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『ねじ巻き鳥クロニクル』をはじめて読んだときの感想

 まず、手はじめに、何でもいいや。『ねじ巻き鳥クロニクル』をはじめて読んだときの感想はこんなふうだった。(2006年9月22日付ブログ、このブログはいまは廃止になった。) 

◇『ねじまき鳥クロニクル』を読み終える 2006/09/22
 ようやく全3冊を読み終えた。間に何冊か他の本を挟んだりしながら読み進み、3か月くらいかかったか。
 村上作品に通じているわけではなく、一度通読しただけだから、作品評などできない。ただ、非常に面白く読めたので、思いつく限りの感じたことや思ったことを書いてみたい。
『海辺のカフカ』もそうだったが、この作者の作品は、謎に満ちていて、奇怪でわけのわからない、読んで何を意味しているのか、何を書こうとしているのか、理解が難しく、想像をふくらませるものがある。というのもいろいろな出来事が深いところで繋がりあっていて、何やら意味ありそうな構造になっているようだけれども、作者はそれを直接には説明しないままで終わる。
 言ってみるならシュールレアリズム的(超現実主義的)な内容の話であるが、文章上は非常にわかりやすく読みやすい。
 いろんなものが絡み合って謎に満ちた話であるにもかかわらず、わかったような思いで面白く読み進めていける。不可解に思いながら、謎を解こうという好奇心によって、読んでしまえるのだ。

◇まず何よりも文章が平易でわかりやすいという点
 個々の部分の文章は具体的でわかりやすく秩序だっている。きわめて日常的な細々したことを日常的な言葉で書いているといったタッチ。
 独特のリズムがあるのだろうか。快く楽しいと感じながら、エンターテインメント的に快適に読むことができる。
 しかも日常の平易な描術が流れていくあいまに、ユニークな人間観察や深刻な問題や恐ろしい謎が入り込んでくる。

《台所でスパゲッティをゆでているときに、電話がかかってきた。僕はFM放送にあわせてロッシーニの『泥棒かさささぎ』の序曲を口笛で吹いていた。スパゲティーをゆでるにはまずうってつけの音楽だった。
 電話のベルが聞こえたとき、無視しようかとも思った。スパゲティーはゆであがる寸前だったし、クラウデイオ・アバドは今まさにロンドン交響楽団をその音楽的ピークに持ちあげようとしていたのだ。しかしやはり僕はガスの火を弱め、居間に行って受話器をとった。新しい仕事の口のことで知人から電話がかかってきたのかもしれないと思ったからだ。》

《結局猫を探しに行くことにした。(……)僕は薄手のレインコートを着た。傘は持たないことにした。テニスシューズを履き、レインコートのポケットに家の鍵とドロップを幾つか入れて家を出た。》

といった具合。
 進行する話と直接関係がないと思われるような具体的詳細(日常的な行為)が、几帳面に書き込まれている。これも村上作品の特徴で、一つの魅力を作りだしているようだ。それが主人公への親しみをわかせ、作品世界に実在感を与える効果をもつのだろう。


◇ねじ巻き鳥とは何か?  現実世界に滲出する奇怪な世界
 けれどもそんな日常的な文章の中へ、少しずつ奇怪な幻想の世界が滲出してきて、読みすすむうちに物語はしだいに佳境に入っていく。本当はとんでもない恐ろしい世界がそこで展開されているのだ。

 ねじまき鳥とは何か。それは文章のあちらこちらで短く顔を出す。
 最初の記述はこんなふうだ。

《近所の木立からまるでねじでも巻くようなギイイイッという規則的な鳥の声が聞こえた。我々はその鳥を「ねじまき鳥」と呼んでいた。クミコ(妻)がそう名づけたのだ。本当の名前は知らない。どんな姿をしているのかも知らない。でもいずれにせよねじまき鳥は毎日その近所の木立にやってきて、我々の属する静かな世界のねじを巻いた。》

 この鳥はねじを巻いて世の中の動きを推し進めている、人々はねじの推進力で日々の営みを営んでいる。生きることへの推進力が自分の中に欠乏している悲しさ、物憂さの中で、ただねじを巻かれたように淡々と日々の営みを営んでいく、そんなイメージだろうか。最初に思ったのはそんなこと。

 読みすすめるうち、どうやらそれは違うようだ、と気づく。
 人間が生きているこの世界の背後には、何かしら理不尽で恐ろしい世界があって、ねじ巻き鳥はその世界に由来する破壊的で暴力的な力のようなものをあらわしているようだ、と。
『海辺のカフカ』も、今にして思うと、まさにそういう恐ろしい人間の暴力性を主題とする作品だったのだとうなずかれる。
 知る前には、村上春樹というと、都会の孤独と悲しみを書き、何となく甘く優しい印象がある作家だろうかと思っていたが、どうやら彼の中にはとてつもない怪物が住んでいたのだな、彼はいよいよそれと本格的に取り組み始めたのだな、と知らされる。
 
 『ねじまき鳥』について作者の頭にあった核心は、中国大陸(ノモンハン)での戦争や数々の恐ろしい事件についての衝撃だったのだろう。人間(日本人)がなしうる残虐行為といったものへの衝撃。それを平和で安穏とした現在の世界とどう係わらせるか。その一つの装置として、彼は古びて涸れた「井戸」を登場させる。中国大陸で兵士や動物園の園長などが体験した恐ろしい残虐な行為。(それを描く作者の文章の力は見事で凄いというほかない。とても読み続けられないと思われるほど。)それが大陸の古井戸と主人公の家のすぐ近くにあった古井戸を通して繋がるという設定。戦争時代にあった世界が現在の世界に滲出してきて、強い影響を与えるという超現実的な話だ。その結果、飼い猫がいなくなり、妻が失踪をし、主人公が理不尽でわけのわからない暴力をふるったりする。

◇自分がしたくない恐ろしい行為をする状況
 作者が特に書こうとしたのは、自分が望まないのに(非常に嫌だと思うのに)暴力をふるわなければならない(人や動物を撲殺しなければならない)、上からの命令や義務感などからそうせざるをえない、そういう立場に追い込まれた人間の行動、という問題だったのではないかと思う。『海辺のカフカ』でも、主人公のカフカ少年がアイヒマンについての本を読む場面があった。アイヒマンは強制収容所でユダヤ人の大量虐殺を遂行した担当者だ。ある意味では非常に忠実で優秀な職務遂行者だった。これは作者にとって基本的な問いの一つだったのだろう。
 こういうことは、日常のわれわれの地域社会、職場社会のなかでも、起こりうることではないだろうか。
(残虐な行為という形ではなくても、職務上、あるいは役割上、自分が望まないことを人に対してするようなことがあるのではないか。)
 
 ねじまき鳥が登場するのは他でもないそういうときだ。ねじまき鳥がギイイイッとねじを巻くと、人は自分がしたくない恐ろしい行為をしなければならなくなる。みずからまったく望まないのに自動的にねじを巻かれた人形みたいに残虐な行為を行う。その息苦しいさまがあのように真に迫って詳細に書ける、あれは真似ることのできない凄い腕前だ、と思う。……


いったいこれは何? 村上春樹の作品について考えてみたい

 このところ毎日、村上春樹『ねじ巻き鳥クロニクル』を読み返しながら、あれこれ考えている。「書く」ためのヒントを盗もうというところ。
 そのことで思いついたことを、片言でもいい、ブログに書こうと考えて、PCに向かうが、結局書けないで終わっている。

 問題は、「読者を意識して構えてしまう」ことにあるようだ。

 「読者などいないのだから、自分向けに気軽に書けばいい」と前回書いたばかりなのに。

 村上春樹の作品世界は何なのか?

 しばらくは、そのことについて「自分専用のメモ」として、記していきたい。

 村上春樹はずっと長い間読まなかった。

 4年ほど前に、世界のいろんな国で人気を得ている、というのをテレビで見て、一度確かめてやろう、と文庫本で買って読みはじめた。

 『カンガルー日和』『螢・納屋を焼く』などの短編集。悪くはないが、どこがそんなにいいのだろうか、と思いながら、次に 『国境の南・太陽の西』『ノルウェイの森』……と移っていった。
 村上春樹の文章世界にはまってしまったわけだ。
 作品評なども読んだ。「村上春樹はくせになる」((朝日新書、:清水 良典著)というのを読んだときは、まさにそのとおり「くせになる」という気がした。
 読むのが面白いというか、楽しいというか、どんどん読んでしまう。次を読みたくなる。
 ある種、快感があるのだろうと思う。

 いったいこれは何なんだろう? 単なるエンターテインメント作品なのか、それとも……

という思いがずっとあった。

『となりのカフカ』『ねじ巻き鳥クロニクル』『羊をめぐる冒険』『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』『ダンス・ダンス・ダンス』等々……
 たしかにユニークでおもしろい作品世界が展開していく。

 いったいこれは何なのだろうか? どこが面白く、どこがすばらしく、どこが評価されるべきなのだろうか。

 そういう疑問、そういう思いがずっとあって、それを自分のために、確かめてみたいと思っていた。

 あくまでも自分専用のページなのだから、中途半端でも、説明不足の切れ端でも何でもいい、気軽になんでもメモしてみよう。
 それが当たっているかどうか、見当外れであるかどうか、人が読んだ場合通じるかどうか、ということにこだわりなしに。

 要するに、ブログが置かれているこの場所は自分にとって「隠れ里」なのだから。


 

 

読者がいないから何でも気楽に書ける  【利点】 


  思うに、このブログにもっと積極的に書き込み(投稿)することだ。

 ブログそのものが、自分のための情報庫として直接役に立つことがなくても、掲上するという行為が精神を活性化するだろうから

 もとより読者を想定しないで、自分だけが知っている「メモ庫」として、使えばよい。

 読者がいないからこそ、何でも気楽に書けるのだ。

 自分の情報庫として、どう利用しようかということも考えなくていい。

 ただ、読んだ本からのコピーや自分の感想や日々の思い、創作のために思いついたことなどが、そこに溜まっていくだけでいい。

 後でそれが利用できるかどうかは、考えないで、ただひたすら溜め込むのである。

 創作上での活用については、このブログではなく、たとえばノートなどで、行えばいいのだ。

 必要に応じて、ブログ記事を印刷して、ノートに貼り付けるなど、実際の活用はあくまでもノートで行うのである。


自分の中に降りていって、そこからくみ取ってくる

このところずっと試行錯誤を続けていて、自分のささやかな創作活動が完全に行きづまっている。

今夜、一つのヒントが浮かんだ。

自分の中に降りていって、そこからくみ取ってくるしかない。
それがやはり避けられないのではないかと。

実のところ、自分の中にあるものは、あまりにも物足りないもの、つまらないもののような気がしていて、そこから何か「価値あるもの」をくみ取ってくることなどありえないのではないかと感じる日々が続いている。

しかし、やはりそこからくみ取るしかないのだし、その気になって、自分の底に降りていけば、案外、思いがけない「宝もの」を発見できるのではないか、というようなことを考え始めたのだ。

それで思いだしたのは、この6月だったか、毎日新聞紙上で読んだ村上春樹の言葉。

話題の『1Q84』について、何度か毎日新聞紙上で、インタヴュー記事が出た。それを切り取っておいた。
参照したいと思った部分はこれ。

「僕にとって書くことは、自分の魂と向き合うことです。ずうっと心の底まで下りていって、自分の魂の中にあるものと直面し、また帰ってきて、それを文章に書き換えていく。これは広い意味においては宗教的行為に似ているかもしれない。小説家は、自分の小説の世界にあるいろんな物事を一つ一つ決定しなくてはいけない。それは自分自身を検証していくことでもあります。」

自分の中から汲み取られたものが、はたして、現在の複雑な社会と通じているといえるのかどうか。

そこの点を彼は、世間から離れている自分の中で発見されるものにも、現在社会の人々(若者たち)に通じる普遍的なものがあるはずで、「自分の周りの10メートル、20メートル以内のことを一生懸命考えれば、世界のことに通じていけるのでは」といっているわけ。

「今、社会がどういう問題を抱えているか、リアルには分からない。
僕はもう60歳だし、机に向かってただ文章を書いているだけです。 若い人と話す機会もないし、社会との接触はだんだん希薄になっています。だから、僕としては自分自身を、あるいは自分の周りのことを深く考えていくしかありません。自分の周りの10メートル、20メートル以内のことを一生懸命考えれば、世界のことに通じていけるのではないかと思っています。
 なぜかと言えば、今の若い人が直面している問題は、もちろん表層的、現象的には以前とは違うかもしれないけれども、本質はそんなには変わらないからです。青豆と天吾は一種の『孤児』ですが、その孤児性は僕の時代でも今の時代でも変わりない。 もっと言えば、19世紀のディケンズの時代だって変わりありません。
今、『派遣切り』について社会的に疎外された孤独感が問題になりますが、それは産業革命の時にもあったことです。逆に言えば、今僕らは新しい産業革命の中にいて、僕ら自身のディケンズを求めているとも言えます」

もしそういうことがいえるとしたら、僕が自分の底の方まで下りていって言葉を見つけようとするから、現象的にではなくて、深いところで通じ合うんじゃないでしょうか。」

「たとえば僕らの世代は、いいか悪いかは別として、理想主義というものを強い、鮮やかな形で持つことができた世代だし、その記憶、感覚を伝えることには意味があると思う。ただ、それは、物語という形に置き換えて伝えなくてはならない。それをただ現象的にやっちゃうと、『全共闘のころはみんな燃えていた』みたいなうわべのお話になってしまう。物語に置き換えて、底の部分から立ち上げていくからこそ力を持ち、メッセージとしても伝わるのではないかと思っているんです」


  







 


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