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  • 2015.07.11 Saturday
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詩人・田村隆一――小さいものに宿っている光をとらえる――

 古い新聞の切り抜きを整理していると、城戸朱理という詩人が書いたコラムが目に入った。(2005年11月15日付毎日新聞)
 内容はブログのことであるが、その終わりに詩人・田村隆一のことがでてくる。

 田村隆一。詩人。名前は聞いたが、ぼくはまだ読んだことがない。どういう作品を書く人か知らない。最後のところを引用すると、

《……しかし、年を重ねるにつれ、私たちの日常とは、誰と会ったかとか、何を食べたかといった小さな出来事の積み重ねで出来ていることに気づくことになる。わが国の戦後詩を代表する詩人、田村隆一は、『鳥と人間と植物たち――詩人の日記――』のプロローグで自分の日記が「小さいこと」と「小さいもの」だけで成り立っていることを指摘し、小さいものに宿っている光をとらえようとしたことを語っている。》

 小さいものだけで成り立っている世界。その小さいものに光が宿っている。その光をとらえようとしている詩人。なぜか興味を感じた。最近ぼくが思うことに触れるところがあったからだろう。

 田村隆一について調べてみようと、インターネット検索。

言葉のない世界というサイトがあった。
このページは,詩人・田村隆一氏の業績を研究・紹介するため,個人的に作成したものです。」とある。
(http://gifu.cool.ne.jp/web223/tamura.html#autograph
 ページの最後の部分に「このページの作者(山田)の感想」というのがある。
 それによると、田村隆一は「路上の鳩」という文章のなかで、「立棺」という自分の詩の生い立ちを語っている、という。つまり、この詩は、C・D・ルイースの『詩をよむ若き人々のために』という作品に触発されて(それを「導きの糸として」)、生まれてきた、というのだ。

 さらにサイトの主(山田さん)の文章を引用させていただくと、

《そのなかで詩人は,鮎川信夫氏や中桐雅夫氏の詩編から「詩の種子」をもらったこと,またそれがみずからの心で知らず知らずのうちに大きく成長していたことの驚きについて触れつつ,こうした作詩過程が説明不可能なものであることを率直に述べています。短いながらすぐれた詩論であると思います。
(「路上の鳩」は現代詩文庫『田村隆一詩集』,思潮社,1968所収)》

 この部分は興味深いというか、刺激的。

 というのは、「発想や詩想はこんなふうに生まれて形になっていく」という意味において。
たとえば、人の作品に触れたときなどに自分の中にふと生まれる何かのイメージ、ひらひらと漂う小さな想念、すぐに消えてしまうかすかなアイデア――それをピンで留めて、育てていく、それが創造ということなのだ。そんなことを思わせる。

 さらに吉田さんは、田村隆一の文章「詩人が自己の感情の歴史のなかに生きているかぎり、思ってもみないことや感じてもみないことをいかにも意味ありげに、そしていかにも直実そうに書いたり歌ったりすることはありえない」という言葉を引用し、次のように書いている。

《(詩は)単に個人のでたらめな空想から出発するものでも,ある特定の集団のために書かれるものでもなく,すべての人の「ただひとつの心」に宿るものであって,そこから成長してひとりの詩人の手(=技術)によって確かなものへ鍛え上げられていくものだと言っているのです。》

 あたりまえのことかもしれない。しかし、問題はそれではない。ここに原点がある、ここに帰らなくては(あるいはここに帰れば)、という思いを、ぼくが感じたこと。

 思うに、なぜこの記事に興味を引かれたかというと、ここに、自分にとって書くことへと向かうためのヒント(あるいは刺激)があると感じたからだろう。基本的な姿勢とでもいうか。

個人のでたらめな空想から出発するものでも,ある特定の集団のために書かれるものでもなく


すべての人の「ただひとつの心」〉に宿るもの

それが原点。

「小さいこと」と「小さいもの」に光が宿っている。その光をとらえるのである。

 


メモの取り方一例 〜〜ツリーブランチ〜〜

相変わらずの不毛の日々…
ときとして「手がかりが見つかった」という気がすることもある。けれどもみな実ることなく消えてしまう。

アイデア スポッティング ――ひらめきを現実化する128の方法―― 』
   (サム・ハリソン著、中村美千恵訳、株式会社二見書房、2008.1.10初版)

昨年か一昨年だったか、本屋で見かけて、つい買った。相変わらずのHow-Toものの本。
かなり変わった本だけれども、何か刺激が得られそうな気がした。

そう、ぼくはこの種の本に目がない。その理由は、怠惰のせいで常に行き詰まりを感じていて、そこから脱出するための方法(魔法のひと突きとなる方法的刺激)を求めているからにほかならない。
たしかにこの種の本を読むことは快楽といっていい。うん、なるほど、これだ。これでいけばいいのだ。そんなふうな手がかりが見えてくるから。

驚くべきことに、これまで読んだこの種の本はぼくの書棚に100冊以上も積まれている。
ただ、その種の本を読んで、効果があったかどうかとなると、まったく疑わしい。
たしかに刺激は得られる、続けることができたら、たしかに効果も得られただろう。
問題はすぐに忘れ去ること。二度と読み返さないこと。
これでは読んでも意味がない。… 時間の無駄というものだ。…

いや、最近はこう思うようになった。刺激が得られるのならそれだけのためにでも、読む価値がある。その都度その都度読み捨てになるが、一定の方法を手に入れるというより、「飛躍への刺激」を得る、そういう意味があるのだ、と。

変わった本である。ことさらに小さな文字が使われている。ページの余白が大きく、余白部分は壁紙のようである。その壁紙の幾つかの部分を方形にくりぬいて、そこに小さな文字を連ねている。

「ひらめきを現実化する128の方法」  〜〜魅惑的な言葉……〜〜

買って1年になるが、まだ通読していない。気が向いたときに取りだしてページをめくるだけ。

その本から何かヒントを得たいと思って、開いたところに、こんなことばがあった。

《メモを取ることでひと息つける、とリアル・シンプルのアート・ディレクター、エリン・ウィーランは言う。「それこそ突拍子もないアイデアを書き留めるんです。とんでもない場所からスタートして、これだという答えに行き着く、もう最高ですよ」》

 《スターバックスのシニア・デザイナー、タグ・キーツも同意見。「アイデアの粒が何倍も大きなアイデアを孕む」》

《言葉をつかむ。イメージを描く。長文や凝った絵は避ける。》

《ヘンリー・ジェイムズ言うところの“ひらひらと漂うアイデア”を追い求める。

ツリー・ブランチというメモの取り方がある。ブレインストーミングに用いるマインド・マップと似た方法だ。キーワードを書き、丸で囲む。そして他の言葉やシンボル、アイデアを枝(ブランチ)のようにつないでいく。》

《もう少し分析的に書きたいならば、コーネル大学式ノート作成法に頼るのもいい。1ページの左側4分の1を縦線で仕切る。右側に考えを書き込む。左側にはこれを凝縮したキーワードを書き込み、記憶の助けとする。

《メモのコツ
 メモした各ページの上の右側にキーワードを書く。あとで情報を探すのが楽になる。》

いまここで興味を感じたのは、ツリー・ブランチ。もう一つはコーネル大学式ノート

ツリーブランチの例が挙げられている。

《男/電車の座席――古い手紙/本――サーカス芸――
    ――水曜日のクライアント向けのプレゼンテーション… 》




こんなふうに、例えば小説の一つの場面について、考えを膨らませることができそうだ。


不都合で困ったことをやることになるのではという不安

 彼女を思う気持をもっと感じたいという心の状態を感じていた。彼女を見ればそれを感じることができる。彼女を見に行きたい…

 

  これは純情な恋心というのではなく、享楽主義者の思いである。思われていなくても思いたい、というのは、純情な気持ではなく、思うことに深い何ともいいがたい味わいをもった喜びがあるからである。

 

何らかの形ででも彼女と結ばれることがあったなら、それはあまり好ましいものにはならないだろう。不愉快な障害が多すぎる。たまに会って話すというようなことがたとえありえたとしても、そのことはすぐに幻滅になって終わるだろう。彼が彼女に幻滅するのではなく、彼女が彼に幻滅するのである。現実的には彼はとてもつまらなく取るに足りない、取り柄のない、面白くない人間であるにすぎない。

 

彼女がもどってくるまであと4か月。

彼女がもどってきたらどんな不都合で困ったこと、嫌悪すべきようなことをやることになるのかという不安がある。彼女を見ることが困難となっているだけに、彼女を垣間見て心を強く引かれることが重なると、彼はいっそう困難な立場に追い込まれることになって、何か醜いことまでもしないではすまなくなってしまうのではないか、きっとそうなる。… そのことがいまから懸念される。

 

 


危機であっても、苦しみであっても、不幸であっても

 

危機であっても、苦しみであっても、不幸であっても

 
やはり彼女をあのように不十分にわずかにでも見ることはとてもいいことだ。感じるものがまるでちがう。今日はあの彼女のことをずっと思う状態にあった。彼女がそばにいたころのように濃厚な思いを感じることはとてもできないが、彼女の顔、姿、いや彼女の存在が感じさせる何ともいいようのないなつかしさを感じると、それが自分のものになることのない現実を感じた。せめてそれをこんなふうにかすかにではなくもっと深く忘れがたいほどに感じたい、それこそは彼女なのであるから、という思いを感じた。

  彼女に避けられているのでは(彼が彼女の周辺に出没することを知って彼女は彼を避けたいと思っているのでは)、という不安を感じたりするのだが、昨日彼女に気づかれた可能性は低い。気づかれる危険性はあったが、まず気づかれたとは思われない。それよりもやはり彼女は彼に好意的な気持をもっている、それが苦しい恋の感情を含んだものではないとしても、おそらくこれまでにもそうであったように、彼に出会ったら彼女は心からの親しみを見せたいと思うだろうという気がする。それは彼女にずっと本を贈り続けてきた彼への義理だての気持(そんな好意を示されて冷たい素知らぬ顔はできない、そんなことをすれば相手から不愉快な女だと思われる、という気遣い)からだけというのではない、彼への人間的な親しさからだと思われる。

  そしてもしかしたら、彼女はやはり彼のことをとても思っていたのかもしれない… そんな気がした過去の数々のシーンのことが思われるのである。(実は何もなく、単なる彼の思い込みだったとしたら、何と恥ずかしいことか…)

  手をさわやかに振りながら歩く彼女の印象… それは単なる明るさ、さわやかさではなく、その奥に特別な色合いをもった彼女の存在が感じられる。そういう感じが彼の中に残っていたので、彼は歩くとき自然とそれを真似るようにしていた。あのときの彼女の印象の記憶、それが彼女というひとの存在の感触を彼に感じさせるのだった。それはとてもなつかしいものであるので、それを感じることは一つの危機を感じることでもありうることが予感された。けれども彼はそれを感じたい、危機であっても、苦しみであっても、不幸であっても、それを感じないよりは感じることの方を彼は望む。それを感じることは他のいかなることよりも貴重であると感じられるから。

 


やらなければ結果は出ない――SAIDの原則――

仕事ができる人はなぜ筋トレをするのか』(山本ケイイチ著、幻冬舎新書
という本を読んでいる。著者山本ケイイチさんパーソナルトレーナー
 この本を店頭で見かけて、何か刺激を得られそうな気がしたから買った。まさか筋トレをしようというのではない。

 次のような箇所に刺激を受ける。これはトレーニングだけではなく、どんなことにもあてはまりそうだ。 

《やらなければ結果は出ない――
SAIDの原則――

 個別性の原則に関連して、「SAIDの原則」というものがある。

SAID」とは、「Specific Adaptation to Imposed Demand(人体は与えられた負荷に見合った適応現象を起こす)」という意味だ。「特異性の原則」とも言われている。

 要するにやればやっただけ結果が出るし、やらなければ結果が出ない。脚の筋肉を鍛えたいのに、ベンチプレスばかりしていても、目指す筋肉はつかない。トレーニングの根本にあるのは、このきわめて単純な原則だ。

 逆に言えば、「こうありたい」という目標があったら、そういう変化が起こるような負荷をかけてやればいいということになる。

ここでは先の「意識性」が重要になってくる。目指した効果を上げるためには、目的を意識して行動することが必要になる。

 ビジネスの世界では「ゴールから逆算する」発想が重用だとよく言われる。3年後に会社を上場させようと思うなら、しなければいけないことは既に決まっている。あとはそれを逆算して、「今やらなければいけないことは何か」というところまで、落とし込んでいけばいい。

 トレーニングの効果を上げるのも、これとまったく同じことなのだ。》

 

《第5の原則は「継続性」だ。

 いかに質の高いトレーニングであっても、三日坊主だったら何の意味もない。

 もちろん、たとえ1回のトレーニングでも細胞レベルでの変化はある。「痛い」と感じるのだって、変化の一つだ。しかし、たった1回で終わらせてしまったら、変化は定着せず、何の効果も見込めない。

 たとえ1か所の筋肉を鍛えるだけでも、だいたい6週間ぐらいは同じ方法を続けてやらなければ結果は見えてこない。

 この継続性こそ、トレーニングの目的そのものといってもいいぐらい重要だということは、先にも述べたとおりだ。》

 「やればやっただけ結果が出るし、やらなければ結果が出ない」

 当たり前のことだけれども、それをシャープに意識するのとしないのとでは、違いがでる。
 継続性も勿論のこと。ただ、やろうと思いながらいっこうに始めない。始めない限り効果も継続性もありえない。
 ある明確で具体的な目標(効果)を描いて、それに合った行動をとる、そうすれば「やればやっただけ結果が出る」わけだ。…
 
 ここで私がイメージするのは、「文章を書くこと
 誰だったか、「書く筋肉を鍛える」という考えかたを書いていた。(必ずしも手を動かす筋肉のことではなく、比喩的にいったもの。)
 書くには書くための身体能力(脳を含めての)が必要で、そういうものは、練習・修練の繰り返しによって、鍛えられていく。

 で、私がここで思ったのは、「毎日、一定の時間(1時間なら1時間)を、書くことのために割く」こと。

 かねてから思っていたことであるが、まったく実行するにはいたっていなかった。
 それを具体的に実践していこう、そうすることが必要、と思いいたったのである。



萎縮性胃炎 〜胃カメラ検査結果〜

  昨年10月に住民健診を受けた結果、11月に胃部精密検査を受けるようにと指摘された。
 過去にも似たようなことがあって、何度か精密検査を受けたことがある。その都度、とくに「問題なし」という結果がでた。
 今回も同じようなことだろうと、タカをくくっていた。どうせ片づけなければならないのだから、年末にはぜひ行こうと思いながら、結局年が明けてしまい、年が明けた後もグズグズしていて、1月16日にようやくK病院を受診したのだった。

 胃カメラ検査は、過去にも2回か3回くらい、経験がある。最近は技術が大いに進歩して、大したことはないだろう。… けれども、どうもおっくう。…
 
 喉に麻酔をするので、車を運転して来るのは避けるように。(家族の車で送ってもらうとか、バスで来るとか)とか。

 それはそれでいいだろう。(実際には検査後も十分に運転できると自分としては思った。)

 麻酔や点滴など、準備には多少時間がかかったが、口から内視鏡を挿入しての検査は、10分ほどで、実に簡単に終わった。
 医師から検査結果を説明された。
 胃部の図に、何かしら斜線とか横線とかが手書きで書き込まれている。
 斜線部分には萎縮性胃炎が認められる。さらに横線部分(胃部全体ではないか)には、胃ビランが認められる… 

 その説明は好意的で穏やか。
 当方は「あ、そうですか。胃が荒れているのですね」と、いたって軽く呑気に受け取ってしまう。(やっぱり大したことはなかったのだ。胃が荒れているのなら、それなりの養生をすれば、よくなるのだ、という構えである。…)

 けっきょく、胃の薬を飲むようにと、2種類の薬をもらってかえった。
 薬か… 飲まなくても大したことはないだおろう… とタカをくくる思いが先にでてくる。…

 帰宅してから、インターネットで、「萎縮性胃炎」の何たるかをしらべてみた。

 どうやら初期胃炎(表層性胃炎)から進んでしまった状態のようで、「もとになおることはない」というものらしい。
 つまり若い頃の「表層性胃炎」が高じて、「萎縮性胃炎」状態に移行し、さらにそのなかから「胃ガン」になる例があるということらしいのだ。

インターネットサイト検索すると、

 ある漢方治療系のサイト。

胃の粘膜の炎症と萎縮が原因

 慢性胃炎とは、長期にわたって胃の粘膜の炎症または萎縮があり、胃の機能が衰えてくる状態をいいます。慢性胃炎には2つのタイプがあり、それぞれ胃の粘膜の状態や症状、治療法が違います。


◆表層性胃炎
 慢性胃炎のタイプの1つは、表層性胃炎といい、胃の粘膜の炎症性変化、すなわち充血やびらん(ただれ)を伴います。胃酸(胃液)の分泌が亢進して、空腹時に胃が痛んだり、胸やけがしたりなど、胃酸過多を示す症状が中心となります。若年者に多く、暴飲暴食で再発する、胃潰瘍になりやすい、といった特徴があります。治療は、胃酸の分泌を抑制する制酸薬の服用が中心となります。


◆萎縮性胃炎

 慢性胃炎のもう1つのタイプは、萎縮性胃炎といいます。
 老化や食生活などのために胃の粘膜にある胃腺が萎縮して胃酸の分泌が低下し、胃壁が弾力性を失って、機能の低下が起こるものです。
 症状は食欲がない、食後に胃がもたれる、おなかがはるといった胃酸減少の症状が多く見られます。こちらは高齢者に多く、胃ガンになりやすいともいわれています。治療は胃の機能を改善する薬や消化をよくする薬、胃の粘膜を保護する薬などが用いられます。

 (……中略……)

 近年の話題として、ヘリコバクター・ピロリ(以下ピロリ菌と略)と呼ばれる細菌と胃疾患との関係があります。一時、胃潰瘍も胃ガンもすべてピロリ菌が犯人であるようないわれ方をしていましたが、実際にはピロリ菌に感染すると表層性胃炎になりやすく、胃にピロリ菌がいると、かなりの高率でこれが萎縮性の慢性胃炎に移行しやすいのです。そして、そのなかの少数には胃ガンも発生する、というくらいのことしかわかっていません。

 ピロリ菌と胃疾患の関係については、今後の研究の成果を待つ必要がありますが、胃のトラブルが萎縮性の慢性胃炎に移行するのを防ぐには、除菌も有効な対策の1つであるとはいえそうです。ただし、ピロリ菌の除菌は、平成10年現在、健康保険の対象とはなっていません。

 自分の場合、すでに胃の大半の部分が「萎縮性胃炎」の領域に入ってしまっている。

 問題はそれが胃ガンに繋がっていくかどうか、ということ。

 さらにほかのサイトの記事をみると、こんなのがあった。

《慢性胃炎の分類
 いくつかの分類法がありますが、実質的には初期段階の活動性炎症のある時期(表層性胃炎)と、後期の、活動性炎症の無い時期(萎縮性胃炎)にわけるのが単純明快です。

◆表層性胃炎とは?
 いわば急性期、活動期にある胃炎です。顕微鏡でみると好中球(急性炎症をおこす細胞)が粘膜内にたくさんいます。ピロリ菌感染に対して人体の免疫系が活発に防御反応を起こしている時期です。


萎縮性胃炎とは?
 表層性胃炎が「炎症の火が燃えた状態」にたとえるなら萎縮性胃炎は「燃え尽きた後」にたとえられます。細胞が分裂する活力を失い、細胞数が減少します。粘膜がうすく脆弱になります。

◆腸上皮化生とは? 
 萎縮性胃炎が更に進むと細胞が変性します。メカニズムは不明なのですが胃の細胞があたかも腸の細胞のような性質に変わります(腸上皮化生)。この状態になった方は胃癌の危険性が高く、毎年、胃カメラを欠かすべきではありません。

◆胃上皮化生とは?
 逆に十二指腸粘膜が強い胃酸にさらされて胃の細胞のような性質に変わります(胃上皮化生)。これは十二指腸潰瘍と深い関係があります。(癌とは関係ありません)


15歳韓国中学生からのコメント(ブログ書き込み)から 〜梅田望夫さんブログ記事〜

ショックと感銘に襲われた韓国少年とのやり取り

 梅田望夫さんのサイトに標記の題名の文章があった。

 近年、韓国人と韓国文化(韓国ドラマ)に興味を感じるところ多とする私にとって、「おや?」と興味を引かれる題名だったので、読んでみた。

 

 梅田望夫さんのウエブ進化論の韓国語訳を読んで、rokengalanと名乗る「韓国に住む91年生まれの中学生」から梅田さんのブログ(http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/)のコメント欄に書き込みがあったというのである。

《『私は韓国に住む91年生まれ中学生です.今度韓国語版で出た「WEB SHINKARON」を感銘深く読みました.シリコンバレーで働くのが夢で日本語も少しずつ勉強しています.翻訳機を通じて再び訪問するでしょう。…』》
 梅田さんはそれに対して、ハングルはさっぱりわからないけれども、『ウェブ進化論』韓国語版の反響など、気がついたことがあったら是非お知らせいただけるとありがたい、と返事する・
 数時間のうちに、15歳の韓国中学生rokengalan 君から、ハングルで行なったグーグル検索結果へのリンクとともに、次のようなコメントが返ってきた。
翻訳道具たちを通じて英文あるいは日本語で見れば良いです。この検索結果には書店サイトの本の情報と韓国 Blogger の読後感があります。以外でも Naver, Daum などの韓国ポータルで同じキーワードで検索をした結果インターネット新聞記事で6 -7回紹介されたしネチズンたちの読後感が多いです。韓国で出版されてから15日位経っただけなのによほど関心が高いようです。」

 

15歳の韓国生まれの中学生が、見ず知らずの日本人著者に、『言葉の壁』を『翻訳機を通じて』軽々と飛び越えていること。

翻訳精度は二の次にして〉、言葉の壁を乗り越えて、コミュニケーションをとろうとする、こういう若い世代がどんどん増えれば、グーグルの革命にとっての最大の問題でもある『言語の壁』問題に、思わぬ方向からのソリューションが到来するかもしれない。

と梅田望夫さんは書いている。

 

韓国語から日本語(あるいは英語)への翻訳ソフト。

なるほど。

そういうものが存在することは知らないわけでもなかった。けれども、これまでそれを利用しようというようなことは思いもしなかった。

最近はおそらく精度もよほどよくなっているのではないか。

英語のサイトもまったく見ない自分であるが、精度の高くなった「翻訳ソフト」をとおして「韓国語」や「中国」のサイトを閲覧すると、思いがけない発見があるかもしれない。

そんな気がしてきた。


自分とは他者の眼をとおしてみた自分

自分とは他者の眼をとおしてみた自分

 

 三浦雅士著『漱石 母に愛されなかった子』より

 

 実母が自分を手放したのは(注 漱石は幼くして他家へ養子にやられた)自分を愛していなかったからではないかと幼い子は疑う。だったら自分はこの場にいないほうがいいのではないか、この世にいないほうがいいのではないか、と。母に愛されなかった子が自殺を考えるのは自然に思われます。その問いかけとして、じやあ、消えてやるよ、という構えが出てくるわけですが、問題はこの、じやあ、消えてやるよ、という構えの仕組みです。 じゃあ、消えてやるよ、というとき、消えてやるよと言っている自分は、じつは自分ではなく、自分のなかの母に所属しているのです。消えてやるよというのは、母の立場に立って、自分がいないほうがいいのではないかと考えているから出てくる判断であって、自分から出発した判断ではまったくないのです。

 じゃあ、消えてやるよ、というのは、自分で自分がいなければいいと思っているわけではない。自分から離れて、母の立場に立って言っているのだ。じやあ、消えてやるよと言いながら、そのとき自分は、母の側に回りこんでしまって、どこにもいないのである。負の存在としてしか存在していない。

 一見、奇矯なようであるが、よく考えてみると、これは少しも奇矯ではない。自分自身を母に愛されなかった子であると考えるということじたいが、じつはこの危ういとんぼ返りによって成立しているのである。

 自分は母に愛されていない、母に必要とされていないと疑うことは、自分が母の身になってはじめてできることである。というのも、そもそも自分というものじたいが母の身になってはじめて成立することだからです。

 

 誰も生まれてすぐに私というわけでも僕というわけでもない。もっとも身近な他者の眼、母の眼から見られた自分を引き受けることで、はじめて自分が自分になるのである。これは、幼児の一人称を考えればたやすく分かることだ。金ちゃんでも金坊でもいい。幼児はまず、相手が自分を呼ぶ名を、自分のものとして名乗るのである。

 

 自分とは、もっとも身近な他者の限から見た自分のことであって、かりに生命体としてのまとまりがあったとしても、そのまとまりがすなわち自分であると自動的に片づくわけではない。自分は他者の眼があってはじめて自分になるのであって、一般的に言って、その他者の眼とはもっとも身近な養育者、すなわち母親である。

 繰り込まれた母の視点を自分のものにしてしまう過程が自分になることだとすれば、自分とは他者になるということだ。あるいは他者が自分になるということだ。これもまた少しも奇矯ではない。そうでなければ、たとえばゲームはできない。子猫も子犬もよく遊びますが、ゲームをしているわけではない。勝ち負けを争っているわけではない。人間だけがゲームをし、勝負にこだわるのです。

 ゲームが面白いのは相手の立場に立つことができるからです。たとえば、碁盤や将棋盤をぐるりと回すことができるからである。あるいは、ゲームを引き継ぐことができるからである。

 勝って嬉しいのも負けて口惜しいのも、相手の視点に立って自分を見ているからなのだ。つまり、誰の立場にでもすぐに立つことができなければゲームはできない。

  (……中略……)

 人間が相手の立場に立つ、すなわち対面した相手の身になる存在であること、それが人間のいわば本質であることを、ゲームは端的に示しているが、ゲームだけではない。会話においても、食事においても、性交においても、まったく同じことが言えます。というより、会話も食事も性交も、人間においてはゲームである


一見「無意味」なことでも、感性のフィルターをとおすと「意味」となる

 一見まったく「無意味」なことでも、感性のフィルターをとおすと、「意味」となる。

 無意味なこと、つまらないこと――たまたま眼に触れて拾い上げられた些細なことにも、「意味」を付加することはできる。

 つまりそこに「創造の秘訣」があるのだ。

 意味を付加されていない事象は、そのままでは、ただの「ガラクタ」である。

 逆にいうと、どんなガラクタでも、それに「意味を付加することによって輝かせる」ことができる。

 そうすることができさえすれば。

 もちろん、そうすることは常に可能なのである。4

 問題は、そうする意思を持続することができるかどうかにかかっているのだ。

漱石の心の深いところにあったと思われる根深い「癖」

『漱石 母に愛されなかった子』(三浦雅士著、岩波新書)から

 『三四郎』『それから』『門』は初期三部作と言われる。
 初期三部作がひとつらなりのものとして読まれるのは、「不幸な恋愛」というひとつのかたちが主題になっているから。
 初期三部作の「潜在的主題」は、「愛されていることに気づかない罪」。これはまた「愛していることに気づかない罪」でもある、と三浦雅士さん。

 『三四郎』でいうと、主人公が美禰子に心を引かれ、美禰子にもその心があるように見えたのに、三四郎は「自分は愛されていない」自分の方も「彼女をそれほど深刻に愛しているわけではない」と、勝手に決めこんで、自分からは積極的に出ない。「それなら自分はそれでいいんだ(消えてやるから)」とというわけ。

 つまり、ここで、三四郎は『草枕』の主人公と同じように、世の人情に深入りして、危険な状態(苦しすぎる状況)におちいることのないように、「間八尺」の距離を置いているわけだ。

 三浦雅士さんの言葉で言えば、

《(美禰子は)三四郎に好意を持ったのである。それは三四郎が好意を持ったことへの応答なのだ。にもかかわらず、はかばかしく対応しなかったのは三四郎のほうなのだ

  『それから』においては、三四郎が美禰子を「見捨てた」のとまったく同じように、主人公・大助が過去に三千代という女性を「見捨てた」ことが問題になる。
 三千代は三角関係にあったもう一人の男と結婚しているが、幸福とは言えない。
 作品は、大助が三千代たち夫妻と再開するところからはじまっている。

 この作品は、ある意味で、主人公・大助が過去の自分の過ちの本質を自覚していく(再確認していく)過程を追求しているともいいえようか。
 三千代jという、本能的に本質を見据えることのできる女性によって、大助のあり方の問題点、逃げ腰で卑怯であるという本質が次第に明るみに出されていく。

 大助も三千代もどちらも愛し合っていたのに、大助は自分から勝手に三千代の側の心に回り込んで、愛されていないとひとり決めして、三千代を見捨てたのだ、という事情が明確になっていく。

 大助の方は、必ずしもそう思っていない。三千代は自分を本気では愛していないのかもしれない、こういうことで一人の女性を争うのは自分の在り方ではではないと考えて、「いさぎよく後へ退いた」と思っている。
 主人公は三千代の心のことをほんとうに考えるよりも、愛されていないかも知れない(多分そうだろうという前提を自分から勝手に作り上げているのだ。そうすることによって、愛されていないことを知る深刻な苦痛(恐怖)から予め身を守っている
 と同時に、愛れていないのなら、いさぎよく自分から身を引く、つまり、自分が良い子になって、愛されたいと思う人の目の前から消える、という理想の形を実践している、のである。
 ところが、三千代はそういう大助の心の在り方の本質を見抜いていて、なぜ捨ててしまったんです」という本質をずばりと射る問いを大助に向けて発する。
 大助にとっては、それは予期しない問いだった。このようにして、大助の心の在り方の本質(それは三四郎の心の在り方でもあり、漱石の心の在り方でもあっただろう)が、三千代をとおして次第に明らかになっていく(自覚的になっていく)。

 漱石の心の深いところにあったと思われる根深い「癖」が、ここでも表れていることがわかる。それは母から「おまえなんか消えてしまうがいい」と言われて、「それじゃ(お望みのとおり)消えてやるよ」といって、家を飛び出してった、坊ちゃんと同じ心の癖である。

 三浦雅士さんの文章から引用。

《『それから』で焦点となった問題とは何か。なぜ捨てたのかという問題です。本人(大助)としては、捨てたのではなく、捨てられた、みずから進んで捨てられた、ということかもしれないが、それは捨てたということと同じである。(…中略…)
 じゃあ、消えてやるよという論理は受動的に見えるが、とんでもない。能動的、いや、攻撃的でさえあるのだ。大助がぎょっとするのは、三千代が最初からそれを見抜いていたからである。あなたは捨てられたのではない、捨てたのである。》

大助が問いつめられているのは、じゃあ、消えてやるよと言ってしまう自分とはいったい何であるかという問題です。それこそ母に愛されなかった子という主題の核心である。


心の鎧
 
代助みずから、三千代は平岡よりも自分を愛しているかもしれないという考えを封じてしまったからである。なぜ封じてしまったか。万にひとつも愛されていないという答えを聞くことには耐えられなかったからだ。耐えられなかったから最初から封じてしまったのだ。超然としていたかった。それこそ、世界はすぺて間二尺も隔てていれば落ち着いて見られるのである。その論理に逃げてしまった。》

《『それから』の発端になる恋愛のかたちは、突きつめてしまえば、おまえのようなものの顔は見たくないと母に言われて親類へ泊まりに行き、泊まりに行っているあいだに母に死なれてしまったという『坊っちゃん』 のパターンと同じです。おやじはちっともおれを可愛がってくれなかった、母は兄ばかり晶展にしていたという思い込み、つまりそうとでも思わなければやっていけないという心の鎧がそのまま人格になってしまえば、つねにそういう行動をとってしまうことになる。

 代助は、三千代を捨てたわけだが、捨てる前に、自分のほうから進んで捨てられてしまっているのです。坊っちゃんにしても同じだ。自分のほうから進んで捨てられてしまうことによって、母を捨てているのだ。松山と松山中学に対してとった行動も同じだ。》


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