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  • 2015.07.11 Saturday
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黒井千治著『日の砦』を読んでみたくなった

 朝、6時40分起床。
 目が覚めても起きないでいたが、ふと着想が浮かんで、ようやく起きた。
 さっそく手帳にメモする。

「われわれが何気なく営んでいる生活は不安定で危険な闇に包まれている。われわれは不確実な地盤の上に日々の暮らしを営なんでいる。事故や病気はいつでもそこにあって、われわれをおとしいれることができるのだ。そのような状況を見る目があれば、われわれは楽観的であることなどできないだろう。そんな状況なのにわれわれは不思議なほど楽天的である。そうあることができるのは、実は幸いなことであるだろう。
 必要以上に悲観的になることによって、ストレスが高じて、われわれの免疫機構は壊れてしまうだろう。事実をありのままに理解することは自分を滅ぼすことになる。」


 昨夜、黒井千次の『日の砦』についての、2004年の新聞記事の切り抜きをたまたま読んだ。
 また自作「日常生活の背景」を少し読み返した。そんな影響が残っていたのだろう。

 黒井千次『日の砦』(短編10作から成る)刊行についてのインタビュー記事から。(2004年9月14日、毎日新聞)

 主人公・群野高太郎の定年退職後の平穏な日常。

《「息子は結婚して家を離れ、長年生活を共にした妻と会社に勤めている娘との3人暮らし。高太郎を中心に、時に視点を家族に移しながら、一見穏やかな日々がつづられていく。
 ところが、各編とも、平穏な日常に深い裂け目がのぞくように、意外な起伏を見せる。たまたま乗ったタクシー運転手の鬱屈をかかえたようなしぐさ、ふと入った喫茶店で耳にした不幸、近所に住む老女のはっきりしない行動、正体の知れない老いたマッサージ師、小雨の降る中で出会った無気味な男……。何気ない出来事のようなのだが、よく見据えると怪しく、底知れない。そんな意味ありげな事件が高太郎たちを不安に陥れる。
「戦争とか、病気とか、特定の何かを恐れているわけではないんです。もしかしたら、何でもないこととして、見過ごしてしまうようなことかもしれません。でも、立ち止まって、おや?と考えると、、妙に暗い、よくわからないものが見えるような気がする。暮らし全体の底にうごめいている異物というか。それで、生きていること自体の危うさに気づく。『現代の怪談集』と感想を言ってくれた人もいました。」(笑い)
「結局、人間というのは、そういう上で生活していて、折り合いをつけたり、かかわりを持ったりしながら、せめぎ合いを続け、なんとか暮らしを守っているのだと思うのです。それを『砦』と呼びたかった」
 演劇にたとえると、家族が会話をしたり、生活をしたりしている手前は明るいライトで照らされている。ところが、その背後には闇が広がっていて、ふとした瞬間に、その底無しの暗さに気づくような感じといえるだろうか。
 (中略)
「主人公たちの不安の正体を考えると、他者との関係のあり方だったり、家族の結びつきの根拠だったり、人生というもののつかみにくさだったり、時の流れを前にした無力感だったり、いろいろだ。主人公たちは日常を揺さぶられ、非日常を体験し、また、日常に回帰してくる。
「出発点の日常と戻ってくる日常がちょっと違ってくるんですよね。それが毎日毎日続いている。低い目線で、何でもない毎日を見ると、どうなるか。この気味悪さは、生きていることの基調ではないかと思っています」》


 そういえば、上記の自作「日常生活の背景」(2年ほど前)でこんなことを書いた。

《何でもなく過ぎていく日常生活の周辺に、思わぬ深い闇が広がっていたことを、改めて知る思いだった。通常、人は日常性の中の決まった道を決まった仕方で歩いていて、何となく安心感を得ている。けれども、この世界は決まった道ばかりで成り立っているのではない。道の周辺には、知ることのできない深い闇の地帯が広がっていて、常に私たちの暮らしを取り巻いているのだ。》
《おそらく彼にとって家族は自明性の砦であったのだ。それは舟がつながれている堅固な岸壁のようなもので、それが取り除かれると、日常生活の自明性が消えてしまって、背景にあった闇が前面に出てくるのである。》

 これは明らかに黒井千次さんの『日の砦』(についての新聞記事)からきている、と今日気づいた。

《立ち止まって、おや?と考えると、、妙に暗い、よくわからないものが見えるような気がする。暮らし全体の底にうごめいている異物というか。》

 この言葉が僕の心の中に残って広がっていたのだろうか。

 実は黒井千次さんのこの本を僕はまだ読んでいない。
 インターネットデ調べると、文庫(講談社文庫)になっていた。

 読んでみたくなったので、注文した。
 このところちょっと本を買いすぎ、と思いながら。


ミセス・ガードナー  〜オースティンの書いた面白い人物〜

 ジェイン・オースティンの「高慢と偏見」(「自負と偏見」とか「傲慢と偏見」とか、いろんな訳がある)は私のもっとも愛好する文学作品の一つ。
 
 その中にいろんな魅力的な文章があるが、今日は、ミセス・ガーディナーのことをちょっと引用したい。

 主人公のエリザベスミスタ・ダーシーに心を引かれているが、微妙な事情があってそれを人に隠している。 ミセス・ガーディナーは、エリザベスミスタ・ダーシーの間には何かがあると疑っているが、いろいろ詮索してもはっきりした根拠は得られない。
 
 エリザベスはそれを人に悟られたくないと思っている。  ミセス・ガーディナーは、エリザベスのそんな心理を感じ取るのか、そのことについては、何も質問しない。けれども彼女は何よりもそのことを知りたくてならないのだ。  とても知りたいが、それについて尋ねることができない、という状態にある人の、好奇心。…  それがとても面白い形で示されている。
 
(ジェイン・オースティン「自負と偏見」新潮文庫、中野好夫訳から)
 
《帰る途々、ミセス・ガーディナーとエリザベスは、訪問中の出来事すべてについて、話し合ったが、どうしたわけか、とくに二人とも興味をもったあること(=ミスタ・ダーシーのこと)についてだけは、一言も話題にしなかった。会った人たちみんなの容貌、態度、もちろんそれは話に出たが、ただ一番観察したはずのある人(=ミスタ・ダーシー)についてだけは、ついにどちらも口にしなかった。その人の妹、その人の友人、そしてその人の家、果物等々、出ない話題はなかったが、ただ出ない唯一は、その当人の話だけ。そのくせ、事実エリザベスが、一番知りたがっていたのは、果たしてその人のことを、ミセス・ガーディナーはどう思ったかということであり、ミセス・ガーディナーもガーディナーで、これまた早くエリザベスが、その話に入ってくれればいいのにと、しきりに待っているのだった。》

《ところで、ミセス・ガーディナーは、あの例の場所から持ち越していた、エリザベスとあのダーシーに関する謎、それは結局、そのまま持って帰ることになった。みんなの前で、彼の名前が、自発的にエリザベスの口から洩れたことは、ついぞ一度としてなかった。》


  文章はある一定の事実をただ記すのではなく、作家の精神によって(形作られる)ものである。  例えばある心の動き、様子(事実)を書くとき、文章による一つの面白い形が形成される。  そういう(面白い形)は、作家の感性によって、自然と感知されて、紡ぎ出されるのである。

読み返し、勉強する 〜プルーストの『失われた時を求めて』〜 

 何を書くべきか、自分が書く文章の目標とすべきか。

 あてもなく探っていくなかで、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』を読み返してみる。
 いや、昨年、ようやく読み終えた後、もう一度始めから読み返そうと、はじめたが、すぐ中断していた。なにしろ、何度読み返したとしても、そんなに簡単にスラスラと読めるシロモノではない。

 今日、中断していた続きを読んでみて、たしかにここには自分にフィットするものがある。最近同じ目的から読み返していた(村上春樹などの)作品よりもずっとそういうものがある。そのことをあらためて感じた。

 この部分は、それほど決定的なものではないが、それにしても、自分の心に触れてくるものが多々ある。

《夕食後は、悲しいことに、まもなく私はママのそばを離れなくてはならなかった、そのママはあとに残ってほかの人たちと雑談をするのだった、天気がいいときは庭で、天気がわるいときはみんながひきさがる小さなサロンで。みんなといっても私の祖母はべつで、祖母の考は、「田舎にいて部屋にこもってじっとしているなんて、なさけないわね」であり、雨のひどい日には、私の父が私をそとに出さないで部屋へ読書にやるから、彼女はそんな父と果てしない議論をした。「それではいけないというのですよ、あなたがこの子を頑丈な強い子になさるには」と彼女は悲しそうにいうのであった、「とりわけこの坊やは体力と気力をつけることがたいせつな子なのに。」私の父は両肩をそびやかして、それから晴雨計をながめる。彼は気象学を好んでいるのだ。そのあいだ私の母は、そうした父の心を乱さないために、物音を立てることを避け、敬意をこめてうっとりと父をながめるが、しかしあまり強く見つめて父の優位の秘密を見通すことはさしひかえていた。しかし私の祖母はというと、どんな天候でも、たとえ雨がはげしくふってきて、フランソワーズがぬらしては一大事とたいせつな柳の肘掛椅子をあわててとりこんでしまったあとでも、※雨にたたかれている、誰も人のいない庭のなかで、灰色の乱れた髪をかきあげながら、健康のためになる風や雨をもっとよく額にしみこませようとしている姿が見られた。彼女はいうのであった、「やっと、これで息がつける!」そしてびしょぬれの庭の小道をあちこち歩きまわった。》

 この部分の内容そのものは、さておいて、上の文章には、「作品を構成する何人かの人物の描写がタイル状にちりばめられている」

 その点に興味を引かれたというわけ。

 この方式は、参考になる、使えるという感覚。




文章で書けること、書けないこと

 ずっと昔に読んで本棚に眠っていて、今日たまたま目に付いた本。

    『「私」のいる文章』(森本哲郎著、新潮文庫)

 そのなかに面白い文章があった。

 昔、著者は記事を書くために相撲とりにインタビューし、相手からひと言も得られずに、記事を書くのを断念したことがあった。
 そのことを思いだしながら、書いている。

《なにも会話だけに頼らずに、会ったときの印象をそのまま書けばいいではないか――というのは、たやすい。だが、それはまた至難のことなのである。うそだと思ったら、こころみに友人についての印象を文章にまとめてみたまえ。
 フランスの数学者アダマールは、こういっている。
「きみは友人を群衆のなかで見つけることがあるだろう。そのとき、きみはその友人の顔の何百という特徴を見分け、それによってその友人を他の人たちから区別しているわけである。ところが、さて、その特徴を文章に書いてみろといわれたら、おそらくきみは、そのうちのたったひとつの特徴でさえ、思うように書くことはできないだろう」》


 この部分のページは折りこんであった。最初に読んだときにも、強く思うことがあったのだ。若い頃は、修練をつめば文章でどんなことでも書けるはずと思った。
 しかし、文章では何も書けない、というのが本当のところだ、と思わざるをえない。

 人の顔の個々の特徴や、目の前の光景は、文章では表現できない。表現するとまったく別のものになってしまう。
 写真や映像にすると、かなりの特徴をあらわすことが出来る。
 しかし、文章によっては漠然としたものしか表せない。

 他方、映像を見ただけではわからないもの、文章でしか表せないものがある。

 文章は物や人が我々に与える諸々の印象のなかから、その特徴的なものを言葉で抽出して示す。
 それがわれわれにあたえる印象、意味、感情などを、選択的に表現する。

 対象から得られる我々の「認識」が文章の形で提示される。

 言葉でなければ表現できないものがそこにある、のは確かだ。

 たとえば、上に引いたフランスの数学者の言葉がそうである。これは映像では表現できない。

 言葉が表現するのは、対象そのままの固有の印象ではない。(顔の印象そのものは、いくら言葉をつくしても言葉では表現できない。)

 そこから抽出される一定の真実(普遍性)のようなもの……、なのだろうか?
 

大江健三郎『水死』―ー私小説を突き抜ける―ー

 大江健三郎が書きおろし新作『水死』を出したと毎日新聞の文芸時評欄。
 早大教授・ドイツ文学の松永美穂氏の推薦(私のおすすめの3冊のうち)。

《もう何年も前から「最後の作品」を意識しつつ創作をしている大江健三郎の、書き下ろしの新作が出た。四国の森を舞台に、作家自身を思わせる一人称の語り手を立て、自らの過去の作品をも引き合いに出しながら、敗戦の直前に起こった父の「水死」事件をめぐってストーリーが展開する。家族を出発点に、人生の分岐点となったできごとをあらためて語り直そうとする姿勢…(中略)… 作家の個人史が、森に伝わる一揆の伝説と結びつき、一方で父の死の原因となる「王殺し」の計画につながっていく点に自在さを感じる。時代精神と土地の精神がせめぎ合うなかでの個人の反骨が、屈折した形ではあれ鋭く示されている。》

 もう一人野崎歓氏(東大准教授・フランス文学)も、同じ作品をあげている。

《大江健三郎は近年、「私小説」的設定を繰り返しつつ、実はその枠を果敢に突き破る実験を重ねてきた。最新の驚くべき達成が『水死』である。かねて予告されていた、父の死をめぐる物語は一つの要素にすぎない。そう思えるほど多様な素材を含み、意外な展開を示す。実に破天荒な面白さだ。》

「水死」を読もうとはいまのところ思わないが、興味を感じた点がある。

「私小説」的設定を繰り返しつつ、実はその枠を果敢に突き破る実験を重ねてきた」

という点だ。

「私小説」的な出発点、そして「それを果敢に突き破る実験」
 そうだ。今自分がやるべきなのはこれではないか。


 もう一つ。先日買った『Aあたりまえのことを Bバカになって Cちゃんとやる』という本(小宮一慶著、サンマーク出版)のこと。

 これは経営コンサルタントの小宮一慶さんが出したものだが、なかなか示唆に富んだいい本だ。そのなかの文章で、

《手を動かさないかぎり、物事は何も動かないし、変わらない。》
《机の上をふくと、おもしろいことが分かります。半分きれいにすると、残り半分の汚れがものすごくよく分かるのです。そこを全部きれいにすると、今度は机の表面の汚れやべとつきに気づきます。》

 手を動かすといろいろ思ってもいなかったことに気づく。「気づきが深く」なる。
 頭であれこれ考えているうちは、なかなかはじめられない。しかし、思いきってやってみると、思わぬ展開がはじまる。

《そのとき感じたのは、実際に手を動かしてみれば、怖いものは何もないということです。頭であれこれ理屈を考えていただけでは、怖くて一歩が踏み出せません。でも、手を突っ込んでみれば、何も怖くない。手を動かすことで、目の前の課題はどんどん動いていくことが実感できたのです。》
《「やってどうなる?」と考えるのではなく、まず手を動かし、やってみる。バカになって、無心にやっているうちに、見えてくる世界があるのです。》

 要するに、あれこれと考えずに、まず「手を動かす」こと。
 果敢に思い切って「書くこと」の中に飛び込むこと。
 
 手を動かさずに、あれかこれかと考えるこの不毛性。思い切って、実際に、手を動かしてみることのもたらす効果の豊饒性。


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