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  • 2015.07.11 Saturday
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『プルースト/写真』から  (プラッサイ著、上田睦子訳、2001年)

  先日、市立図書館で、『プルースト/写真』という本を見かけました。
 プルーストに関係する写真を載せた本だろうかと軽く思いながら、ページをめくってみました。二、三興味深い言葉が目に入ってきました。文章もそう重くなく、軽く読めそうだと感じましたので、借りて帰りました。

 〈ブラッサイ著、上田睦子訳、二〇〇一年三月発行〉となっていますが、著者も訳者も私には未知。
(説明によるとブラッサイは写真家。ピカソ、ヘンリ・ミラーなどとも親交をもったらしい。)
 
 「心理的な小説」を書くことを目標と考えていて、もともとプルーストに少なからぬ興味を寄せている自分ですから、刺激になることが多々ありました。

 プルーストの文学作品が生まれてくるにあたって、〈写真〉がいかに重要な意味合いをもっていたか、といったことについて、認識を新たにするほどの新事実を目にした思いです。

 プルーストの時代には、写真は、写真屋へ行って、「普段着ないようなよそ行きの衣装をして撮影してもらう」ものでした。ポーズを取って画家に肖像画を描いてもらうのと同じような意味あいがあったのでしょう。

 内容や感想を書くのはやっかいで面倒な作業なので、主に本文からの引用によって、自分の感じたことを記したいと思います。
 
 まずは、プルーストという二〇世紀の世界文学に大きな影響を与えた作家が、子供じみているほど〈写真〉に目がなかったという事実から話ははじまります。

◆プルーストは友人・知人に自ら収集したアルバムを見せたがったといいます。

《友人たちはプルーストを訪問したが最後、際限もなく写真を見る羽目になった。》
 《プルーストは生涯を通じて、写真を所有することに異常な重要性を見出していた。部屋には膨大なコレクションがあって、友人が来るとそれを見せていた。》
(アンドレ・モーロワ)

◆プルーストは、いろんな知人からその人の写真を所望するという驚くべき習癖をもっていました。
《写真に対するプルーストの情熱は、ポートレートをなかなかくれようとしない人からなんとかそれを手に入れょうとする執念となる。貰えないとなると待ったなしで攻撃を繰り返す。アルマン・ド・ギシュ公爵への手紙で、「公爵様のお写真のことでございますが、お約束にもかかわらずまだいただけないとはいかがなことかと存じます」。写真を貰うと、公爵は世界中でいちばんいい人になる。「変わらぬご厚情、いつも感謝しております。もの覚えの悪い者の記憶をしっかりさせるための大変貴重な、またモデルである公爵様を彷彿させるすばらいい写真でございました。」》

《ある夜会でモンテスキユー伯爵に紹介されると、すぐいつものやりかたで、自分の写真をさしあげるから伯爵のをいただきたいと申し出た。慎重でなかなか人を信用しないモンテスキユーはこれをぶしつけに思い、断った。プルーストは「私は伯爵のお写真を一日千秋の思いで待っております」と手紙でねばる。伯爵がなおも言を左右にしているとプルーストは決断を迫って言ったものである。「伯爵のご友人のルメール夫人とワグラム王女のお二人が、今週、私をご招待くださいました。恐れいりますが木曜か土曜日、お約束にもかかわらずまだいただいていないお写真をモンソー通りかアルマ大通りまでお持ちくださいませんでしょうか。」》
 
◆写真が作家のインスピレーションを育てる(女性との写真交換熱)

《(プルーストは)出会いのたびに、思いを寄せるたびに(その相手と)写真交換をしようとする。一八八八年の夏、まだ一七歳のプルーストは若くて可愛いレオニ・クロメニルというウィーン生まれの女性が好きになった。ブーローニュの森のアカシアの道を馬車で通るところや散歩する姿を見ていたのだが、ついに思いを打ち明ける手紙を書く。返事をくれたので早速自分の写真を送りあなたの写真が欲しいと頼む。レオニから釆た写真数枚をプルーストは生涯大切にしていた。そしてここでも写真が作家のインスピレーションを育てている。》

《一八九三年、プルーストは、しばらくの間、同い年のジェルメーヌ・ジロドーに思いを寄せていた。何週間か口説きつづけ、無論のこと自分の写真を送ったがジェルメーヌからの写真は来なかった。さんざんねばって諦めかけていたときに写真が届いた。「ジェルメーヌ様、ご親切に、そしてそのご親切もとても魅力的で気がきいていらっしゃいますね。……」》

 等々……

《こうした写真交換を、そのときどきの恋の名残と考えてはならない。永い年月をかけてプルーストは写真のゆるぎない宝庫を作り上げた。これはまことに驚くべき宝庫であり、この貯蔵所から汲み上げたモデルを組み合わせて登場人物が生み出されていったのである。》

 プルーストといえば、詳細克明で長々しい文体、読むのがひどく困難な文章を書く作家で、大作『失われた時を求めて』の日本語訳は、古くから文庫本(新潮文庫)で出ていました。私は若い頃、この作品を読み始めて、二冊か三冊ほど読んで中断してしまいました。興味はあったのですが、文体が非常に込み入って複雑であるために、読み続ける根気を失ってしまったのでした。
 ただ、『スワンの恋』はわからないなりにとてもいいと感じた記憶があります。

 その後、十数年前に、〈ちくま文庫〉で同じ作品が井上究一郎個人全訳として出たとき、少しは読みやすくなっただろうかと思い、手に入れて読み始めました。
 何しろ大部の作品です。分厚い本で10冊もあります。読むのに根気と努力がいる文体は変わらりませんが、年を食ったせいもあるのか、それなりに読んでいける。読めばそのすばらしさがわかるのです。すべての部分がというわけではありませんが、自分にとってこれはいい、とても深くて素晴らしいと思われる部分が沢山あります。
 といいながら、途中何度も長期中断をしながら、目下、第七冊目までようやく読み、第八冊目の途中でまた中断したまま、もう半年以上になるでしょうか。そのうちまた読み続けるだろうことはたしかです。

 小説あるいは文学というジャンルの作品を書く上で、プルーストは一つの大きな可能性を示してくれている、書くに値する文章を書くことへの大きな希望を与えてくれるという気がするのです。

スローモーションでフィルムを回すように、言葉によって体験を定着させる

『書く力』(斎藤孝)に面白い言葉があった。

《「書く」ことの基本的な機能は、体験の意味、経験の意味をあきらかにすることである。体験の意味や経験の意味をあきらかにするために、スローモーションでフィルムを回すように、言葉によって体験を定着させるのである。》

書き言葉はその定着力に特徴がある。体験は、そのままにして放っておけば、流れ去ってしまう。それを言葉にすることによって、後で読み返せる形にして、そのときの心の状態をつかみとることができるようにするのだ。
 話された言葉がその瞬間に消えていくのに対して、書かれた言葉は定着し、時間を超えて残る。それが書き言葉の威力である。文字の永遠性を活用して、不安定なものをその都度確定していき、経験の意味を残すところに、書くことの基本的機能があるのだ。》

 《書く行為は、話す行為に比べて、自分がいまやっていることが何かを振り返り、確認しながら進められる。目に見える形でそこに文章が残っていく。それが音声言語にはない文章というもののよさでもある。》

 「スローモーションでフィルムを回すように書く」という考えは新鮮でズバリ自分のしようとしていることではないかと感じた。

 また「記さなければ流れ去ってしまうものを言葉にすることによって〈定着〉させる(後に残るものにする)ことができる、という考えも、当然ではあるが、とても新鮮である。

 時間を超えて後に残る、他の人たちにとって、ということもあろうが、それを読み返す自分にとって、という点でも、定着して残ることは意味深いことなのだ。

 


メモノートの使い方〜〜『「結果を出す人」はノートに何を書いているのか』(美崎栄一郎著)

 毎日(その日その日)、何を考えるのか、何について考えを深め、あるいはまとめるのか、「具体的な小さな課題」を明確にしておかなければならない。

「しなければならない」と思いながら、何一つ手につかない。というよりも、「何をしたらいいのか、何も頭に浮かばない」という状態で、来る日来る日が過ぎてしまうのだ。
 一月ほどまえに読んだ本から、いろいろ貴重なヒントを得た(刺激を受けてぜひこれは実践してみようと思った)はずだが、それをそのまま忘れて遠ざかっている。もういちどあれを呼び戻そう。
 『「結果を出す人」はノートに何を書いているのか』(美崎栄一郎著)
  
 問題はただ1つ。
 当面考えるべき(取り組むべき、或いは発酵さすべき「具体的なテーマ、項目、課題」を書き出すこと、それをメモにして持ち歩き、それについて考える時間をもつこと。

 いってみるなら、自分自身の内部を見ること、内部の方へ目を向けて、そこにあるものを、そこで泳ぎまわっている不思議な魚たちを見極めること。

 いや、むずかしいことはいらない。要するにいくつかの「具体的な項目を拾い出して、それについて考えること、考えることによって深めること。
 深めるというのがむずかしいなら、そこにあらわれてくるものを「見る」こと。
 
 日記を繰ってみると、これを読んだのは11月のこと。遠い昔のことではない。
 
《私はメモノートを、主に「タスク管理」と「アイデア出し」に用いています。
 漠然とした記述では結局何をやるべきかわからなくなってしまうので、「A社の見積金額の件、田島課長に要確認」などと最小単位のタスクとして書くようにしています。
 メモノートは切り離せるのがミソですから、一枚に一行キーワードだけ書くなど、区切りのいい項目だけを入れて大胆に使います。
 アイデア出しは、アイデアを出さなければならない項目やテーマだけのキーワードを書いて、それを通勤途中の電車や路上で時々見直します。
 そうするとアイデアが意外と簡単に生まれます。ポイントは簡単なキーワードに落としてメモすることです。こまごまと説明を書くのではなく、ひらめいたキーワードだけを大きく書き、メモノートに冷凍保存しておくのです。
 大切なことは、メモノートは断片メモやまだ考えが整理されていない思いつきでいいと割り切ることです。これはあくまでもメモの第一段階なので、考えがまとまらないから書くのをやめておこうと思わないことです。とにかく書く。あとで使えると考えて、迷わず記録しておきましょう。……》    

真にひとりでいるとき黙々として追求する美  ――プルースト――

 本などを読んで、「これはいい」「喜びを感じる」「素晴らしい」と思われる部分をこのブログに集積しよう。
 そうすれば、文章についての自分好みのあれこれがわかってくるだろうから。

 マルセル・プルースト『失われた時を求めて』(ちくま文庫、井上究一郎訳)より。

《それでも、私が社交的な快楽ばかりでなく、友情のそれまで、あの花園にひねもすを過ごす快楽のために犠牲にするのは、多分まちがってはいないだろうという気がした。》

《(芸術家は)自分自身のために生きる義務をもっているのだ、ところが友情は、そうした人間にとっては、この義務を逃れることであり、自己を放棄することである。われわれは一生のあいだ人と話しても、一瞬間の空虚を無限に繰り返すより以上のことは何もできない、それにひきかえ、芸術的創造の孤独ないとなみにあっては、思考のあゆみは深さの方向にのびるのであって、それこそなるほどそのほうが苦痛は大きいが真実を得るための結果に向かってあゆみを進めることのできる、われわれにとざされていない、唯一の方向なのである。》

《純粋に内的な方向に自己発展の道を見出すような掟に生きるわれわれのなかのある種の人間にとっては、その友人のお相手をしているときに、退屈の印象を感じないではいられない、つまり、内的な深さの方向にその発見の旅路をたどるのではなく、自己の表面だけにとどまっているときには、退屈の印象をまぬがれることができない。》

《そういうわれわれというものは、外から石を積み重ねてできる建物のようなものではなく、自己の養分から、幹をつくり、幹の上に節を生じ、次第に上層の枝葉をふやしていく樹木のようなものである。サン・ルーのような、親切で、聡明で、ひっぱりだこの友人に、愛され、ほめられるのを、私がよろこんでいたとき、そして私自身の内奥にある深くてわからない印象をときあかすという義務に私の理知を適用しないで、ただ友人の言葉にだけ、私の理知を適用していたとき、私は自分の過ちを犯していたのだし、ほんとうに成長し、ほんとうに幸福になれる方向への発展を、自分に阻んでいたのであった。私は友の言葉を自分に繰り返しながらというよりも、われわれの内部に住んでいる自我とはべつの人間、それの肩の上にいつもわれわれが自分にささえきれない思考の重荷を移してほっと安心する、あの自我とはべつの人間に、私は友の言葉をくりかえさせながら真にひとりでいるとき黙々として追求する美とは異なる美、もっぱらロベール(=サン・ルー)に、私自身に、私の生活に、いっそう多くの価値をもたせるそんな美を私の友に見出そうとつとめていたのだ。そのような友人が私に感じさせる美の中にあっては、私はまるで温かいおくるみにつつまれたように、荒々しい孤独から保護され、友人のために私を犠牲にしようという高貴な欲望を抱いているように見えるのだが、要するに、私は自己を現実化できないのであった。》

《ところが、あの少女たちのそばにいるときには、たとえ私の味わう快感が利己的なものであっても、少なくともその快感は、われわれの孤独が友情によって救われると信じさせるような、いつわりに基づくものではなかったし、またその快感は、われわれが誰か他の人と語り合うとき、しゃべっているのはもはやわれわれ自身、すなわち他人と判然区別されるこのわれわれ自身ではなく、他人の型にはまったわれわれである、ということを率直に私に認めさせないような、そんないつわりに基づくのでもなかった。》

 やはりプルーストはいい。すべての部分がというのではないが、こういう文章のもたらす喜びこそ、深いものがある、と感じる。とても真似などできないのであるが。

 これプルーストの基本的な考えを述べたもの。

 「自分自身の内奥にある深くてわからない印象をときあかす」ことを妨げる社交やつきあいから離れることの重要さをいっている。
 作家にとって(或いは芸術家にとって)何よりも大切なのは、「真にひとりでいるとき黙々として追求する美」であるということ。

 そういうことであるが、ここでの問題は、それを表現するこの文章に「魅力」の結実がある、ということ。表現している内容はもちろんすばらしい。表現している文章も素晴らしい。

 自分の場所を掘り下げて、〈空虚で面白みもない自分〉に向き合って、自分が立っている土地から何か思いがけないものがわき出してくるものを待つしかない。わき出してきたら、それを汲み取って、文章で表現する。

 そこから逃げていても、何の進展もない。要は自分と向き合うこと。そういう時間をもつこと。





青いティッシュペーパーと、花柄のついたトイレットペーパー

ちょっと考察  (村上春樹『ねじ巻き鳥クロニクル』より)

 もちろん、それぞれの部分部分、随所に面白いもの(魅力)がある。けれどもその部分部分の文章の面白さ(魅力)は必ずしもそれほどのものでもないところもある、という気もする。それは読者の好みの問題であるが。
 
 部分部分の面白さを取り上げてみよう。

 冒頭部分。いきなり「知らない女」から謎の電話がかかってくる。

《「あなたにかけているのよ。十分だけでいいから時間を欲しいの。そうすればお互いよくわかりあうことができるわ」と女はいった。低くやわらかく、とらえどころのない声だ。
「わかりあえる?」
「気持ちがよ」
 僕は戸口から台所をのぞいた。スパゲッティの鍋からは白い湯気が立ちのぼり、アバドは『泥棒かささぎ』の指揮を続けていた。》

 このトーン(文章上の「装い」といってもいいだろうか)は作品のはじめから終わりまで貫かれている。というよりも、この作者は何かを書けば、自然にこういうトーンになってしまうのだ。
 ここには非日常的で意外な出来事があり、それだけで読者を引き込む。
 それに対して、スパゲッティを作っている「僕」の有様、白い湯気、クラウディオ・アバドなどがユーモラスに配置されている。

 次に仕事先の妻から電話がかかってくる。「僕」は失業中で家事をしている。

《「ところで今日は何曜日だっけ?」
「火曜日」少し考えてから僕は言った。
「じゃあ銀行に行ってガス料金と電話料金を振りこんでおいてくれる?」
「そろそろ夕飯の買い物に出るし、そのついでに銀行に寄るよ」
「夕飯は何にするの?」
「まだ決めてない。買い物に行ってから考える」
「あのね」あらたまった口調で妻は言った。「ちょっと思ったんだけれど、あなたべつに急いで仕事を探すこともないいんじゃないかしら」 
「どうして?」と僕はまたびっくりして言った。世界中の女が僕をびっくりさせるために電話をかけてきているみたいだ。「失業保険だってそのうち切れるんだよ。いつまでもぶらぶらしているわけにもいかないだろう」
「でも私のお給料があがったし、副業の方も順調だし、貯金だってあるし、贅沢さえしなきゃ十分食べていけるでしょう。今みたいにあなたが家にいて家事をやるっていうのは嫌? そういう生活はあなたとしては面白くない?」》

 これもごく何でもない文章であるが、ここにも面白さがある。妻が働き、夫が家事をするという形、これは普通世間の考えと逆転した発想なので、面白味がある。また「僕」という人間の特徴を映し出しているのだ。
 平明な「会話」の形で、言うべきことを説明している。

 こうした何でもない平明な文章の中にときどき線を引きたくなるような文章が入り込んでくる。

《ひとりの人間が、他のひとりの人間について十全に理解するというのは果して可能なことなのだろうか。つまり、誰かのことを知ろうと長い時間をかけて、真剣に努力をかさねて、その結果我々はその相手の本質にどの程度まで近づくことができるのだろうか。我々は我々がよく知っていると思い込んでいる相手について、本当に何か大事なことを知っているのだろうか。 ( ……… )
 僕がそのような疑問を抱くようになったきっかけは、非常に些細なことだった。》

 ずっといっしょに暮らしてよく知っているはずの家族について、われわれは何を知っているのだろうか、ほとんど何も知っていないのではないか、という認識、発見がある。
 これは、妻クミコとの間に心の行き違いがあったときに、「僕」が抱いた感慨である。 ある夜、妻の帰りが遅くなった。「僕」はきちんと夕食の準備をして待っていたが、落ち着かない。一人で先に食べる気にもなれない。ようやく九時に帰ってきた妻は、ぐったり疲れていて、目が赤い。これは悪い兆候だ、と「僕」は思う。

《彼女の目が赤くなるときには、必ず何か良くないことが起こる。僕は自分に言い聞かせた。〈クールにやろう。余計なことは何も言わないように。静かに、自然に、刺激しないように〉
「ごめんなさい。どうしても仕事が片づかなかったのよ。なんとか電話を入れようと思ってたんだけれど、いろいろわけがあって連絡もできなくて」
「いいよ。大丈夫、気にしないでいい」と僕は何でもなさそうに言った。そして実際の話、僕はべつに気分を悪くしていたわけではなかった。僕にだってそういう経験は何度かあった。》

 恐ろしく奇怪なことを語るこの作品がこのような細部をもっていることはおもしろいことだ。
 「僕」はガスに火をつけ、鍋に油を引く。妻は「先に食べればよかったのに」という。そこまではよかった。
 彼女は洗面所に行き、顔を洗ったりしているようだったが、やがてティッシュペーパーとトイレットペーパーをもってもどってきて、「どうしてこんなものを買ってきたのよ」という。「僕」には何を言おうとしているのかわからない。
 そこの部分の書き方が、「誇張法」というのか、特有の〈シャレたユーモア〉があって面白い。(これはリアリズムではないが、リアリティがある。ものごとの本質をついている。また、文章を面白くする一つの技法でもある。)

《「ティッシュペーパーとトイレットペーパーを買うのはちっともかまわないわよ。当たり前でしょう。私が訊いているのは、どうして青いティッシュペーパーと、花柄のついたトイレットペーパーを買ってきたりしたのよ」》

《「私は青いティッシュペーパーと、柄のついたティッシュペーパーが嫌いなの。知らなかった?」
「知らなかった」と僕は言った。「でもそれを嫌う理由は何かあるのかな?」
「どうして嫌いかなんて、私も説明できないわよ。おなただって(…中略…)でしょう。それはただの好き嫌いよ」 
「結婚してからこの六年間に青いティッシュペーパーと、柄のついたトイレットペーパーをただの一度も買わなかったのか?」
「買わなかった」とクミコはきっぱりと言った。
「本当に?」
「本当によ」
 僕にとってもそれは驚きだった。》

 こういう細部を豊富にもっている村上作品は、単なるエンターテインメントではない。人間やこの世界の問題について考えるために読む〈文学作品〉なのだ。


 

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