのだ。人と話している状態は、彼には自然な状態ではない。会話するとき、彼はいつも腰が落ち着かず、早くそれを切り上げることを考えている。
  しかしながら、仲間たちのなかで自己の存在を示したいといった欲求は、孤独を求め、孤独の中に特別な価値を認める彼の感じ方に反して、しばしば彼の内部にわき起こって来た。日頃、人々から軽視されているような感じをもち、あるかなきかわからないような、影のような存在であることを感じているだけに、K氏は、このめったにない遊びの機会に過大な期待を寄せずにはいられないのだ。
  もうそろそろ彼らが来る時間だ。ほうら、訪ねてくる人の気配がする。K氏は、階段を駆けるように降りていく。玄関の戸を開ける…

  戸口に立っていたのは、見たことのない中年の男だった。いや、どこかで見たことがある。それも遠い過去のことではない。つい最近のはずだ。どこで見たのだったか、それが思い出せない。どうしても思い出せないのだが、たしかに見たような気がする。
  タスキのついたズボンをはいていて、すっきりしたシャレた印象の人物。顔立ちが際立って聡明、やや陰のある考え深そうな容貌。長い頭髪、とがった耳…美男子といってよかった。独特の強い印象を与える顔立ちなのだ。そう、それはたとえていうなら、ドラキュラ伯爵のような…なぜかK氏はそんな名前を思い浮かべた。それはなにもはっきりした意味があってのことではない。ドラキュラ伯爵に似ているかどうか、ドラキュラ伯爵がどんな顔だったか、K氏にははっきししていない。いや、ドラキュラ伯爵というのでもないぞ…誰だったかな…確かに見たことがあるような気がするのだが…
  男は配達夫なのであった。電報を届けるのと同じように、何かを届けにきたのだ。
「お父様から預かってまいりました…」
  男はそういって、何か長い棒のようなものを差し出した。受け取ると、紙製の箱である。高級な箸でも入っているのかと思われるくらいの大きさの豪華な箱だ。開けてみると、薄い紙に包まれて、驚いたことに、美しい金色のペンが出てきた。しっとりと濡れたようなすばらしいものだ。黄金のペン…
「父から?」
「さようでございます。お父様は、ついさきほどお亡くなりになりました。これはお父様のお形見で、貴い魂がこもっております…お父様の霊の力が…」
  K氏はペンを手に持って、深い感動の中に、不思議な力に満たされるのを感じた。何かしら神秘的な未知の力…
  実をいうと、彼の父親はもう十年も前に死んでいたのだ。死ぬときにはひどくやつれて、憐れなものだった。肝臓が傷んでものも食べられず、おまけに脳にも精神にも障害が出始めていた。しばしばわけのわからない、明らかに異常と思われるような言動を繰り返すようになっていた。
  K氏は、見知らぬ使者からペンを受け取ってから、玄関横の暗い部屋を通った。二階へあがる途中、そこを通り抜けなければならなかったのだ。するとその部屋の隅っこのところに、小さくひからびた父親が、古びた小さな布団にくるまって寝ていた。父親は今外から帰ってきたばかりのようだった。K氏には、父親がそこに寝ていることが、いつもの何でもないことのような気がしていた。彼が通りかかると、父親は布団の中から、聞きなれた弱々しい声で、息子の名を呼んだ。
「あ、Mかい?」
  そのとき、再び玄関のブザーが鳴った。出てみると、さきほどの配達人であった。タスキのついたシャレたズボンをはいている。このとき男は意外に若く見えた。まだ三十才にはなっていない。ひょっとしたら二十五才くらいかとも思われる。目がみずみずしいほどにきらりと光っている。男は、突然、K氏の手から先ほど渡したばかりのペンをもぎ取った。すばやい動作だった。ペンのふたをエイッと抜き放った。すると何とそれは切っ先の鋭い短剣ではないか…相手は、いきなりそれをK氏の方へ向け、刃物の先を鋭く突き出して、襲いかかってきた。それは、直接明白に命そのものを狙ってくる、恐るべき脅威に満ちたやり方だった…K氏は逃げまどい必死で身をかわす。かわしてもかわしても、相手は迫ってくる。彼の顔はもともと静かで無表情、妙に沈んだような顔なのだが、このときには恐ろしいものだった…目はひたすらに鋭くK氏の上に据えられて、恐るべき脅威をもって彼に迫ってくる…
  攻撃の手がちょっとゆるんだすきに、ようやくK氏は電話のある場所に近づくことができた。ダイヤルを回す…はやく…一一〇番…だめだ…うまく回せない…始めからやりなおす…一…一…〇…だめだ…また始めから…そのとき彼が再び鋭くつきかかってきた…彼は逃げる…逃げる拍子に机から花瓶が落ちる…カラカラ…すると不思議なことに、次々と連鎖反応式に落ちていく…コップや書物、書類が…それから本棚や壁の棚までが崩れるように…あっという間になにもかも…気がついてみると、それは夢であって、今はもう朝であった…彼はほっと胸をなでおろす…
  そのあと、K氏は、朝の街路を電車の駅に向かって急いでいた。出勤だ。街路はやけに広く、美しい樹木がずっとまばらに生えている広い公園の中を通り抜けていた。駅に急ぐ人たちの姿があちこちに見られた。K氏は、昨夜の訪問者のことを思っていた。まがまがしい悪魔…彼はいまもまだ不吉な脅威を感じていた。あいつはきっとどこかにいて彼をつけ狙っているだろう…果たして彼の顔がチラリと見られた…街角の最初の曲がり角で…その顔がはっきりと鮮明に見えた。独特の顔だ。暗い印象の顔。つりひものあるズボンをはいている。とても広い街路。K氏は、人影、物陰に隠れるようにしてそこをすり抜ける。彼はこちらを見ていなかったようだ。しかし、はっきりしたことはわからない…K氏は急ぎ足で歩いていく。先ほどの男の顔を思い出し、どこかで見た顔だ。たしかに最近…と感じる。思い出そうとするが、思い出せない。しばらく行って、次の曲がり角を曲がったところが電車乗り場だった。ちょうど電車が入ってきた。彼は乗ろうとする。ところがそのときあいつが乗っているかもしれないと感じた。きっと乗っているのではないか…ずいぶんとチャチな感じの電車で、三両仕立て。人がかなり乗っている。あの男と顔を合わさない車両に乗ろうと考えて迷う。真ん中の車両は随分空いていたようだ。K氏は一番前のドアから乗り込んだ。あいつの顔は見当たらないようだが…おそるおそる見まわした…するとそこにまさに〈彼〉が乗っていた…あの暗い陰のある男が…それは美しいといっていいほど鋭くとぎすまされた容貌で、まさに脅威に満ちて不吉な〈悪魔〉そのものではないか…


   Z君の身におこったこと
    
  Z君がF市にあるI社に勤め始めてまだ二年にもなりませんでした。
  ある夜、Z君はこよなく甘いビールを飲み始めました。ビールがちょっとまわってきたころ、Z君はふっと後ろに人の気配を感じたのです。見ると、一人の見知らぬ男がそこの椅子に坐っているのでした。男は何の前ぶれももなく、いつのまにかこっそりと影のように忍びこんでいたのです。黒っぽい服装をしており、冴えない地味な感じの顔立ちで、ひどく控え目に微笑みました。Z君は別に怪しみませんでした。ごく当たり前のことであるかのように、男を見たのです。Z君には、この男がどうしてだか以前からよく知っている人のような気がしていたのです。
  男は無表情な顔で、ただ考えこんだような控え目な様子で、そこに坐っているばかりでした。そのうちZ君は男の存在をすっかり忘れてしまいました…
  それからどのくらい時間がたったでしょうか。突然、男は何の前ぶれもなく両手を広げて、背後からいきなりZ君に襲いかかったのです…首をしめつけ息の根を止めようとしました…いや実をいうと、男はただそこに何もせずに坐っているだけなのです。Z君の目にはそれがはっきりと見えます。しかし、同時にたしかに男は現にZ君の首をしめつけているのです。男が二人に分裂したかのようでした。しかもその二人は全く別々の存在ではなく、まさに同一の存在なのでした。突然、何のきっかけもなく、Z君はもがき始めました。おぞましくむごたらしい苦しみ…生きることそのものを恐ろしいことに感じさせるような苦しみ…ふだん、Z君は生を愛しており、生きることがとても気に入っていました。しかし、そんな発作がやって来る夜には(その後この発作は何回となく繰り返されたのです)、正真正銘の恐怖を感じました。恐ろしい苦悶と不安にさいなまれながら、Z氏は身をよじってもがき、こんな状態でどうして朝まで耐えることができるのか、と思いました。
  彼は繰り返し心で叫びました。「ああ、こんな苦しみを耐えなければならないのならば、生きることは恐ろしいことだ…」
  たいていの場合、朝になると不思議に安らかになっていたのです。

  彼がある女性を見て突然心を動かし始めたのは、ちょうどその頃のことでした。
  ある特定の女性に強い不断の興味を寄せ、それまで興味をもっていたものすべてがそっちのけになってしまって、ただ彼女のことばかりを思うようになるといったことは、たえてないことでした。
  ところが彼女を見たとき、まさにそういうことが、Z君の身の上に起こったのです。
  Z君は以前その女性をちょっと見かけたことがありましたが、別に注意を払ったわけではありません。ちょっとした魅力はあるかもしれない。しかし、別に大したことはないし、どうせ彼には縁のないひとだ、とくらいに思ったのでした。
  ある日、彼女は歩いていくZ君を後ろから呼び止めました。彼女は用件をいいました。そのとき、彼女の顔を見て、Z君は強い印象を受けてしまったのです。そんなことになるとは、予想もしていませんでした…
  このとき、彼がまずしたことは、例によって当惑をおさえて、無関心を装うことでした。というのも若い女性と話すとき、彼はいつも多少当惑を感じるのが常だったからです。女性の前で感じるその当惑は恥ずかしいものだったので、それを見せまいとする内心の努力のため、Z君は彼女の顔をあえてまっすぐに見ました。彼女の顔を見て、「おや?」と思いました。そして思わず彼女を見つめ、それからすぐに目をそらしました。するともう、まともには彼女を見られなくなってしまいました。Z君は困惑し、冴えない伏目の顔を彼女の方に向けたまま、妙に彼女の顔を見ないで、応答することになってしまいました。彼の奇妙な当惑ぶりを見て、彼女は彼の心の中に起こったことを見抜いているのではないか、と感じながら…そして見抜かれることは彼にはなぜかとても嬉しかったのです…
  彼女のもとを離れて歩きながら、Z君は胸に深い感動の波紋が広がっていくのを感じました。彼は、何度も繰り返しぎゅっと唇を噛み締めている自分を見出しました。「ああ」と自分に言いました。「これはどうしたのか…いったい何事がおこったのか…」
  ふしぎな戦慄を伴う独特の喜び…心の奥で何かがふるえ、紛れもない悦びが湧き出るのをZ君は感じました。たとえば、モーツァルトのハ短調のピアノソナタを聞くとき目覚めるのと似た様な、深い複雑な種類の感銘、苦悶を含んだような強い歓喜がわき起こるのを感じたのです。それは驚きでした。予想外のことでした。
  彼女を見たとき感じた幸福感は、独特の優しい深い色調をもっていて、それはいままでに感じたこともないようなものだと思われました。ある音楽が人の心に独特の複雑な感動を引き起こすように、それとまったく同じように彼女の存在は彼の心に独特の性質の喜びを引き起こすのだ、喜びの強さとともにその〈質〉が貴重でまれなのだ、と彼は考えたものでした。
  それからは、彼はしばしば彼女の方に視線を向けるようになりました。ずっと彼女のことばかり思っている自分を見出しました。
  最初は知らなかったのですが、彼女は彼よりも年上ですでに結婚しており、子供もある身でした。そのことは彼には安心できることに思われました。もし彼女が独身であったならば、彼は現実的な余計なことを考慮しなければならなかったでしょうから。
  ひそかにこっそりと彼女を見るということが、彼の大きな関心事となりました。彼女を見ると彼は深い喜びを感じ、実に素晴らしい質の、この上なく優しい感情が心臓から全身にいきわたるのを感じました。それはそれだけで(その感情が本来目的としているはずのものが得られるかどうかなどに関係なく)、すばらしく価値のあるもののように思われたのです。ただ彼が恐れたのは、いつかはそれが自分から失われるだろう、彼女を見られなくなる日がいつか必ずくるだろうという思いでした。
  人は財物を貯えるようには、感情を貯えることはできません。感情は次々と新しい刺激がなくては消失してしまい、後にあいまいな記憶しか残しません。感情を貯えるためのどんな企ても成功しないのです。わずかに芸術的な創造がそれを可能にしますが、それも完全ではないでしょう。それは彼女が目の前に存在する今、彼が彼女を思うことのできる今しか存在しない価値なのです…後に何も残らないそんな価値のために、情熱を燃やすことは愚かなことなのでしょうか?  彼にはそうは思えないのでした。
  彼女のいる場所に行くことが、彼には大きな楽しみであると同時に強い不安のもとになりました。彼女が近くに来ると、彼はひどくぎこちなく無様な感じになって何もできない状態になりました。ことばも出なくなるのです。Z君が人と話しているときに、彼女がすぐそばに来たとします。突然彼の言葉つきが怪しくなり、言葉が唇の上で凍ってしまうのです。また、たとえば彼が書類を書いていたとします。彼女が近くに来ると、彼はそれまで書いていたことが何もかも頭から抜け出てしまい、もう何を書いているのかわからなくなります。混乱を隠すために、彼は適当にペンを走らせて、書いているふりを装うのですが、紙の上に表れる文字は意味もなくでたらめなのです。あるいは別のときには、ペンをもった手が震えだして、それまではきちんとていねいな文字で書いていたのに、途中から奇妙なひょろひょろとした文字になってしまいます。あるときなどは、書き終えてからふっと気づくと、彼女が彼のふるえる手をじっと見ていたようなのでした…
  彼はいつも彼女を見ることに奇妙な疚しさを感じていました。用があって彼女のいる近くへ行くのがいつもひどくとてもためらわれるのです。彼女を意識して、彼女を目当てに行くのだと、人から見抜かれるような不安、恐れを強く感じるからです。
  だから、Z君はいつも彼女に対しては完全な無関心を装っていました。彼女が近くに来ても彼女の方を見ることができないのでした。必要があって彼女と話さなければならなくなると、彼は著しい不安と動揺を感じて、心臓が激しくときめき、頭がぼーっとなったり、言葉が発音できないほど精神が麻痺してしまったりしました。
  誰にも見られていないと思われる極めて稀な瞬間には、こっそりと思いきって彼女の顔を見つめることができました。そういうときには彼は強いためらいを感じました。強いてそれを押しきって彼女の顔を見ると、濃厚な喜びが身体の中に呼びさまされ、いい知れぬ興奮が彼を包みました。きょうはもうこれで十分だ、これ以上の何があり得るだろうか、という気がしました。他ならぬ〈あのひと〉を〈そのような目〉で見ることには、奇妙なためらいと、悩ましい感情、見てはならないものを見、感じてはならないものを感じているという感情が伴うのでした。
「いったいこの感情はなんなのだろうか?」としばしば彼は考えました。「ひょっとしたら、これは禁じられたものをあえて感じようとしたときに、自分の中に呼びさまされる感情なのではないのだろうか?  だからいつも悩ましい気持、疚しい気持がともなうのでは?」
  ちょうど、最近、Z君は、女性作家アナイス・ニンの書いた驚くべきすばらしい日記を読んでいるところです。アナイスは書いています。《後年パリでスペイン舞踊の発表会を開いたとき、私は観客の中に父の顔が見えたような気がした。その顔は青ざめ、いかめしかった。私は踊りの真っ最中に凍りついて立ちつくし、一瞬、踊り続けられないと思った。…》
  アナイス・ニンは、他の女のために彼女と彼女の母親を見捨てた父親への愛と、彼女が受けた心の傷のことを語っているのです。
  これを読んだときZ君は、強い感銘を受けたのでした。彼は考えました。自分の感情は通常の男女の間に生じるものとはいささか趣がちがっている。ひょっとしたら彼女を見るときの自分の思いは、今は亡き母への彼の幼い感情の名残ではないだろうか?(彼の母は若くして再婚したのでした。)母への愛は禁じられたものだったにちがいない。彼は疚しい気持なしでは母を見ることができなくなり、母を見ることは禁じられた喜びを味わうことであっただろう。それだけにその喜びと不安は強いものになっただろう。そして後年女性に思いを寄せるとき、彼は幼いときの母への思いをそっくりそのままの形で繰り返しているのではないか。この感情がこのように高められ、複雑になり、独特の素晴らしい色調を帯びるのは、そのせいではないだろうか。そんなふうに彼は想像しました。
  きびしい番人に監視されている犬のように、彼はいつも疚しい思いを心にもっていて、いったいそれが自分に何をさせ始めるのかと、不安に感じているのでした。何かとんでもない恥ずかしいこと、愚かなこと、非難に値するようなことをしてしまうような不安…
  こんなふうに進行していく彼女への思いは(それはかつて経験していた母親への思いでもあるかもしれない)、もともとあってはならないもの、ありうべからざるものというニュアンスをもった感情だったのです。彼はいつも心を引かれる女性に対してはそのような感じ方をしたものでした。しかし、他方では、彼はそんな高価なえがたいものを手放そうという気にはなりませんでした。反対に彼はひそかに考えました。それを自分自身の内部にとどめておくかぎりは、何も悪いことはないではないかと。勿論そう考えたとしても、疚しい感じはつきまとうのでした。「いったい自分は何をしているのか。彼女が知ったらどう思うだろうか。すべてはおしまいではないか…」と彼はしばしば思いました。彼女の顔をこっそりと異常な思いをこめて見ている現場を誰かに見られるのではないか、彼女を見て彼が感じるもの、彼が思うことがすべて知れわたっているのではないか、という思いが彼を不安な気持にさせました。
  彼の思いは次第に邪悪の色合いを深めていきました。一人で味わう邪悪な楽しみ…誰にも知られてはならない悪事…そしてそれに思いきり耽ること…その感覚がまた非常な魅力なのでした。決して誰にも知られてはならないもの、知られるなどということは、とんでもない恥ずかしい恐ろしいことである、そういうもの、彼一人の中だけでようやく生きることのできる性質のもの…そういうものに彼は心をまかせきりにしていたのです…
  さらに、気狂いじみていることに、しばしば彼は自分の心を彼女に知ってもらいたいという欲望を感じるようになってきたのです。彼女もまた彼を思っているという思い(ほとんど確信にまで達するほどの思い)が彼にしばしばやってきて、彼はその考えをふり払うことができなくなりました。勿論奇妙で愚かな妄想です!  彼女を見るとき感じる喜びがあまりにも強いために、彼はそのような妄想を抱いてしまうのす。しかも、やっかいなことに、その妄想は、繰り返し彼の中に現れてきて、彼を次第に大胆な気持にさせていくのでした。不思議なことに、彼女から離れて冷静に考える余裕ができると、それが何の根拠もないものであることがはっきりしてきます。強いて根拠といえば、彼女を見て彼が感じる強い喜びがあるだけです。何と結構な根拠!
  彼は思ったものです。「彼女のあのときの目は何を意味したのだろうか?」彼のつまらない問いに対して、彼女は、そのはかりかねない意味を理解しようとするかのように、一瞬彼の顔をじっと見たのでした。そのとき彼は深い稀有な体験をしたかのように感じました。周りのすべてが消え失せて、別次元に入ったかのように…一つの宇宙がそこに開け、言葉にはならない非常に多くのことが起こって、全てが濃厚な歓喜でいろどられている、そんな状態…それはほんの一瞬のできごとだったのですが…
  彼は心臓を彼女の目に射られたのでした。そして彼女もまた彼を思っているという強い印象にとらえられました。あとになってから彼は思ったものです。「いったいあれは何だったのだろうか。すべて単なる幻想だったのだろうか」と。そのとおり。彼女としてはただ何気なく、誰に向かってもそうであるような、ふつうのしかたで彼を見たにすぎません。Z君の狂気が愚かな幻想を生み出していたのです…
  たしかにこんなすばらしい喜びも、相手から思われているということなしには、虚しいものとならざるをえなかったでしょう!
  やがて、恐れていたように、終極が訪れました。それは突然やって来て、あっけない幕切れとなりました。
  ある日から彼女がぷっつりと姿を見せなくなったのです。理由はわかりません。彼はだれにも聞く勇気がありませんでした。そして彼女のことはそれきりになってしまいました。ほんの数カ月の出来事でした。まさに春の嵐のように過ぎ去ってしまったのでした…

  例の奇妙な男の夜の訪問は、彼女が彼の目の前にあった間はとだえていました。彼女の姿が見えなくなってからしばらく経ったある夜、ひょっこりとまたあの男が、何の前ぶれももなく、彼のもとに現れました。いつのまにかこっそりと影のように彼の部屋に忍びこんできて、静かに椅子に坐っていたのです。黒っぽい服装、冴えない地味な感じの顔立ち、男はひどく控え目に微笑みました。Z君はごく当たり前のことであるかのように、男を見ました。そしてZ君が彼の存在をすっかり忘れて本読みに熱中しているとき、男は、突然襲いかかって、Z君の首をしめつけました。男は椅子に坐ったまま、しかし同時に一方では立って手を広げ、後ろからZ氏の首を締めつけたのでした。断末魔のもがき…ああ、助けて…
  それからはしばしば男は訪れ、Z君は恐ろしい苦悶におちいりました。しばらく遠ざかったかと思うと、また忘れたころに男はやってきて、Z君を絶望におとしいれました。Z君は強い不安に襲われ、苦悶にもがきながら、呼吸がとだえそうになって、ばったりと床に倒れるのでした。そんなふうな発作がまだこれからも何千回、何万回となく繰り返されるでしょう。それは彼の宿命のようなものかもしれません。
 「ああ!」とZ君は声にならない絶望の声で叫びます。「こんな苦しみがあるのなら、生きることはなんて恐ろしいことだろう…生きることはなんて恐ろしいことだろう…」
 


もやの中 ――詩的な断章――

   もやの中 ―― 詩的な断章――            宇津木洋


     

  なにかしらまわりがひどく揺れているのに気づいた。
 暗くて外のようすがよくわからない。

 地震だろうか?  それとも台風? 

  そんな考えがちらりと頭をかすめる。

 「この家は新しくて、大工さんが格別に太い材木を使ってがっちりと作ってくれたから、つぶれたりすることはない」とぼくは妻にいう。
 そのわりには、いま自分たちがいる場所は貧弱で狭苦しい山小屋のような感じがあった。

 その場にはわが家の小さな子どもたちもいた。

 ところが、ぼくがそのように言ったすぐそのあとで、家はゆっくりと傾き、壁が倒れてきて、それがまるで段ボールの紙を何枚か重ねあわせてできたような薄っぺらい感じの壁で、ぼくらの上におおいかぶさってくるのだった。
 
 ああ、ぼくらはみんなぺしゃんこになってしまう…



     もやの中

  妻の運転する車で走っていた。
 買いものに出かけての帰り道、もう家のすぐそばまできていた。
 そのとき前方に煙のようなもの(もやだったかもしれない)がたちこめているのが目に入った。
 車はその中へ入っていった。だいじょうぶだろうか…

 とつぜん、視界の見透しがきかなくなり、なんにも見えなくなった。これはいけない、前から来る車にぶつかるかもしれない…ぼくは驚いて妻に車を止めるようにいった。車はすぐには止まらないようだった…


 
    こわい夢の話

  さとみが保育所に通っていたころ見たという夢。
  さとみはお姉ちゃんといっしょに寝ていたらしい。すると風が吹いてきて、〈変なもの〉があらわれた。さとみの話はどうも要領を得ないのであるが、くり返しよく聞いてみると、〈変なもの〉は複数で、片目のやつとか、山姥みたいなやつとか、いろいろいたらしい。連れていかれると思って部屋の端の方に寄っていたが、ついにつかまっていっしょに連れていかれる…
「ばけものたちは羽が生えていた?」と聞くと、
「ううん、生えていないけど飛べるの。そしてわたしとお姉ちゃんは連れていかれないように部屋の端のほうによっていたけれど、とうとうさらわれて飛んでいくところで目がさめた」
  もう一つの夢は、さとみがお兄ちゃんといっしょに廊下を通っていたら、廊下の入口と出口のドアがひとりでに閉まって廊下に閉じ込められた夢。
  廊下は二階にあって、片側から下の階が見下ろせた。下の階には〈変なもの〉がいっぱいいて、そのなかには一つ目のマンモスみたいなやつもいたという。

「おもしろい夢を見たな。また見たいか」と聞くと、見たくない、という。「怖かったか」ときくと、「そりゃあもうこわかったよ」と実感をこめて言う。「お父さんも夢を見たことある?」「あるよ」というと、「どんな夢?」と聞きたがる。「おとうさんは空を飛ぶ夢を見たことがある」というと、「へえ!」とさとみは驚いたように言って、「どないして飛ぶの?」「こうして飛ぶんやで」と両手を鳥の羽のようにひらひらさせてみせる。



      いつか見た二つの夢

  どこかへ出かけている夢だった。家族でハイキングかなにか。広い平原にいると、空から花火ではない、火の粉のようなものがパチパチとはじけながら、降ってくるのが見えた。一瞬恐怖感もあったようである。空襲だろうか?「やっぱり(戦争を?)はじめたのか。まさかとは思っていたが…」と彼は思った。空のあちこちで火の粉がはじけて目ざましく広がって落ちてくる。ぼくはさとみに向かってしきりにいっていた。「あぶないから気をつけて…」ふしぎにも恐怖感はそう切迫していなかった。ただ、とにかく非常に鮮やかな印象があった。

  空から火が降ってきたり空から攻撃されたりして逃げまどう夢はこれまでにも何度となく見た。久しぶりにまた見たなという感じ。ただ、いつもとちがっていたのは、胸つぶれるような激しい恐怖感がなかったことだ。それで、もしこの火を天からの火と考えたらどうろう、と思いついた。ぼくは天からの火を受けて、火花を散らすように創造的になるだろう、こんなふうに考えてみるのはとても面白いことだ。現実にはそうはいきそうもないけれども…

 

   もう一つの夢。


  状況から考えると、ぼくはまだ若くて貧しい独身者のようだった。電車を降りて、ガード下の商店街を歩いていた。ガード下といっても立派な店が続いていた。そこをぼくは通り抜けていった。日曜日で街をうろつくためにわざわざそんな街に出かけてきたもののようだった。歩いていくと、職場の若い女性二人が前を行くのが目に入った。一人はKさん、もう一人がだれだったかどうしても思いだせない。ぼくは〈おや?〉と思うとともに、当惑を感じて歩調をゆるめた。まるで彼女たちの後を追いかけまわしているようではないか。彼女たちがぼくに気づいたらそう感じないだろうか、と不安になった。彼女たちは駅の構内から外へ出て、広い街路を通っていく。ちょうどぼくの足もそちらに向いている。これは困った…そこでぼくはあわてて右手のほうの道へとそれた。するとそこへやはり職場の女性が一人歩いてくるのが目に入った。Nさん…どうやらその近くで催しがあるらしい。ぼくはそのころひそかに彼女のことを思い続けていたのだった。ぼくがこんなところへわざわざ出かけてきたのは、彼女に出会うことを期待してのように見えるのではないか、と不安になった。Nさんはこちらへ近づいてくる。すぐ近くまでくると、彼女は〈おや?〉というふうに笑い顔になって、「どこへお出かけですか」ときいた。ぼくはちょっと気が臆していて、「いや、(別に用はなく)ただぶらぶらと歩いているだけで…」としどろもどろに答えて誤魔化したが、どうもうまくいったとは思えない…そのまま彼女とも分かれて歩いていった。



       犯  罪

  Zは罪を犯したらしい。
  最初、だれもZの罪に気づいていないようだったので、彼は心安らかだった。人々といっしょになって、彼は犯罪があった部屋の中をあれこれと調べていた。人々は棚に置いたものとかその他いろいろな物に触っていた。Zも触った。ふと彼は触ったら指紋がつくのではないかと思った。そのときを境に彼は恐ろしい不安、憂悶にとらえられることになった。だれかが自分の触ったものを布切れで拭いているのが目に入った。しまった…いろいろ考えもなく物に触った…拭いておかないと、指紋があちこちについていたら疑われるだろう…あるいは指紋などわからないのだろうか?  いやそんなことはない。指紋を調べることなど、警察には何でもないことだから…彼は拭きたくなった。しかし、人目が気になって拭けなかった。迷ったすえにようやく拭いて、そっと周りを見ると、だれもこちらを向いていなかった。ところが一人だけこちらを見ている人がいた。まずいことになった…



      動  物(1)

  これはまるで夢の中で起こったできごとのような気がするので、はっきりとたしかには思いだせない。そこでかなりの推量を交えて記すしかないのである。
  ぼくはちょうど家に帰ったところのようだった。おそらく夜のことだっただろう。家族、少なくとも子どもたちがいたように思う。部屋のなかがいつもとちがっていて、どこか奇妙だと感じたので、あちこちと調べてみたようだった。なにもない…だいじょうぶ…そういいながら、しかし、なおいちまつの不安があった。一つの部分がまだ調べ残っていた。部屋の窓側のところに内壁で仕切られた小さな薄暗いコーナーがあって、ほかの場所にはなにもないことが一目瞭然なのだが、その一隅だけは目が届かないのであった。見たところ、その場所はごく狭いうえに、それほど陰になっているわけではなく光も少しあたっているようである、まさかそこに何かの異変又は異変の徴候を示すものが隠れているとは思えない。それでも、とにかくいちおう調べてみようと思ったとき、ひょっとして何ものかがその背後に隠れているのではないか、という不安をかすかに感じた。見ると、はたしてそこに若い男が隠れていた。いや、若い男というよりもそれは少年だった。最初に見たときにはおとなの男のように見えたのだが、すぐにまだ幼い少年だとわかった。ちょうどカメレオンの身体の色がほとんど気づかれないうちにいつのまにか変色するのと同じように、あるいは、コンピューターの画面に写っている文字列がある瞬間に微風が吹いたように消えてほとんど気づかれないうちに別の文字列に置き変わっているのと同じように、彼はぼくが見ている目の前でほとんど目につかないまま、すーっと少年に変わったのかもしれなかった。変わっていく過程が見えなかったから、なんともいえないけれども…最初彼をみつけたときぼくはそれほどには驚かなかったが、それでも一瞬脅威を感じたように記憶する。彼をつかまえてすぐにひもでつないだ。そうするといつのまにか少年は犬かなにかの小さな動物に変わっていた。ぼくは子どもたちにそれを逃がさないようにと言ったような気がする。
  あったことはそれだけだ。

  この動物(または少年?)の正体がどうもはっきりしない。なんとなく貧弱でみじめっぽく、暗い陰のような存在で、不良じみていた。少年を見つけたときぼくはいっしゅん軽い脅威を感じたのだったが、つかまえて放さないようにした。子どもたちに向かって「逃がすな」と言った。
  後からぼくが想ったところでは、その動物(少年?)は、ぼく自身のなかに隠れているみすぼらしいけれども何かしら貴いもののことであり、ぼくはそれを隠れた暗い片隅に発見し、最初ちょっと脅威を感じたが、すぐにそれを逃さずに手元に引きとめたいと思った、ということだったかもしれない。それはぼくのなかに隠れて住んでいる少年時代、少年性、動物性、生命的なものといったものの象徴だったのかもしれず、ぼくはそれを自分のものとしてつなぎとめておきたがったのだ。動物性といってもそれはとても貧相な小動物で、薄汚くてみじめなものであったが、それでもここに自分が生命をもって現に生きていることの不思議さ、貴重さ、遠い祖先のバクテリアやアミーバーの類であった時代から今まで続いてきている生命が現に自分の中に生きていて、それがぼくにとっての生命の喜びの源となるものである、そういったことを指し示していたのかもしれない、とも思ったりするのであるが、もちろんこれは単に後からつけ加えた空想にすぎない。



      動  物(2)

  トイレに入るとき、変な動物がいることに気づいた。はじめ、それは泥かなにかに汚れていて、きたなくて触るのがためらわれるような動物だった。妙にぐにゃぐにゃしていて、しゃんと四つ足で立つことさえもできない犬みたいだった。最初見たときには気づかなかったが、そのうちによく見ると、顔がまるで平べったくてすべすべした楕円形の板のように見えた。身体はえたいがしれず不潔な感じがしたが、顔の目鼻のつきぐあいは人間のような感じだった。そいつが床にぺちゃっとくずれるようにへたり込んで、ぼくにまとわりついてくる。ぼくは汚らわしく感じて避けようとした。ところがそいつはいつのまにか小さな子どもに変わっていた。ぼくは抱き寄せようとした。子どもはひどく汚れていて、口のあたりに紫色のものが見られた。伝染病ではないか…ぼくは不安を感じながら抱き寄せた。病気がうつるのではないか…

  この動物はまるでぼくの〈無意識〉のようだったのではないか、とぼくははあとで想像した。その〈無意識〉をぼくは恐れている。それは不潔で汚らしくて、伝染する病気にかかっていて、危険である。けれどもぼくはそれを抱き寄せたのだ。



      魔  物

  文学の創造の話で座がにぎわった後のことである。
  ぼくらはお寺のようながらんとしただだっぴろい広間に坐っていた。「もっと徹底的にやっておかないといけない」とだれかがいい、そこでぼくらは魔物が出てくるのを待つ気になった。何を徹底的にやるのか、どういういわけで魔物を待つのか、後から思い出してもよくわからない。なんでもその魔物はえたいのしれないやつで、ぼくは恐怖とともに、そいつと面つきあわせて対面してやるんだと、わくわくするような期待をよせていた。
  床の上に小さなものが転がっているのが目に入った。それはカスタネットか何かのように見えたが、あるいは小さな魔物だったのかもしれない気がする。ぼくはそれを棒でたたこうとした。たたくことによって、自分の存在にその魔物の魔性を呼び入れることになり、ぼくは創造的になるのだ、といった感じがあって、ぼくは精神が高揚するのを感じた。そいつがきゅうにぼくに向かってくるのではないかと不安に感じながら、何回かたたいた。するとそいつは唐突に奇妙な動作で飛び跳ねながら、部屋の片隅のほうへ行き、その隅にあったねずみの穴から外へ飛び出していった。
  それだけではまだとてもだめだとだれかがいい、ぼくらはもっと大きな本格的な怪物が正体をあらわすのを待っていた。いったいどんなやつだろうか?  魔法使いのような姿をしたものかもしれないし、妖怪変化か魔物とかいったものであるかもしれない。次はどんな形であらわれるだろうか…
  待ち受けている魔物にぼくは恐怖と期待の混じった強い魅力を感じていた。それは文学の創造に関係がある、文学の創造の泉が湧きだしてくる根源的な源泉にそれは通じている、そのような源泉に通じないかぎり芸術や精神の真の創造力に通じることができない、魔物に触れて強い衝撃を受けることによって創造力が目ざめるだ、といったふうに感じていた、という気がするのであるが、しかし、あいまいではっきりしないのである。ほとんど何もないと言っていいていどのかすかな記憶しかないので、すべてはずっと後になってからの創作にすぎないのかという気もするほどである。


      霊界からのメッセージ

  夜の道を自宅の方へ向かって歩いていて、もう家が間近というところに来たとき、道端に一人の老人が立っているのに出あった。その老人は背がすらりとして立派な骨格をした人物のように見えたが、ひどく痩せて目が落ち窪んでいたためか、あるいは目つきにどこか狂気じみている感じがあったためか、独特の強い印象をぼくにあたえた。髪はバサバサ、着古されてボロに近いような印象の着物を着ていて、着物の前はきちんと合わされていなかった、という気がする。老人の立っている場所は、道路よりも少し土が高く盛り上がっていて、背後に柳の木が生えていた。(このあたりは、具体的に記憶しているのではなく、そのとき受けた印象からそうであっただろうと想像しながら記している。)
  精神異常者か熱病にかかっている人、何となくそんな印象があったので、一瞬、ぼくは冷やっとした。ぼくが通りかかると、老人は近づいてきて、激しく厳しい調子で言った。
「やまうちちせい、やまうちちせい、君はいまどこに住んでいるのかね!」
  ぼくをだれかほかの人ととまちがえているのだ、と思った。ぼくは急いでいたし、危険も感じたので、あまりかかわりたくなかった。家に帰ってすぐにまた出かけなければならない用があった。ぼくは彼を無視し、黙って急ぎ足で通りすぎ、家に帰りついた。後から追いかけてきているのではないかという脅威をずっと感じながら。家には妻も子どもたちもいるし、かかわっていたら後でどんな危険がふりかからないともかぎらない…
  ここに記した老人の言葉は実に明確で、文字どおり彼がいったとおりである。ぼくはそのあとなんどもそれを自分に向かってくり返し、記憶に刻みつけた。老人の語調は激しく狂っていて明らかな危険を感じさせるものだったので、それに直面したときには恐怖しか感じなかった。けれども、後からそれを思い返したとき、あれはどこか霊的といってもいいような魅惑的で崇高な格調が感じられるものだったという気がした。それは狂者のもつ魅力であったのかもしれない。その老人にはその後ふたたび出会わなかったが、あのときのことを思い返すことが重なるごとに、老人のイメージはぼくの精神のなかで次第に変質していき、あるいはあれはぼくと血縁の遠い先祖のまぼろしだったのだろうか…そんな幻想じみたことまで思うようになったのである。
  〈やまうちちせい〉、これは〈山内知性〉ではないかとぼくは考えた。〈山の中の知性〉…もちろんそれはぼくの名ではない。けれどもすぐにこんな考えが浮かび、なるほどという気がしたのだ。つまりぼくのもっているもの(ぼくのなかに可能性としてあるもの)のなかで非常に貴重なものは〈山の中の知性〉である。山の中というのは奥深く樹木が生い茂り人に知られないところであり、人に見えない物の陰にふしぎな生きものや魔物が住むところである。それは自分の中にもあり、たとえば自分のなかの無意識とか、混沌とか、意識下のもの、不分明なもの、未知のもの、怪しいもの、ぶきみなもの、底知れぬものの世界のことであり、そういうものの中での知性の探検、活動ということを示唆している。そこがぼくの働きの源泉となるべき場所であり、ぼくはそういう人間として生きているはずだったのに、日々の雑務に追われ、怠惰と無気力によって源泉から遠く離れて、あきもせずにのらりくらりとすごしている。それでぼくの中の〈生命〉からの使者であるあの老人は、ぼくを眠りからめざめさせるために、「山内知性よ、君はいまどこに住んでいるのか」と厳しく詰問してきたのだ。山内知性はぼくそのものではなく、ぼくの中にある生命の可能性を指しているともいえる。その〈山内知性〉はいままでどこにも住んでいなかったようではないか、いったいどこへ行ってしまったのか、というのが、この見知らぬ老人からぼくに向けて発せられたメッセージ、いわば霊界からのメッセージである。つまり老人は眠っているぼくを未知の可能性を向けてめざめさせようとしたのである…
  ぼくは気まぐれにそんなことを想像した。もちろん、こうした想像(解釈というべきか)は論理的ではないし、根拠もない。けれどもそのときぼくはその解釈に何となくぴったりとくるようなものを感じた。そしてそれはぼくに何かしらの喜びというのか、希望というのか、ある充実した〈実感〉をもたらした。
  あのような形でぼくの前に老人があらわれたこと自体は、単なる偶然で別に意味はなかったかもしれない。けれども、そのことによってぼくのなかに生じた空想にはそれなりの意味があるかもしれないという気がし、こうした空想がぼく自身の精神的な状況を反映していて、それがぼくに現状から抜け出るための出口を指し示しているのではないかと考えたりするのである。


      視 線

  午後は彼を見る機会がなかったし、ほんのたまに見てもそれほど心を引かれないような気がした。
  けれども、夕方、彼のあの〈視線〉に出会ってから、彼の存在が彼女の心に深い喜びを引き起こしうることを彼女は改めて認識した。それを感じることは彼女にはこのうえない優しい喜びの体験であるとともに、深い憂鬱の体験でもあった。どんなに深い憧れを感じても彼の存在に近づくことはけっしてできないのであるから。
  あのようなものを感じることができるのにそれを忘れてしまっていたこと、その実感をもはや思い出せないですごしてきたことに彼女は強い驚きと危惧を感じた。なぜならそれは忘れることが何よりも重大な損失であると思われる種類の感情であったから。
  たまたま訪れた一つの機会に、彼女はほんのひとことであるが用件を思いついて、彼に質問をしたのだ。すると彼は彼女の顔を見、彼女も彼の顔を見た。そのとき彼女は、彼の顔に何かしらいいようもなく心を打つニュアンスがあるのを感じた。それは輝くような眩しい魅力というのでなく(そのようなものが彼にはないというのではない)、どこかしら子どもみたいに素朴で人のよい印象、憐れみさえももよおさせるような印象の中に感じられる、心にしみ入るような、ある独特の印象だった。音楽でいうなら憂いを帯びた短調の旋律。その憂いは、憂いというよりはむしろ喜びなのであるが(すべて深い喜びは憂いを含んでいる)、ショパンやモーツァルトの曲のなかに現れるこのうえなく美しい部分のように、その印象は彼女の心を強く打ったのであった。音楽ならば自分の好きなときにまた聞いて、そのなんともいえない喜びのニュアンスを繰り返し心に呼びもどすこともできよう。けれども音楽を聞くように彼の顔を見ることはできなかった。
  彼を見たその一瞬、彼女は、彼女がある特別な思いをもって彼を見たことを彼は感知していると思い、彼もそのことを意識しながら彼女に向かってきている、と感じたのであった。けれどもその場を去って後で考えると、それが何らたしかなものとはいえないこと、むしろ事実に反した幻想にすぎなかったことに気づくのだった。その場にいたときどれほどたしかに感じたことでも、後になるとすべて疑わしい事実、疑うことのできる事実に変わってしまうのである。
  閉じられた神の心がほんのまれな一瞬開かれて自分のほうに向けられたと信じるキリスト教の修道者のように、彼女は、彼の心がその瞬間自分の上に向けられたと思って喜んだ。彼の視線の一べつによってもたらされる信じられないような効果…彼の視線は彼が親しくしている人たちに向けてはふんだんにばらまかれているのに、彼女の上にはめったに降ってこないのだった。あのとき、彼の視線が彼女の上に注がれたのは、彼女がちょっと用を思いついてつまらない質問を彼に向けて発したからにすぎず、だれだってそのように質問されたら相手の顔を見るにちがいない。けれどもどんな形であれ、その視線が彼女に向けられ、一瞬であれ彼女が彼の意識の中に入ることができたと感じることは、一つの奇跡のようなものであった。
  いったいこれはふり向いてくれない母親または父親に対する幼児の心の状態と同じものなのではないか、と考えることが彼女にはよくあった。

 


路上観察学 


    路上観察学

                                   宇津木 洋


   1  街のスーパーマーケット

 街のスーパーマーケットは、日々多くの人たちがやってきて交差していく場所である。その場所を、いつもぼくは、人の顔を見もしないで、ただ自分の用件をすますだけのために、通り過ぎていく。まわりには実に種々様々な人間のサンプルが転がっていて、その気になって観察すればとても興味深い発見ができるかもしれないというのに。
 かねてから、ぼくは行き交う人々をじっくりと観察してみたいと思っていた。そうすれば文章にするためのおもしろい材料が得られるのではないか。
 とはいえ、何の関係もない人の顔や様子をじろじろ見るのははばかられる話だ。通りがかりにちらりと見て、それきり忘れてしまうのでは何の成果も得られないだろう。探偵みたいにずっと後を追っかけていかなければならないとなると、これはどうもやっかいだ。
 先日、インターネットを検索していて、『路上観察学』なるものがあることを知った。同じような志向をもった人たちが寄り集まって、『路上観察学会』というものまで結成されているそうだ。街角に転がっている一見何でもない物件の中に、何の役にも立たないがユーモアがあって笑いを誘うといった側面を見つけて、それを写真にとり、コメントをつけて、「こんなのがあったよ」とネットなどで公開する、それを見て人が笑う、といったことであるらしい。
 これはモノを観察して楽しむのである。ヒトであってもいいのではないか、とぼくはそのとき思った。
 そんなわけで、最近、ぼくはようやく意識して人の顔や様子を見るようになった。スーパーマーケットはそのための恰好の場所である。
 実際に始めてみると、成果はあまり期待できないことがわかった。行き交う人々を観察しても、人々の性格や考えや生活のありさまが鮮やかに浮かんでくるというわけにはいかない。チャールズ・ディケンズやジェイン・オースティンの小説に出てくるような、ユニークで興味深い特徴をそなえた人物像がそこから浮かび上がってくる、ということにはなかなかならない。そうしたものは、日常的に人と接触する中で、観察者の想像力と知性が働いてはじめて見えてくるものなのだ。
 雑多でバラバラな個々人の顔や姿が次々と目の前に現れて過ぎていくだけ。顔や服装、動作の特徴を言葉にして留めようと注意をこらしてみても、それらはたちまち消えてしまう。
 それは視覚像としてぼくの意識に入ってくる。ぼくは一瞬明確にそれを認知する。次の瞬間それは消えて、それきりぼくのなかに何の痕跡も残さない。

 車を止めて、スーパーマーケットの広い駐車場を歩いて通り抜けていく。食料品売り場へ来るまでに、何人かの人とすれちがったが、人の顔を見るのは具合悪く、自然に避けてしまった。
 ぼくは、まず、果物コーナーでバナナを一房かごに入れた。それから、買い物をする人々の様子を観察しはじめた。
 リンゴを並べた棚の前で、五〇歳くらいだろうか、鳥打ち帽をかぶって作業服姿の男性が、腕組みをしてリンゴを見ている。男性はやがて棚に近づいて、りんごを一つ手に取りかけてやめ、それからまた少し後ろに下がって、ちょっと離れたところからリンゴを眺め、沈思黙考している。買うべきか買わざるべきか。哲学上の難問を考えるカントといった趣きである。
 野菜のコーナーへ、小柄で丸顔の女性が買い物かごを下げて入ってきた。彼女はブロッコリーが並んでいる棚の前で立ち止まり、前屈みになって、しばしジーッとブロッコリーに視線を注いだ。ブロッコリーを相手に思索にふける様子である。彼女は結局それを買うのをやめて、ゆっくりと次へ進んでいった。キュウリのところまで来ると、そこでまた視線をジーッとキュウリに注いだ。品物を一つ手にとって表と裏をじっくりと調べた。結局、彼女は、キュウリも買わずに次へ進んでいった。
 その後から入ってきたのは、痩せてしなびた印象のある中年の女性だ。彼女はキャベツのあたりで視線を滞らせて、一瞬物思いにふける様子である。それから、ゆっくりと歩を進めながら、ネギ、カボチャ、シイタケ、モヤシと進んでいった。「うーん、あれはこの前食べたばかりだし、これもいま一つだし… ほんとうに今日は何にしたらいいのか… 」と思い巡らせる模様である。結局彼女は夕食のおかずをどのように組み立てるのだろうか。それが問題である。
 肉や魚、総菜のコーナーで、いろんな人たちが、あちらこちらの品物に目をやりながら、頭を独楽のように回転させて、それぞれのテーマについて思索に耽っている。「あ、これおいしそう。きょうはこれにしよう… でも冷蔵庫に牛肉が残っていたし、今夕はすき焼きにしようと思っていたのだった。そうなるとちょっと重くなるかな。これはまた今度にしようか…」
 人を見てばかりいると、自分の用がたせない。ぼくはまず自分の買い物を済ませることにした。
 レジを済ませてから、ぼくは人々が行き交う中をゆっくりと歩き、意識しながらさりげなく人の顔や動作を観察しはじめた。見ることにはいつもためらいがある。けれども、相手から気取られないようにして見るコツがあるのだ。やってみると、そう難しいことではない。
 そして、そう、最近、人々の顔や姿、動作を意識して見るようになってから、ぼくは何故とはなく不思議な面白さを感じるのである。次々と目に入ってくる個々の人の顔、姿がみなそれぞれ特徴があって面白い。彼らはやってきて、僕の意識の中に像を結び、はっきりした言葉に結実しないままに、すぐにまた去っていく。どんな人と出会ったか、後になるともう思い出せない。でも、人々の像が目に入ってくる瞬間、瞬間ごとに、ぼくは笑いたいような興趣を感じるのである。
 その面白さの正体は何なのか。ぼくはそれについて思いを巡らせる。正直のところ自分でもよくわからない。
 ある意味では、人それぞれどこかに〈変なところ〉がある。探せばいくらでも欠点やおかしなところが見つかるだろう。けれども、ぼくがここで面白いと感じるのは、そういう変なところ、欠点といったものではない。そうではなくて、人にはそれぞれにその人の特徴がある、それがみな不思議なほどちがっている、ああ、人間というのは、たがいになんとちがっているのだろうか、こんなに沢山いる人たちがみなそれぞれに言葉では言い表しきれないほど豊富な特徴をもっているのだ、と感じる面白さである。
 個々の人に特有の形、印象がぼくの意識の中に明瞭な像を結ぶとき、「あ、この人はこんな顔だ。この人はこんな形だ。この人はこんな服を着ている。こんな歩き方をする。この人は肩から斜めに鞄を懸けている。この人は腰がひどく折れ曲がっている。この人は腰部が太くて、頭と足がすぼんでいる」と認識するとき、ぼくは心底から面白さを感じるのだ。
 これが人間なのだ、とぼくは思う。単に日本人などという〈のっぺらぼう〉なものではなくて、ザラザラしたりデコボコしたりしていて、そんなにきれいというのでもない。日常生活にまみれて汚れもあるしほころびもある。けれども、個々別々にちがった特徴を備えているために、それぞれがみな輝いていて、興味を引くところのある人間という生き物なのだ。
 ぼくはまたこんなふうにも考えてみた。
 人の顔を見るとき、われわれは、目から入る刺激をもとにして、心のなかに見事リアルな視覚像を創り出す。目から入ってくる光の刺激信号は、立体的な形と色に変えられて心のスクリーンに表示される。それが見るという行為だ。
 それは見る人の意図とは関係なく自動的に行われる。自動的といっても脳はたえず働いていて、目から入ってくる光の刺激を、色彩をもった立体象に変換しているのである。
 見るといっても、われわれはすべてを一様に見るわけではない。出まかせに、でたらめに見るわけでもない。そのときどきの状況に合わせて、対象物の幾つかの部分のうえに、順次焦点を合わせていって、そのものの特徴をとらえたり、考えたりしながら見るのである。そこには常に脳の創造行為が働いている。
 すれちがう人の顔を見る一瞬に、ぼくの心に一つの明瞭な顔像が結ばれる。そのときぼくは、心の中に一つの顔像を創り出しているのだ。
 ただ単に〈見える〉のではなく、見ようと考えて意識的に見るから、「あ、この人はこんな顔だ」と、その人独特の特徴がはっきりと認知される。
 そんな精神の動きが心に生じるとき、たぶん、我々は楽しい、面白いと感じるのである。
 思うに、相手がまったく知らない人、自分と関わりのない人たちだから、こうした面白さが可能なのだろう。知っている人なら、自分とその人との関係がまず意識されて、相手の気を損じないように笑顔を見せたり、必要に応じて相手の身の上を案じたり、ときには警戒して距離を置いたりする心が働く。そうなると、こんな面白さを感じている余地はない。
 いろんな人たちがいる。中には深刻な問題を抱えて苦しんでいる人もいるはずだ。大切な家族を亡くして悲嘆にくれているかも知れない。重い病気をもっていたり、夫の暴力、子どもの不登校の問題に悩んでいたりするかもしれない。ただ、そういうことはぼくにはわからない。わからないから、面白いなどと言っておられるのだろう。
 すれちがう瞬間、ぼくはその人の顔をはっきりと見る。ある意味それはかなりぶしつけな行為である。客観的で冷静な視線を働かせて、相手の顔かたちを、明確な意識の中で認知するのだから。けれどもそこに客観的な冷たさがあるかというと、そうとも思われない。なぜなら、ぼくはすれちがうたびにそれぞれの人に不思議な親しみを感じるのだから。
 そう、まさにその瞬間、ぼくはその人になる。いや、その人がぼくの中に入りこんでくる。


   2  「自分を観察する」というゲーム

 故郷を離れて、はるかな都会で単身生活をするようになったころ、彼は日々信じられないほどの悩みを心に抱えていた。それはどうにもしようのない自分という存在の欠陥性と孤独性の意識から生じるもので、生涯彼につきまとって離れない本質的とも思われる悩みだった。
 それは彼が故郷にあったころからすでに明らかになりつつあったが、都会に出て暮らすことになって、いよいよ決定的なものとなった。
 住み慣れた郷里の村を去るとき、彼は新しい世界と生活への希望をふくらませていた。いざ、都会に出てみると、自分はそれまでの自分とまったく変わらない、それどころかいよいよ明瞭にどうしようもなく自分でしかありえないのだ、ということに気づくことになった。
彼は意味もなく無闇に人混みのなかへ出かけた。それは夜の光に吸い寄せられていく昆虫のようなものだったが、同時に自分という存在につきまとう本質的な惨めさを、このうえないほど明瞭に認識するためであるかのようだった。
人々が行き交う街路を、悶々とした心で通り抜けながら、彼は否応なく欠陥品である自分に向き合うことを強いられた。まちがいなく自分は人々のようではない。自分はみんなのように、人と親しく接したり、友だちになったり、気軽に行き来したりするための何かを致命的に欠いている。…
「自分を観察して楽しむ」という奇妙な習癖が彼の中に生まれたのは、こうした日々の中からだった。
 自分という人間の欠陥性、不具性の意識に苦しむ中で、精神のバランスをとるために、自分を観察してそこに自分の存在意味を発見していくといった作業が、彼にはぜひとも必要だった。
 自分とは何か。いったいこんな自分にどんな意味があるのか。たしかにどう考えてみても意味があるとはいえそうでない。それは紛れもない事実だ。それでもやはり意味があると考えることのできる何かがあるのではないか。… 
「自分を観察する」というゲームは、そんな中から考案された苦肉の策だった。ゲームを楽しむために彼はいよいよひんぱんに街へ出かけるようになった。
彼の中では「観察される自分」と「観察する自分」がいつもセットになっていた。人混みにもまれて、あてもなくさまよう惨めな自分を彼は街々に見出した。その自分はたしかに彼に甚だしい苦痛を強いた。けれども、そんな自分の後ろにいつももうひとり別の自分がいることに彼は気づくのだった。
その別の自分(=自分を観察する自分)は、現実の自分(=自分を生きる自分)の演じる救いようのない惨めさや滑稽さの一部始終を観察して記憶に留める。家に帰ってからその日あった慰めのないことどもを洩らさずにノートに書き記す。そうすると、不思議な魔法力によって、そんな悶々とした苦しいことどもが、何かしら特別な喜びに変わるのだった。
 癒すことのできない悩みの原因である〈自分〉が、それを観察することによって、このうえない喜びの源泉ともなりうる、そのことに彼は気づくようになった。
 自分の中にある致命的な欠陥――そんな欠陥の中にこそ、何かしら底知れないもの、喜びが湧き出る泉、黄金を生み出す魔力といったものがあるのかもしれない、そんな気が次第に彼にはしてきた。
「いったい自分には何があるのだろうか」
 そう自問してみた。しばらくするとこんな答えが返ってきた。
「自分を発見すること、自分の中に価値を見出すこと、それが自分の仕事ではないだろうか。自分には人間的なものを発見するという機会が恵まれている。そのためには、自分のこのような欠陥性、無力性が絶好の土壌となるのではないだろうか」


   3  奥の手
 
 日常生活のなかで人が思ったり感じたりするいろんな心の断面は、文章の形で取りだして眺めると、〈ちょっとしたご馳走〉になるのではないか、と私はこのごろよく思う。
 そんなごく普通の人間の心のありさまを素材にして、なにかおもしろい「作り話」を書けたらと考えて、私は日ごろから材料になるかもしれないネタを集めようと努めてきた。が、思っているわりに、いっこうにそのネタが集まってこない。よく考えてみるまでもなく、ネタは〈集まってくる〉ものではない。常々こちらから心して〈集める〉必要があるのだ。
 そう気づいてみても、問題はそれほど簡単ではない。
 このごろ私にもわかりかけてきた。いや、とっくにわかっていた、というべきか。
「作り話」(ここではいわゆる短編)を書くには、そんなにたくさんのネタはいらない。ほんの小さな切れ端の材料がありさえすれば、そこから発想がひらめき、四方八方に連想がふくらんで、一つの作り話ができてしまうもののようなのだ。
 少なくとも私の知り合いの書き手Dさんの場合はそうであるらしい。Dさんは銀行員というおかたい職業を永年勤め上げてきた。定年間近になったこのところ、創作力旺盛で、ニワトリがタマゴを産むみたいに次から次へ作品を生みだしている。
「大事なのはまず〈初期衝動〉だね」とDさんはいう。「書きたい思いが発動する、このことを書いてみたいと思う、その人に固有の、原初的な衝動――それがなければ、見事に手際よく書けていても面白味が出ない。初期衝動は水のなかから顔を出す魚のようなもので、それをていねいにすくいあげて水槽に入れ、エサを与えて大事に育てる必要がある。本を読むのもいい、資料を集めるのもいい。初期衝動が刺激を受けて形になっていく助けになるかぎりにおいてはね。けれども大切な初期衝動にお預けを食わして、それをすぼませてしまうことになるのだったらやめたほうがいいね。捕まえた魚は掘り出された原石のようなもの、消えやすく失われやすい。いったん失われてしまうとなかなかもどってこない。そんなふうにして、人はこの世でもっとも貴重なものを置き忘れたまま暮らしていくのだ」
 なるほど。なるほど。… とはいえ、私の場合、なかなかDさんのようにはいかない。
 どうやら私には「作り話」を作る才が欠けているようである。
 思いついたことを断片的な雑文にすれば、まあまああるていどのものはできるのだが、それをもとにして一つのまとまった「作り話」を作るとなると、たいへんな困難を感じるのだ。
 毎度のことながら、締め切り間近になって、書けそうなことが何も頭に浮かばない状態に追い込まれる。期限あと数日になっても、いまだ書くべきテーマが決まらない。あれを書こう、いやこれにしようと試してみては、あれもだめだ、これもだめだとなる。
 今となってはいよいよ奥の手を使うしかない。ずっと前に書き散らした雑文の中から適当に幾つか取りだしてきて、手を加えて並べてみる。雑文であってもそれなりに〈ちょっとしたご馳走〉になってくれるかも知れない。


    4  あぶない、あぶない

 彼はM市の郊外にある出版関係の会社に就職した。
 そこでKという若い女性に出会ったとき、孤独な都市生活の中で身につけた〈自己観察〉の性癖が、自分の中で活発に動きはじめるのを感じた。
 彼女を見て自分の心に生じたものに彼は強い興味を感じ、それをじっくり観察してやろうと思った。彼女によって自分がどんなものを感じるか、彼女のかたわらで自分がどんなふるまいをするか、その一部始終を見届けてみたくなったのだ。もちろん、あくまでも秘密のもの、彼女にもほかの誰にもけっして知られてはならない隠しごととして。
 もとよりこの種の感情には最初から苦しみがともなう。彼女を見て感じる喜びが大きければ、それだけ苦しみも馬鹿にならないものになる。その苦しみが彼をどんな事態に追い込んでいくか予測できないところがある。夏目漱石の三四郎ではないが、あぶない、あぶない、気をつけないと… これは危険な火遊びである。彼はそのことを承知しないわけではなかった。
 けれども、そういう危なさや苦しさをふくめて、自分の心に起こる一部始終を観察するという営みは、彼の心にとってこのうえなく貴重なご馳走となるにちがいない。さらに一日の終わりに、その日あったことを逐一ノートに記しながら再体験することによって、そのご馳走は二重になるにちがいない。
 過去に孤独の中でつちかった経験から、彼はそうしたことを心に予感したのだった。

 彼は書物を荷づくりして注文先に送るために、包装紙と荷づくりのひもをとりに行った。いつもの場所にそれが見つからなかったので、Tさんにたずねた。
「Kさんにきけばいい。Kさんのところにストックがあるから」とTさんは彼女の名前を言った。
 それは彼も承知していた。ただ、できるなら彼女に近づくことをを避けたい心の事情が彼にはあった。彼女が人と話しながら溢れるように華やかな声で笑うのが聞こえたのだ。彼女の笑い声は彼には脅威である。とても近づけない。…
 それでもとうとう彼は心を決めてKさんのところへ行った。飛んで火にいる夏の虫ではないが、火に焼かれて消滅してしまうのではないかという思いだった。
 ただ、そのとき同時に彼は自分の中にもう一人別の自分がいることに気づいていた。その自分はそんな状況の中へ飛び込んでいく自分を面白がって見ているのである。
 彼は彼女のすぐ横にいたFさんに用件を言った。幸か不幸かFさんは机の上に書類をひろげて忙しそうにしている。それを見てKさんが彼に近づいてきた。
 思わぬところで、彼女と向き合うという滅多にない幸運に巡りあうことになって、彼は戸惑いながらも喜んだ。彼は彼女に用件を言った。彼女の顔がすぐそこにあって、彼に向かってくるのを見ると、彼は当惑し、満足に言葉が言えないような危惧を感じた。そんな彼の混乱ぶりが彼女にもわかってしまうと思うと、なおいっそう当惑した。
「ホウソウシ」と言うつもりで、彼は「ポウソウシ」と言ってしまった。
「包装紙ですか」と彼女は鮮やかな笑顔を見せながら言った。「それと荷づくりのヒモですね」
  彼女は頼まれた品物を取り出してきて、彼に差し出し、「これでよろしいか」と言った。このとき彼女の顔をはっきりと見ることができた。彼女は笑っている。唇の赤さが鮮やかで、顔もきれいに化粧していて、目がくらむ感じ、ああ、と悲鳴を上げたい思いだった。こんな彼女を見ることをまったく予期していなかった。彼女が彼にこんなふうに気軽に明るい笑いを向けることができるのは、彼のことを特別に何とも思っていない徴候だ、という考えが彼の中で閃いた。
彼女と言葉を交わせたことが即ち火のような喜びだった。後にやり切れない思いが残るものではあったけれども。
 この人と近くなれないでは苦しくなる、けれどもこんなにいいようもなく心に触れる人に近づくあてはないのだ、という思いに彼は貫かれた。彼に向けて好意的な笑顔を見せる彼女の顔の背後に『不可能』の三つの文字が読み取られた。おそらく恋の感情をこのうえないものにまで深め高めるのはこれだ。かいま見られる〈至上のもの〉の向こうがわに『不可能』という絶望的な金色の三文字がはっきりと刻み込まれているのである。
そのとき彼女が彼に向けて一つの質問をした。彼がおちいっている混乱の印象が彼女にも伝染したのだろうか。最初言いだすときの彼女の口調に微妙なためらい、そして震えがあるような印象があった。それから彼は思いがけなくも彼女と一言二言ことばを交わすことになった。彼が思いを寄せているひとがこんなに近くにいて、彼に向かって親しい感じで話していることが信じられないことに思われた。
というのも彼女を見て彼が感じる喜びは異常なもの、普通ではないものである。それは彼が彼女に向けることがはばかられるようなもので、そんなものを心にもちながらこうして彼女と対面していることは何という驚きだろうか。このところの彼の心の深まりは常ではない。彼女への感受性が極度に高まっているときに、こんなに近くに、すぐ目のまえに彼女を見るという、まったくあり得ないような出来事… その瞬間彼は自分の思いが彼女に通じているような錯覚におちいった。しかも彼女はそれを悪く思っていない、それどころか彼のそんな気持を彼女もまた色青ざめた心で意識しているのだ。…
 彼はいいようのないものを身内に感じた。それは彼女の存在と深く結びついた、特別の悩ましい色合い、味わいを持った何かだった。そこにはやはり〈淫蕩〉の感情が色濃く混じっていたにちがいないのだが(恋の感情は欲望と無縁なものではないから)、彼はそれを意識していなかった。これは価値のある感情である。たとえ報いられるところが極めてわずかで、苦しいような渇きと憔悴が続いていくばかりだとしても、それを感じることにはこのうえない価値がある、それを感じないよりは感じることのほうがずっといい。そう彼は思った。
 〈自己観察〉の習癖は、こんなふうに滅多に得られないような種類の楽しみを彼にもたらしたのだった。 
                   (完)

 


それは空から来た

         
   1 金色の美しい物体

 ぼくは田舎の道を歩いていた。田んぼの中を曲がりくねって続く通学路で、むかし通った小学校のすぐ近くのようだった。朝の通学の途上のこと、向こうに学校の土手と建物が見える場所まできていた。
 そのとき、何か小さく光るものが遠くの空に見えて、すぐに消えた。金色の美しいものだった。
 さらに進んでいくと、再び金色の輝くものが行く先の空中に現れた。それは弓なりに反った細長い物体で、キラリと光っていて、実体感があり、黄金の弓のような、あるいは剣(つるぎ)のような、いや、そうだ、ちょうどブーメランのような形だった。それがゆっくりと上空から降りてきて、かなり大きく見えるところまで来てからまた上昇した。動きはとても静かであるが、一瞬にして大きくなりすぐまた小さくなるというふうだった。朝の登校時、ほかにもランドセルを背負った子どもたちが三々五々学校のほうへ向かっていた。

 「UFOだ」

 なぜかぼくはそう思い、不安を感じた。「でも、ぼくのところへ降りて来ることはないだろう… ほかにも子どもたちがいるのだから、あてずっぽうに選んでも、まさかぼくにあたることはないだろう… 」
 ところが、そいつは他ならぬぼくのところで降下をはじめた。
 
 「まさか… それはない… 」
 
 金色の美しい光を発する物体は、ぼくのすぐ目の前に降りてきて静止した。ぼくは当惑した。いったい何をされるのだろうか。注射されたり、身体の中をいじくられたり、そんなことになるのではないだろうか。… 

 そこで眼が覚めた。
 
 非常に鮮明で印象的な夢。UFOが天から降りてきて、ぼくの中に何かしら得体の知れないものをを注入し、ぼくの身体をある特別なものに変えた。目がさめた後もなおその作用が続いているような感触がぼくの中に残っていた。


     2 今日の夕食のおかず

 ぼくは応接間のソファに身を横たえている自分を見出した。さきほど本を読んでいる途中、むしょうに眠くなったのを覚えている。すぐその後、眠り込んでしまったもののようだった。しばらくすると、キリギリスが奏でる弦楽器の調べが、その場の空間にきれいな曲線を描いていることに気づいた。
 
   チョン… … ギーース…
 
 九月一五日の午後二時すぎ。外は曇天模様。
 むかし子どもたちはその虫のことを鳴き声から「チャンギリス」とか「チョンギリス」とか呼んでいた。発する源は窓のすぐ外の庭の隅のようで、注意を向けて聞くととても好ましい音色である。さっきからずっとそこで奏でられていたにちがいないのに、ぼくはいっこうに気づかなかった。さらに思いをいたすと、この夏ずっと聞こえていたにちがいないのだが、このとき初めてぼくはその存在に気づいたのだった。

 気づかないでいるあいだそれらはそこに存在しない。気づくとたちまち存在しはじめるのである。
 その声は昔からよく知っているもので、「チャン(チョン)」と鳴いてから、一瞬間を置いて「ギー……ース」と空間に美しい弧を描く。弧は下方から斜めに投げあげられて地面に向かって落ちていく。落ちる途中で空中に消える。注意して聞いてみると、その音は「チョン(チャン)」というよりは「チッ」と聞こえる。どこか下の方でまず「チッ」と乾いた摩擦音を発しておいてから、おもむろに弦をこすって軽やかな弧を空間に描き出すのである。次から次へと弧は投げあげられていく。そのうち気づくと、どうやら一匹ではない。あちらこちらにいくつか音源があるようだ。そうするうちに遠くからコオロギが背景音を奏でていることに気づく。スズムシの音もときどき混じってくるようである。…

 しばらくその音に聞き入ったあとで、ふとわれに返ると、夕食のおかずのことに思い至る。
「さて… 」とぼくはいつもの悩ましい考えにもどってくる。「今日の夕飯は何にしたらいいのか? きのうはおでん、おとといはすき焼き、その前はお好み焼き… 」
 定年退職を迎えてから、ぼくは家庭の主夫業を担当することになった。ほぼ毎日、市内のスーパーマーケットに寄って食料品を買うことが日課となった。買わなければならない食料品が、日々追っかけるようにあれこれ出てくる。「冷蔵庫のニンジンがあと一本しかのこっていなかったな。タマゴが残り少なくなったようだ。たしか豆腐ももうなかったな。忘れずに買わなければ… 」
 最初のころは一週間分をまとめて買いだめすることを考えた。共稼ぎで、ひどく忙しかったとき、妻は通常一週間分くらいの食料品を買いだめしていた。彼女はけっこう豪快にあれもこれもと買うので、いつも冷蔵庫が満杯状態だった。ただ、そうすると賞味期限などの関係で、無駄に捨てる品物が多くなる。それに買い物に出ることは、生活に変化とアクセントをつけて、一つの気晴らしになるという面もあった。運転する車の中で音楽を聴き、スーパーマーケットの駐車場で本を読み、思いついたことをメモする。そんなとき意外に脳が活性化して、おもしろい着想が浮かぶのである。
 ここ数日、次々とそれなりのメニューがあって、まずまず満足にすぎてきたという気がしていたものの、そろそろ種がつきてきた感がある。いや、手持ちのメニューはまだまだあるのだが(数えてみると自分ながらそんなにあったのかと驚くほど)、このところの自分の食欲感覚に尋ねてみると、どれもみなイマイチという気がするのである。品は数々あっても、いずれもすでに何度も繰り返し作ってきたものばかりで、新味がない。どれを取り出してきても、それを食べる人から、「ええ? またあ?… うんざり… 」と思われそうな気がする。まずいと思いながら我慢して食べてくれるのでは困ったことである。ヘタをするとムシの居所が悪くて、容赦のない手厳しい言葉を浴びるはめになるかもしれない。
「何かもっと美味しい料理を覚えてよ。料理の本とか、新聞とか、テレビとか、インターネットとか、いくらでも勉強する場があるでしょ? いったい毎日何をしているの? いくらでも時間があるのだから料理教室に通ったらどうなの? 家にいても何の働きもないのなら、仕事に行って少しでも稼いだほうがいいのでは… 」
「ム、ム… 」

 一年あまりの間、毎日、家族の夕食担当を続けてきた結果、けっこうぼくの料理品目も豊富になってきたと今は感じ始めている。カレーライスやシチュー、スパゲッティ、焼きそば、卵焼き、ほうれん草のおひたし、みそ汁などは、現役で働いていたときにも、疲れがちな妻の助けにとしばしば作り慣れてきた定番メニューであるが、退職後、料理の本を見ながら新しく作るようになった肉じゃが、親子どんぶり、手巻き寿司、すき焼き、お好み焼き、キムチ鍋、マーボー豆腐、ちらし寿司、てんぷら、ポテトサラダ、オムライス、肉詰めピーマン、キュウリの酢の物… さらには折々の野菜を使った炒め物、あえもの、煮物の類、その上に手間をかけないでほとんどそのまま食べられる納豆や大根おろし、かつおのたたき、出来合いのトンカツ、鶏の唐揚げ、等々… 等々… 数えてみればメニューの品数は実に豊富ではないか。妻がいつも作っていたものを頭に描きながら、本などを見て、自分なりにやってみてなんとか覚えたものである。問題はその味や出来映えで、かなり手慣れてきたとは言っても、どうも自分の料理の手際、センスは、安定性と細やかさに欠けていて、とうてい妻のようにはいかない、と自分ながらにも感じるところがある。
 一年ほど前に結婚した長女のトモコが、たまに来たとき料理を作ることがある。箸にも棒にもかからないと思っていた娘だが、さすがに現代っ子、グラタンだの、ピザだの、バスタだの、鮭の切り身をフライパンで炒めてチーズをのせて溶かしたのだの、ハンバーグにニンジン、ポテト、ピーマンをそえたのだの、もっぱら現代風のシャレたものを作る。そういうときには、妻は「おいしいね」と誉める。
 父もたまにそういう料理を作ればいいのだが、そういうのはややこしくて難しい、現代風の料理のセンスが自分にはない、試してみても失敗する、という強迫観念があるのだ。以前新聞の料理記事を見ながら試してみたことがあったが、見事に失敗した。何度かやってみれば案外簡単にできてしまうのだろう、そのうちに挑戦してみよう、などとは思うものの、いまだにその領域に踏み込めないままだ。
 トモコの料理は現代風のものに片寄りすぎている。そのうえ太ることを気にして、食べる量が極端に少ない。父は、食べ物と健康についての本を幾つか読んだ影響で、以前から娘一家の食生活を気にしていて、「それでは身体の抵抗力が弱くなって、病気になりやすくなるよ」と言ったりする。が、あまりうるさくいっても反発を感じるだけだろうと思って控えている。結婚する前のいつか娘に『和食のすすめ』という本を渡し、「これを読んでみて。別にこのとおりしなくてもいいんだよ。基本的な考え方がわかればいい」と言うと、彼女は読んだようである。その結果変わったかどうかは何ともいえないが、食生活に多少でも関心をもつようになってくれればと思うのである。
 幸いなことに、妻は戦後の貧しい時代を知っている人なので、野菜の煮物やおひたしとか、みそ汁とか、大根おろしとか、わけぎの味噌あえとか、昔ながらの食べ物に親和性をもっている。ぼくが作る定型的でちょっと旧時代的な色合いの濃い食事でも、基本的に彼女はそう違和感をもっていないようである、とぼくは勝手に思っている。ただ、ときどき(しばしば?)、そうとはっきりいわないながらも、「食傷する」ようなのである。

 昔、子どもの頃、母が近所の人との立ち話でこんなことを言うのを何度か聞いたことがある。
「来る日も来る日も、今日のおかずを何にしようかと考えるのは嫌やねえ」
 それをきいたとき、ぼくは、世の主婦たちが毎日の食事を準備するために頭を悩ませ痛めていることを知った。今まさに、それと同じことをぼく自身が実感することになった。
 ぼくが退職した最初の頃、妻は仕事から帰って夕食の食卓に向かいながら、子どもに言ったものである。
「仕事から帰ったとき、夕食ができているのは、ほんとに有り難いなあ」
 かつて、毎日、勤めから帰る道々、彼女は「夕食は何にしようか」と思う憂鬱を経験してきたのだ。仕事と主婦業をかけもっている状態で、日々離れ業のような奮闘を余儀なくされたのにちがいない。その気苦労、心の重荷から解放された喜びを、彼女は直接ぼくにではなくて子どもに向けて語ったのである。けれども、その後、それに慣れてしまうと、そういう言葉が彼女の口から聞かれることもなくなった。

「夕食に何を作るか」について、いよいよ決めなければならなくなった午後、突然、台所のストックにヒジキが残っていたことがひらめいた。「ヒジキ、うん、ヒジキ、うーん… 」とぼくは思った。「これで満足してもらえるかどうか… 」
 ぼくが最初にヒジキの煮物を作ったのは、夕食担当になってから、三か月ほど経ったときだった。かつて妻がたまに作っていたヒジキの煮物のことを思い出しながら、やってみると何やらそれらしいものができた。彼女は「へえ? ひじき?」と言って、珍しそうに食べた。出来映えはともかくとして満足したようだった。その後も間をおいて何回か同じ物を作った。しかし、そろそろマンネリになりそうな気がするのである。
 ぼくは台所の引き出しからヒジキの袋を取りだしてみた。
「インターネットでヒジキ料理を調べてみよう」と突然思いついた。さっそくパソコンに向かってインターネット・ウエブサイトの検索をしてみると、あるある、いくらでもある。「ヒジキの煮物料理」の数々。…
 幾つかのサイトを調べるうちに、それぞれみな少しずつ違っているが、ひじきといっしょに炒めて煮るものに、多種多様のものがあることを知った。ニンジン、大豆、あぶらげ、てんぷら、こんにゃく、干し椎茸、豚肉、鶏肉… ということは何でも行けると言うことだ。…
「よし今日はこれで行ける。これと焼き魚とみそ汁、キュウリの酢の物」とぼくは考え、幾分自信を回復した。「インターネットを利用すればけっこう行けそうだ。… うんうん。… 」

 三時過ぎにぼくは、台所のテーブルの上に常備している買い物メモを一枚はがしてたたみ、ズボンのポケットにいれた。
「あぶらげ、大豆、たまご、さば、しょうゆ、豆腐、ティッシュペーパー… よし… 」


     3 現実とは別の空間

 車のエンジンをかけると、例によってカーステレオの音楽が鳴り始める。このところはもっぱらゲオルク・マティアス・モンのチェロ協奏曲である。つい十日ほど前に出会ったばかりの曲。まったく偶然の出会いだった。

 インターネットで検索すると、ゲオルク・マティアス・モン(マティアス・ゲオルク・モンともいう)は、十八世紀前半にウイーンで活躍したオルガニスト兼作曲家で、没年はバッハと同じ一七五〇年。ただしバッハよりも三十二才若く、三十三才で亡くなっている。バロックから古典派へと、ヨーロッパ世界の音楽が大きく移り変わっていく過渡期に活躍した人で、後にハイドンやモーツァルトが確立した四楽章形式の交響曲(第三楽章にメヌエットがくる)を初めて作った作曲家として知られる。その曲想には、新しい時代を予感させる息吹が感じられる。モンの没後約三〇年たった一七八一年にモーツアルトがウイーンに移り住んで、ハイドンとともに、後に「ウイーン古典派」と呼ばれる音楽を華やかに展開していくことになる。

 昔からぼくは、折に触れてラジオ放送から気に入ったクラシックの曲を録音して保存する習癖があった。オープンリールのテープレコーダー時代からはじまって、カセットテープ、ミニディスク(MD)、そしてパソコンと経過して、最近ではパソコンのハードディスク容量が膨大になったので、幾らでも保存できるようになった。保存しても、結果的にそのほとんどの曲は再び聞かれることもないままに眠る。明らかに時間と労力の著しい無駄というべきだろう。そんなにいっぱいため込んでも、さらに次々と新しい曲が追加されていくのだから、人生には、それをじっくりと鑑賞する時間的余裕などあるわけがない。何という愚かな浪費だろうか。そう思いながらそんな営みをなかなかやめられないのである。断続的ではあっても、長い年月の間には相当な量の曲が溜まっていく。それを保存し整理するだけで、けっこうな時間が消費される。こんなことは極力控えようといつも思うのに、そのことがやめられない。その源泉には、「心に触れてなつかしいもの、価値あると感じられるものを失いたくない」というような思いがあるようである。

 とはいえ、近年、年を重ねるにつれ、ぼくの好みはますます幾つかの少数の作曲家、少数の曲に片寄ってきて、ブラームスもいい、ラヴェルやドビュッシーやブルックナーにもいいものがあると思いながらも、結局聞くのはいつも原点の少数の曲なのだ。モーツァルトのピアノソナタハ短調とイ短調はその定番で、そこにバッハの協奏曲やオルガン曲、ビバルディの短調の協奏曲などが入り込んでくる。あれこれ魅力的な曲が沢山ある中でも、昔からぼくは憂いの色に染まった短調の曲を好む傾向があった。短調の音色が〈憂い〉というよりも、〈喜びそのもの〉のように感じられるのである。

 もう一つ、最近のぼくの興味は、大バッハと同時代又はそれ以前の、名も知らない古い音楽家の曲を知りたい、という方向へ向かっている。そういうものの中にも、聞いてみると、いい曲が少なくないことに気づき始めたのである。知り始めると、次々と予想もしなかった新しい作曲家の名が現れてくる。
きっかけは、ブクステフーデだった。バッハより少し前の時代の人で、若きバッハは彼のオルガン演奏を聞くために三七〇キロメートルの道を徒歩で旅行したという。バッハは当然彼の音楽から大きな影響を受けた。そう思って聞くと、ブクステフーデのオルガン曲などには、バッハに非常によく似たのがある。

 先日ぼくはブクステフーデの曲を車の中で聞こうと考えた。パソコンの中に保存したいくつかの曲をMDにコピーしたところ、あと一曲くらい録音できるスペースが残った。たまたますぐそばに名前を知らない作曲家の曲があったので、、ついでにそれもMDに入れた。二年ほど前にいっしょに保存した数曲の中に混じっていたものだ。ゲオルク・マティアス・モンのチェロ協奏曲ト短調。このところ、車のエンジンをかけたとき、まず聞こえてくるのはこの曲である。

 保存したというからには、それなりの魅力を感じさせるものがこの曲にあったのかもしれない。すれ違った女性に何となく心を引かれるものがあって、写真に撮って残しておきたいと思うようなものである。もちろん女性の写真はそう簡単にとるわけにいかない。音楽ならば幾らでもとって保存することができる。ただ、保存された曲はたいてい、ほかの曲と同じようにパソコンの中に眠ることになる。そんな中から、いつの日か思いがけない偶然によって、拾い出されるのである。

 その曲はささやかな慎ましい曲で、バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルト、ベートーベン、ブラームス、ブルックナーなど、人の感受性の深部にまで達して、力強い感動を与える音楽と比べると、どこか軽くて頼りないような風情である。「とてもいい曲だ」と大きな声でいうことに気恥ずかしさを感じるところがある。この喜びがいつまで続くのか、明日にでも消えてしまうのではないか、と心もとない気もするのである。

 今のところはまだ、この憂いの色に染まった美しい曲の旋律が、ぼくの中の感受性の弦を特別な喜びで響かせてくれる。音が作り出す形、色合いに〈胸ときめくような〉花やぎがある。その花やぎの形と色合いが眼前に現れてしばし舞い踊ったかと思うと、そのうちに帳の奥へ去って出てこない。再び出てくるかと待っていると、やがてまた現れてえもいわれない風情で舞い踊るのである。

 恋に落ちたひとがその相手の顔姿を見ることに信じられないような喜びを感じるのと似ているかもしれない。思いを打ちあけられた第三者である友人は、その相手の人を見て、「ええ? どうしてこの人を?」と奇異に思う。どちらかというと興ざめといってもいいくらいの容貌だし、人柄とか雰囲気とかに幾分魅力があるかもしれないけれども、そこまで思うほどの相手だろうか、と強い疑念を感じるのである。

 いずれにしても、折りに触れてぼくはその曲を聞きたい気持になる。他にもいいと思う曲は幾つもあるが、今は何よりもまずこの曲をと思うのである。恋する者が、目の前に相手がいない場所においても、その顔姿を繰り返し心に想い描いて、それが与える至上の喜びを享受したいと思うのと同じように、ぼくはその曲をそらで覚えて、口ずさみたいと思うのだ。けれどもなかなか思うようには覚えられない。一方では、あまり繰り返し聞きすぎて、その姿、形を熟知してしまうと、魔法が解けて、ありふれたものになってしまうのではないかと不安に感じる。そこでぐっと我慢して、間に他の曲を幾つかはさんでから、またその曲に戻ってくるのである。たしかにその曲には微妙で壊れやすいような風情がある。こんな素敵な喜びが消えて失われてしまうのは惜しまれる。「怖い」といってもいいくらいである。そう思いながらも、おそるおそる聞いてみると、やはり「とてもいい」のである。

 十八世紀前半のウイーンで活躍した、今はその名もほとんど知られることがなくなった一音楽家の作った一つの曲が、二十一世紀日本の片田舎に住む一愛好家の心をこのように喜ばせる、ということは、大変不思議なことに思われる。

 いってみるならば、現実世界のかたわらに、〈現実とは別の空間〉が生じて、ある特別な喜びの世界が現出するのである。

「あ、これだ、これこれ… 」とぼくは思う。「これを書かなくては… 」
 そうしたものは人間の〈内的な感受性〉の可能性の中にあるが、外側の〈現実〉の世界にはない。そもそも〈現実〉そのものは翼もなく夢もない姿でそこに横たわっている。そんな〈現実〉が人の〈感受性〉と〈想像力〉に触れるとき、はじめてそこに翼と夢が生まれる。

 ほんとうに価値あるもの、心を喜ばせるものは、〈感受性〉と〈想像力〉の中にこそ生まれるのである。 




    4 思いがけない事態

「Zさん」とYさんが後方から来て彼の名を呼んだとき、Z君は自分の心に生じるであろうことをまったく予期していなかった。

 その春、その事務所に転任してくるまで、Z君は彼女を知らなかった。
 これまでもお互いの職場が十二階建の同じ建物内にあったのだから、エレベーターや廊下、ロビーなどで何度も見かけているはずだと思われるのだが、見覚えがない気がした。どこの部局にどんな女性がいるかといったことに、彼はあきれるほど無関心だった。勿論仕事場から外に出ると、毎日どこかで彼女たちのうちのだれかとすれちがうことになるのだが、彼女たちはいずれもたがいに似通った存在、自分には無縁な存在としてすぎていくだけで、そのうちの誰かが心に特別の痕跡を残して行くということにはならなかった。

 実は、その前夜、新しく転入してきた職員のための歓迎会があって、Z君はすでにそこで彼女を見かけていた。その日、彼は早めに帰らなければならない用があった。新しく同僚になった顔見知りの数人にビールをついでまわって、こっそり姿をくらます考えだった。三十人あまりの人たちが参列した宴はにぎやかに盛り上がりを見せていた。けれども馴れないせいもあるのだろう、新しい職場の空気は彼には何となくもったいぶった窮屈さが支配しているように感じられて、馴染みが薄く疎ましい気がした。ころあいを見計らって彼はビール瓶をもって立ちあがった。直接の上司である係長のイマイ氏、主任のワクダ氏に挨拶し、さて次にどちらの筋に行こうかとビール瓶をもったまま立ってこちらへ行きかけ、人が多いので止め、またあちらへ行こうとして止めて、何度か迷った末に、以前同じ職場にいたことのあるシモカワ氏のところへいって、ビールを注いだ。

 シモカワ氏と二こと三こと言葉を交わしてから、さて次はどこへ行こうかなと立ち上がると、すぐ隣の席にいた女性が目に入って、彼は行きがかり上ビールを差し出した。場の状況からして、そのままたち去っては、彼女を無視したようになって悪いかと気を遣ったのだった。

 彼女はグラスを差し出した。Z君はビール瓶を傾けながら型どおり「よろしくお願いします」と言った。そしてすぐに軽くうなずいて立ち去った。
 彼女と向き合った一瞬、どんなものを感じたか、Z君はほとんど覚えていない。少なくとも心に深刻な印象を残すようなものは何もなかった、とはいえそうだ。その少し前にシモカワ氏が彼女と何やら親しくしゃべっているのを彼は遠くから目に留め、彼女がちょっと独特の感じのいい容貌をもっていることを認めた。といっても、彼女の存在に特別な興味を感じるということはまったくなかったはずである。
 宴会の場を中座して道を急ぐ途中、彼女の容貌の痕跡が残像のようにZ君の脳裏をかすめていたかどうかは何ともいえない。たとえそういうことがあったとしても、それはその場限りの一般的なものだったはずだ。

 ただ、道を歩きながらふとZ君は、前の職場にいたころのことを思い出した。一年近く前に、仕事上の用があって、会社の他の部課の女性が彼のところへ書類をもって来たことがある。
「お客さんですよ」と同僚から呼ばれて彼は席を立った。その客というのは顔を見知っていない若い女性だった。彼はその女性から書類を受け取って、にこりともしない顔で必要なことを手短な二三言で説明した。その時期、職務がら、あちこちの所属の担当者が次々と彼のところへ書類をもってきた。そんな中で、彼はその女性が来たときの状況をたしかに覚えている。ただ、そのひとがどこの部課から来たのだったか、どういう名前でどんな顔だったか、それが思い出せない。年齢や背丈、姿形の印象など、記憶に残っているその人の特徴が、何となくこちらの彼女(Yさん)と似ていたという気がする。そういえばあのときのその女性の用件が、こちらの彼女の担当業務と符合している。とはいえ、顔を覚えていないのだから、別の人だったかもしれない可能性は残る。そう思って、彼はすぐにそのことを忘れた。

「Zさん」とYさんが後ろから彼の名前を呼んだのは、その翌日の朝のことだった。
 そのときZ君は席を立って、後ろのロッカーの書類を取り出して見ていた。彼はすぐ振り返って彼女に向き合った。
 それまでZ君の意識の中に彼女のことはまったくなかった。新しい職場、慣れない人間関係の中で、人が通常経験する戸惑い、不安、緊張、早く仕事や人に慣れて安心したいという思いなどが彼の心を占めていた。
 Yさんは職務上必要なことをZ君に聞いた。
「運転免許証をもっておられますか。コピーをとらせてください」
 Z君は免許更新中で仮免許証しかもっていなかった。飾り気のない素っ気ないような口調でそのことを彼女にいった。
「あ、それでもいいです。仮免許証をコピーさせてください」
 そんなつまらない言葉を二言三言交わしたあと、Z君はズボンの後ろポケットから免許証を取り出した。ケースから抜いてYさんに渡しながら、一瞬何げなく彼女の顔を見た。そして「おや?」と思い、ある驚きを感じた。
 Yさんがコピーからもどってきたとき、彼はもう一度彼女の顔を見た。やっぱり…
「Mさんに似ている… 」

 Mさんは以前彼が所属した職場の同僚で、既婚の女性である。美人ではなく、声もきんきん声で、小柄でちょっとこましゃくれた印象があるとZ君はいつも思っていた。けれども彼はどういうわけか彼女に心を引かれていた。それでどうしようとか、彼女とどうなりたいとかいうのではまったくないのだが、機会があるごとに、気づかれないように注意しながら、彼女の顔姿をそれとなく見た。少しでも言葉を交わせたらという思いから、彼女が数人の人たちと楽しそうに談笑しているところへ入り込んで、話に加わったこともあった。機会をつかんで、彼女に言葉を向けると、彼女はそれなりに笑顔で丁寧に受けてくれたが、その後すぐにそれとなくその場をはずして、別の所へ行ってしまった。似たようなことが別の機会にもあり、何度か重なると、彼女の冷たさはもはや偶然とはいえない気がした。疑いようもない。たしかに彼女は彼を避けている。…
「なぜ?… どうして??… 」
「意外?」というか、或る意味では当然ともいえるが、それでもそれなりの親しみをもってくれてもいいのではないか、という思いが残るのだ。警戒するのはいいとしても、そこまで明からさまに避けることはよほどのことである。…
 彼女はZ君の秘かな思いに感づいていて、それを嫌っているのだろうか。あるいは、彼には退屈で面白味に欠けるところがあるから、彼を避けたい気持になるのだろうか。あるいはまた彼女と初めて向き合った宴会の席でのことが彼の記憶に蘇ってきた。あのとき彼女は座の人々に順にビールをついでまわっていて、新規に転入してきたZ君に対しても愛想あふれる笑顔を浮かべて、ビールを差し出した。そのときどういう加減でか、Z君は何となく愛想のない応答をしてしまった。そのときの記憶が彼女の意識に傷として残っているのだろうか、本当は彼女に対して悪意など少しも感じていないのに、などと彼は思い、煩悶した。そういうことがあるたびに、Z君の心に傷つき怯えたような感情が沈殿していった。
 
 Mさんを見るとき、Z君はいつも心に痛みと疚しさに似たものを感じた。近づきたいという思いと、近づけば傷つくという思いが複雑に入り混じって浮かんできた。
 Mさんは数年前に転勤で離れたところへ行ってしまった。その後も二度ほど機会があって、Mさんと同席することがあったが、そのときも同じようにMさんは彼と親しく向き合うことを避ける印象があった。

 Yさんを見て「おや?」と思ったのは、どこかMさんと似ているような気がしたからだ。その瞬間幻想がZ君の心のなかに入り込んできて、Yさんの笑っている顔がこのうえなく優しく好ましいイメージで形づくられて、心に焼きつけられた。
 いや… 何というか… つまり… ある人がある人にこんなふうに心を引かれる、ということが起こりうるのは、実に不思議である。というのも、それは滅多やたらには起こらないこと、いつでも誰に対してでも起こるということではない。だいたいZ君は、身近にいる女性に特別な感情を向けるといったことを大変やっかいなことに感じるところがあった。自分には女性の心をひきつけるものはないと思うところが多かったから、そんな自分がある女性に特別な感情を寄せるなどとは、ひどく面倒で困ったこと、身に合わないことだと感じられた。相手の立場からすると、そのような感情と期待をもたれることはとんだ迷惑であるだろう。彼自身の身にも恥辱、苦痛などの余計な混乱を招く怖れが多分にある。そんな〈厄介なこと〉にかかわる気になるためには、そこによほど大きな魅力を見出す必要があっただろう。
 たしかにそのような感情は、ある特別な人間関係においては適当であるとしても、一般普通の人間関係の中に持ちこまれると、あまりにも不都合なことにしかなりえないのである。

 ほんの二こと、三ことの短い会話。しかし、そこから生じた結果は驚くべきだった。
 彼女が去った後、Z君は外出する用があって、廊下を通り抜け、階段を降りながらちょっと複雑な気持ちになっていた。
「おい、おい?」と心のうちをのぞき込みながらZ君は思った。「いったいどうしたのだ? この先これはどうなっていくのだろうか?… 」
 どういうわけかZ君はそのとき非常にはっきりと感じた。自分の中に生じたこの思いがけないものは、彼が置かれた現実の状況に著しくそぐわないもので、こんなものを手放しで受け入れるのは明らかに不都合である、そうはっきりと認識しながら、その不都合を拒もうとするよりはむしろ受け入れようとするらしい自分を見出した。彼女から受けた印象には、それほどに深く彼の存在を喜ばせるものがあったのである。

「何かがはじまる」と口の中で言ってみたとき、Z君は軽い戦慄をおぼえた。いったいある女性――ほかでもない彼女!――に対してそんな感情を抱くなどということは、ありうべからざること、あることがあまりにも不適当なことだと感じられた。それは、相手や周囲の人に知られた場合、このうえなくまずい、しかも知られる危険性を十分にはらんだものだった。そんなとんでもないものが自分の中に存在し始めたのを見て、彼は少なからず驚いたのである。
「これが消えるものならば消えるがいい」とZ君は考えた。「もし続くものならば、この先どんなふうになっていくか見届けてやろう。これは自分の存在の奥に眠る貴重なものを発見するまたとない機会になるかもしれない。というのも、そういうものは機会がなければ浮かび上がってくることがなく、発見されることもないだろうから」

 
    5 〈見る〉という単純な行為
 
  その時以来、彼女を見たいという不断の欲望がZ君の心に宿ることになった。
 見るといっても、事務所の部屋はL字型になっていて、彼の居場所から彼女の席は見えなかった。ただ、部屋は一続きになっていたので、仕事の関係上、彼には彼女の近くへ行く機会がときどきあったし、彼女も担当する職務の関係上、彼のいる近くへ姿を現わした。
 とはいっても、誰にも気づかれないで見るチャンスは思ったほど巡ってこない。せっかく近くへ来ても、隠さなければならないという思いが強く、つい見ることを避けがちになる。遠くからの方が比較的安心して見られる。それでちょっとした用を思いつくと、席を立って歩きながら、彼女が見える場所まで来て、人目に付かないように注意しながら、さりげなく視線を彼女の方へ走らせる。「あ」という間もない一べつだけですぐに目をそらすのだが、たしかにそのとき彼は、彼女の〈あの感じ〉を感じとる。そのとき感じるものは、彼女という特殊な人の色に染まっていて、ほかでは決して得られない性質のものだと痛感されるのである。
 ただ、そういう機会が重なるうちに、やがて反省のときが訪れる。いったい自分は何をしているのだろうか。ある一人の人をこんなふうに思い、こんなにまでたびたび見たがることは、何と浅ましく異常なことだろうか。人が知ったらどう思うだろうか。まったくのお笑いぐさだ。恥さらしである。罪悪といってもいい。…
 何度目かにそんなふうに遠くから彼女を見たとき、すぐ左前方の席にいるカシハラ氏がこちらへ顔を上げるのが目に入った。「まずい」とZ君は思った。こんなことがあり得ることは十分わかっていたはずなのに。人目をはばかりながら遠くへ投げられた彼の視線、奇妙な顔つきをカシハラ氏は見たにちがいない。いや、カシハラ氏は以前からZ君の怪しい行為とその意味に感づいていて、それを確かめようとしたのかもしれない。…
「気をつけなければ… 」

 そういう状況に身をさらしてみると、〈見る〉という一見単純な行為が、複雑でやっかいな問題をはらんでいることに気づくのである。
 もちろん、同じ事務所内にいるのだから、見ようと思えばいつでも見られるはずだ。機会が訪れたとき、さりげなく視線を向けさえすればいい。自分から機会を作ることだってできる。
 ところが実際にはなかなか思うようにいかなかった。いったんそのような〈秘密の関心〉が心に宿ると、〈見る〉という行為は意外に簡単ではない。見ること自体には勿論何の問題もないはずだ。日常、ひとはだれでもごくあたりまえのように人の顔を見て暮らしている。見ないことのほうが異常なくらいである。けれども一たび〈秘密の意識〉がそこに入りこむと、けっこうやっかいな問題をはらんでくるのである。
 これという用もなく、言葉を交わすのでもなく、ある人の顔をただ〈見るために見る〉ということになると、それはおのずと微妙な意味を帯びたものとならざるをえない。一度や二度ですむものならば問題もなかっただろう。けれどもそれは一度や二度ですむという性質のものではなかった。
 〈見る〉というからには、やはり完全に〈さりげなく〉というわけにはいかない。きわめて短い瞬間ではあっても、目的物に向けて眼の筋肉を調節し、焦点を合わせてまさに〈見る〉ということが必要である。そのとき一瞬彼の顔に表れるもの、ある夢中な感じ… さりげなく装われるにしても、そのとき、そんな顔で、彼がいったい何を見たのか、何度も何度も繰り返されるうちには人にもわかるにちがいない。機会を作ってこっそりと〈盗み〉見ることが重なると、〈これはあまりに危険だ〉という気がしてくる。そうなるとあとはもう、そんなにまで彼女を見たがっている自分に嫌気がさしてくるのである。
 要するにZ君は自身の中に一つの重大な〈秘密〉を宿すことになった。それは現代人の現代人たるゆえん、人間が単に無色透明の社会的集団的存在としてではなく、内部に秘密の洞窟を宿した一の複雑な〈個〉として存在していることのあかしである。

 その日、朝から、大がかりな室内の模様替え作業があった。ロッカーや机を運んだり、用具を入れ替えたりする作業で、事務所の全員で取りかかった。彼はそういう作業が嫌いではなかったので、人々の中に混じって、けっこう動き回った。作業の間、あちらへ動き、またこちらへ戻るというふうだった。彼女のいる前を何度も通ったが、彼は彼女を見なかった。まっすぐ前を向いたまま、無表情な顔で通りすぎた。彼はそういう自分を無様だと感じた。彼女は嫌われ無視されているように感じるだろうという気がした。彼としてはただ見ることが適当でないと感じたのだった。相手からそれなりの親しみをもたれていると感じているのでなかったら、顔を見ることはなかなか難しい。自分は彼女にとって親しい人間ではない、という疎外されたような思いがあったから、彼女を見ることは厚かましくまた滑稽なことだという気がした。
  彼は彼女の存在にひどく敏感だった。彼女が近づいて来ると感じたとき、或いは自分が彼女の方へ近づいていくと意識したとき、彼はたちまち彼女を見ることを避けた。ちらりとも視線を向けないようにした。ことさらにそっぽを向く感じになってもまずいので、できるだけさりげなく無表情な顔を適当な方向に向けながら、何も見ないようにした。そのくせ彼女がそこにいることだけは実に敏感に意識しているのだ。当然ながら彼女もこちらを見なかった。ただ、心なしか彼女もこちらに過敏になっているような気がした。勿論それは彼の欲目にすぎないだろう。… 
 彼女の目の前に自分を見出すことはひどく具合が悪く落ち着かないことだった。自分の気のきかない無様さ、どうにもならない固い表情、よけいな意識が気にかかるし、言葉を交わすことになったら、動転してとんでもない醜態をさらすのではないかという不安を感じた。もちろん彼女のいるところへ行きたい思いもあって、ときには「えい!」とばかりにそちらのほうへ向かって行った。
   一度、ただ一度だけ、すれちがうときに彼女を見た。表情は変えないままで、勿論笑顔もなく、ただ彼女の顔を見た。あの顔立… それは見ていないとどうしても思い出せないが、見るとはっきりと心に蘇るのである。

 模様替えの作業は午前中で終わった。その日の午後、Z君は同じ係の先輩職員のニムラ氏といっしょに彼女のところへ行く用があった。到着していた書類を受け取る用で、ニムラ氏が先に彼女のところで書類の受領印を押している。すぐその横で待つあいだ、Z君は、場の状況から誰にも気づかれることがないと思ったので、あえてそっと彼女の横顔に無表情な視線を向けた。
 彼女の顔… それをこんなに近くから目にすることができるとは… 
 そのとき彼は、彼女の顔に遠くから想い描いていたのとはかなりちがったニュアンスがあるのを見出した。
 〈おや?〉と彼は意外の感に打たれた。彼女はこんな顔だったのか? 思っていたのとは違う。それほど美人でもないし、どちらかというと何となく、いや明らかに、興ざめな感じもある。… いったいこの人をそんなにまで思うのが適当なのだろうか。… 
 そういうことをどこかで認知しながら、同時に他方で、彼の別の心は不思議な喜びの音色にふるえた。すでに心が常ではない状態になっていたので、彼女を間近に見てまぎれもない興奮を感じた。そして気のせいかどうか(こうしたことはいつも気のせいであるのにちがいない!)、彼の色目には、彼女の様子にも何となく彼への意識があるような気がするのだった。通常彼女は人に対して自由で明るく朗らかな応対を見せる人だ。しかしこのときの彼女には、いつになく妙に固くきまじめなものがあった。もちろん、必ずしも彼を意識したものとはいえないだろう。彼がいつも固い、面白くもなさそうな顔をしているから、彼女も反射的にそうなったというだけのことなのだろう。何の関係もない事柄の中にも、人はしばしば自分の見たいと思っているものを見るものである。
 先にニムラ氏が受領印を押したあと、自分の番が回ってきたとき、Z君は完全に彼女の顔から視線をそらせて、無関心を装った。彼はほとんど一言も言わなかった。彼女もまったく同様だった。
 たしかに彼女を〈目にする〉ことには、大きな幸福、歓喜といってもいいような複雑で素晴らしい感じがある。それを彼は〈目で飲み込む〉のだ。飲み込むと全身が深い喜びで満たされる。それは独特のもので、見ること、感じることが、たちまちにして至上の喜びとなる。ただ、その喜びには悩みのニュアンス、独特の複雑な陰影が混じっている。そのニュアンス、陰影が調味料のように働いて、喜びに特別な色合いを付加しているようなのである。 (完)
 
 


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