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  • 2015.07.11 Saturday
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ある夜のこと

     ある夜のこと    (080622)

  今日も残業していた。どうしても仕事が片づかない。十時すぎに同僚のD氏の奥さんから電話があり、夫がまだ帰ってこないので心配しているという。奥さんは事務所の外の公衆電話からかけていた。二人でトイレなどを探し、D氏が倒れているのを発見した。私は救急車を呼んだつもりが、間違って一一〇番に電話してしまった。警察官がたくさん来た。救急車が呼ばれ、救急隊員はD氏がすでに死亡していることを告げた。一時ころまで警察官からいろいろ事情を聞かれたり、待機したりしていた。それから自転車で帰ってきた。疲れた。足がふらふらするし、心臓に負担がかかっているのを感じる。ワープロを打つ指も自由に動かない感じ。無理は禁物。このままワープロを打ちつづけるのはよくない気がする。今日はこれだけにしてとにかく寝よう。詳しいことは明日記すことにしよう。三時三四分。

  夕方、D氏が庶務のLさんのところでちょっと話し込んでいるのが見られた。D氏は人なつこく親しみやすい性格の人で、自身にはとても几帳面なところがあったが、人に対しては穏やかで、話し好きなのだろう、ときどきそんなところで話し込んでいるD氏が見かけられたものである。そのあとしばらくして私はトイレに立ち、もどってくるとき廊下でD氏とすれちがった。後で思うと顔色が青かったような気もするが、そのときには別に気にかからなかった。D氏はいつもそんな顔色だったし、あんな大変な病気を身内にかかえているにしては元気そう、という印象をいつももっていた。
  終業の時間がきても人々はすぐには帰らない。一時間ほどして、「コピー機械をまだ使いますか」と言うLさんの声が聞こえた。Lさんは帰るまえにいつもそう言ってまわるのだ。私は黙っていた。前の席のE氏が「自分はもう帰るからいらない」と言い、私にもたずねた。私はLさんの方に顔を向けた。「つけといて」と曖昧な声で言った。Lさんはちょっと笑い声をあげた。彼女はよくそんなふうに笑うのである。
  このときD氏がまだ事務所にいたかどうか、私には記憶がない。私は仕事を続けた。そう遅くまで残るつもりはなかったが、何となくぐずぐずとしていた。片づけておきたい仕事がいっぱいあったが、思うほどはかどらない。七時になると残っているのは三人になった。それから八時ころ他の課のH氏が帰り、Tさんが帰った。一人になってからもついこれもあれもと思いながら仕事を続けていた。
  九時ころだったか、電話がかかってきた。D氏の奥さんからで、「主人がまだ帰っていないのですが、残業しているでしょうか」という。遠くからD氏の席の方を見てから「帰ったようです」と私は答えた。奥さんはそれで納得したように何も言わなかったので、私は電話を切った。それからちょっと気になったのでD氏の机を見にいった。ワープロがついていて〈印刷〉画面のままになっていた。用紙をセットし印刷を開始した時点でどこかへ行ったもののようだった。おかしいな、どこへ行ったのだろうか、同僚と夕食に出てちょっといっぱいひっかけているのだろうか、などと何となく思ったが、ワープロをつけたまま行くのは奇妙である。ちょっと不審に感じたが、別にそれ以上のことは考えないで、私はそのまま仕事を続けた。後で思うと、このときもっと強い疑念をもってしかるべきだったのだろう。
  D氏は以前、市の○○課に勤務していたころに連日遅くまで残業を続け、ときに日が変わることもよくあった、そんな無理がたたって、仕事中倒れて入院した。各人の責任になる事務の量がぼう大で、とくにある時期には来る日も来る日も深夜まで残業しないとこなせない部署だった上に、彼は責任感が強く自負心もあったから、そんな場所にいると無理してでもきちんとそれを果たしていかないわけにはいかない。自分に任せられた仕事が滞ったために人に迷惑がかかったり、あるいは責任が果たせないで自分の無力がさらけ出されることになることには耐えられないと感じるところがあって、彼はつい身体のこともかえりみないで無理をしてしまうのだった。さらに彼には几帳面で凝り性のところがあって、格別に念を入れて丁寧に仕事をしないではいられず、自分でもその性分をどうすることもできない、というところがあった。
  そのときの病気からD氏は何とか立ち直って、仕事に復帰することができたのだったが、身体に残った傷は重大で、仕事を続けていたらまた倒れる危険性が大きい、今度倒れたら助からない、と言われていた。
  今の職場に転任してからは、以前のようなハードな残業はなくなった。それでもどこの職場でも年々仕事が増えて人は減る一方という状況があり、さらに格別に神経質で優秀で熱意のある人が上にいたりすると、みんなそれにあおられて次第にそれまで省みられなかったところにまで念を入れはじめ、自然と仕事が煩雑になって増えていくという状況があった。古き混沌の時代には中途半端でいい加減なものでも存在することができたのだったが、新しい文明の利器が開発され、頭脳優先で管理的な指向が進む時代には、どんな細かなことにまでも意識の光が向けられるようになり、曖昧なものや矛盾したものの存在が許容されなくなっていくのである。どっちつかずで白黒はっきりしないままで存在できていたものが、無理やり白か黒かに色分けされて、黒は矯正あるいは排除されなければならない、といった具合で、次第に暗い片すみにまで管理の目が届くようになっていった。そんなわけで無闇と仕事が潔癖で煩雑なものになって行くのは平和な時代の趨勢というべきだったのだろう。同僚たちが遅くまで残って仕事をしているのに、自分が身体の弱みのせいで同じようにできないことを心苦しくまた無念なことに思うところがあって、D氏はついみんなと同じように無理を重ねてしまうのだった。ちょうどそのころめったに来ないような〈監査〉が入ることになって、人々はその準備のために大騒ぎしていた。欠陥が無防備なまま批判の目にさらされることを極度に嫌い、どんな誤りもなく完璧でなければ気がすまないという意向が先に立って、だれに言われることなくみんな自発的に当然のように残業を続けるようになった。仕事が増えるとそれだけ、D氏の優れた几帳面さが高じてきた。それまでは「まあいいや」と思って放置していたことまでが気にかかってきて、こんなことが矢面にさらされるのではないか、と思いはじめると、相当な労力と時間を要することであっても、ついそれを適正に処理しておかないと気がすまないようになった。D氏はいつか私に言った。「今度倒れたら助からない、絶対無理をしないように、と医者から言われている。でもこればかりは性分でやりはじめるととまらなくなってしまう」
  一年半ほど前のある日の会議で、人々はF所長の海外出張の報告を聞いていた。そのとき人々の間にざわめきが起こった。D氏がトイレからもどってきて、会議室の入口のところで机にもたれかかるようにして、倒れたのである。会議が中断され、人々はそちらに向かっていった。D氏はただちに病院に運びこまれた。二度目の入院である。奇蹟的に命をとりとめて、数か月の入院の後、退院することができた。しかし、脳から脊髄に管を入れたまま生活しないといけないことになってしまった。自宅で何か月か静養したあと、D氏自身の強い希望で危険を内包したまま職場に復帰したが、もう以前のように無理はできなかった。
  そんなD氏の身体の状態を知っていたのだから、私はここでもっと強い疑いをもってもよかったはずなのに、「おかしいな、飲みにでもいったのだろうか」と簡単に考えて、それ以上深く追求しなかった。人間の呑気さ加減はあきれるばかりで、本当に重大で深刻なことが身近に起こっていてその徴候が目の前に差し出されているのに、それに気づかないで過ぎてしまうのである。
  一時間ばかりたって、十時すぎに再び電話が鳴った。D氏の奥さんからで、「主人がまだ帰らないので事務所の外まで見に来たのですが…いま玄関前の公衆電話からかけているのですが…」という。私は印刷途中のワープロのことを思い出した。「そうですか」と私は言った。「それは心配ですね。ほんとうにどうしたんでしょう。とにかく事務所まで上がってこられませんか」奥さんは三階まで上がってきて、事務所のドアの前に立った。痩せぎすな人で、心配そうな顔をして「お騒がせしてすみません」といった。D氏には子どもが二人あって、今はたしか中学生と小学生だった。上の子は私の息子と同じ学校で同じ運動クラブに入っていた。私の息子のことを「B先輩」と呼んで尊敬している、といつかD氏は語ったものだ。後で思うと、このときすでに奥さんはD氏がどこかで倒れているのではないかと強く懸念していたにちがいない。私もそんな不吉なことをちらっと思わないではなかったが、まさか、という気持だった。
  「おかしいですね、主人の車が外に置いたままになっている。今日は軽トラックに乗ってきていたんです」と奥さんは言った。私は先ほど目にしたD氏の机の不審な状況を見せておこうと思い、奥さんに中へ入るように言った。奥さんはとても遠慮深く控え目な人のようで、深夜の事務所に入るのを一瞬ためらっている模様だった。そんな場所で知らない人と二人きりになることに不安があるのかとも思われた。私はためらっている奥さんに事務所へ入るようにうながし、D氏の机を見せて言った。「おかしいですね、ワープロがついたままになっている。それに、ほら、印刷が途中のままになっている。印刷を開始しておいてどこかへ行ったのだろうか」「はい、そうですね」と奥さんは言った。しかし、それで何かがわかったわけではない。どこへいったのだろう、飲みに行ったのか、パチンコか、他に行くところがあったのだろうか、と私は考えめぐらせた。どの考えもどうもすっきりしない。人に聞いてもわかるとは思われないが、とりあえず誰かにきくしかないと考えて、D氏と同じ課のY氏に電話した。Y氏によると、夕方D氏が奥さんに電話で「少し残業するが、七時までには帰る」と言っていたという。そのほかには何の情報も得られなかった。
  二度目の入院の後にはD氏ももう無理をしないように気をつけていた。人が残業していても先に帰るようにしていて、それはずいぶん寂しいことだろうとも思われたが、そんな状態にも一種の安定が生まれているようすだった。「いつもは少し遅くなるとかならず連絡のある人なのに、こんなに遅くなって連絡がないのはおかしい」と奥さんはいった。「おかしいですね」と私も言った。このときにはもうかなり奇妙だと感じはじめていて、不吉な思いが頭をかすめていた。D氏の車が駐車場に置いたままになっている、と言った奥さんのことばが耳に残っていて、青空駐車場のどこか暗い片隅のコンクリートの上に崩れるように倒れているD氏の姿が頭に浮かんだ。「とにかくあたりを探してみましょうか」と私は言い、「はい、そうですね」と奥さんも同意して、いっしょに事務所を出た。「トイレを見てみましょうか」と奥さんは言って小走りで同じ三階フロアのトイレを見に行った。そして、すぐにもどってきて「いませんでした」といった。「念のため他の階も見てみましょう」私は階段を上って四階、五階を見にいった。「一階、二階もそうですね」と奥さんは下の方へ見に行った。どこにも見当たらない。「ほかの事務所で話しこんだりしていないでしょうか」と奥さんが言うので、「一応念のためにきいてみましょうか」と私はA事務所に入った。A事務所には灯りがついていて、人々が遅くまで残っている模様。しかしD氏がいるような気配はなかった。
  事務所にもどり、庶務課長に電話した。庶務課長は「パチンコ屋かもしれない。一度パチンコ屋をのぞいてみてくれるか」といった。この言葉が啓示のように働いて、どうしても解けない謎を解くための一つの新しい道筋が目の前に展けた気がした。なるほどパチンコ屋か…やっぱりそうだったのか…昔一時D氏がパチンコに凝ったことがある、という話を聞いていた。彼は何でも凝ると、それに強く集中してしまう性分なのだ。病気で倒れてからはさすがにパチンコも控えていたが、最近〈精神衛生のため〉にときどき軽く立ち寄ることがある、とD氏が笑いながら言うのを耳にしたことがあった。命にかかわる病気をもっている人がそんな遅くまでパチンコをするだろうかという疑問もあったが、ほかに思い浮かぶあてもなかった。「パチンコ屋を見てみましょうか」と私は言った。「パチンコ屋はないと思います。パチンコ屋は十一時まででしょう?」と奥さん。時計を見るともう十一時、その辺の事情は奥さんのほうがよくわかっている模様だった。それから奥さんは「お騒がせしてすみませんでした」と申し訳なさそうに言い、「もうこれで結構です。何でもないことかもしれないのに、お騒がせして申し訳ありませんでした。家に帰って待ってみます。そのうちにひょっこりと帰ってくるかもしれませんから」としきりに言った。何でもないのかもしれないのに事を大きくしてしまうことに遠慮深い不安を感じているのかとも思われたけれども、こんなに遅くまで帰らない夫が夜中にひょっこり帰ってくるかもしれないと思って、家で待つことなどどうしてできるだろうか、きっとこれは何かがあったにちがいないのだ、このまま奥さんを不安の中に放置してしまうことは責任に反することではないか、といって、いったい私にどうすることができるのだろうか、と迷った。彼女はただこれ以上人に迷惑をかけることに気兼ねして心苦しく感じているのだろう、その気持がよくわかるような気がしたので、とりあえずそれを尊重したい気もあって、私は「そうですか。しようがないですね」といった。そして申し訳のように「一度パチンコ屋をのぞいてみます」と言って、気がかりを残しながら別れた。自転車に乗って玄関のところを通りかかると、奥さんが公衆電話のボックスで電話しているのが見えた。パチンコ屋はすでに閉店していて、店のしまいをしていた。入っていくと、「もう終わりです」と言われた。
  このときになってようやく、私は本格的におかしいと思った。そのまま帰ろうかどうかと一瞬迷ったが、勿論帰るわけにいかないことは明らかだった。最後の可能性と思ったパチンコ店にもいないことがわかったこのときになって、これはどうもおかしい、こんなことがあるだろうか、という気持がはっきりと明瞭に起こってきた。とりあえずパチンコ屋の結果を庶務課長に連絡しておこうと思い、事務所へもどることにした。途中奥さんがまだ電話ボックスの中にいるのが目についた。廊下、階段を通って深夜の事務所にもどるとき、どういうわけかムシが知らせるものがあってもう一度念のために三階のトイレを確かめてみよう、という考えが起こった。先ほど奥さんが調べて「いないようです」と言ったあのトイレである。中に入って行ったとき、どこにも異常がないように見えた。やっぱりいないようだ、と思った。奥のボックスのドアが開いていて、誰も入っていないのがわかった。手前のドアが二つ閉まっていた。ひょっとしたら残業しているA事務所の職員が使用中かもしれないという気もしたのでノックし、それからドアの上部に手をかけて引いてみたが、びくともしない。もう一つのドアはすぐに開いた。そこは用具置き場だった。開かないドアがあるというだけで、すぐに「これはおかしい」と直観すべきなのに、人の心はあまりにも不吉な、ありえないような事実に対しては目をつぶり、そんなに不吉ではない、ありそうな説明でまず事態を解釈しようとするものなのだろうか。「おかしいな、ここのドアは前から開かないのだろうか、ドアに把手もついていないし、故障で常時閉まっていたのだろうか」と私は何気なく思い、そのままそこを去ろうとしかけた。けれどもやはり気になって、中をたしかめる方法がないかと探るうちに、ドアの下部に隙間があるのに気づいた。顔を床にすりつけるようにして中をのぞいた。暗がりの中に人が崩れるように倒れているのが見えた。まぎれもない…すぐに救急車を呼ばないといけないと思って、廊下に出た。先に奥さんに連絡するか、救急車を呼ぶか迷った。電話で救急車を呼んでいるうちに奥さんが帰ってしまってはという懸念から、先に走って知らせにいった。奥さんはまだ電話ボックスの中にいた。私は走りながら声をあげてトイレの場所を知らせ、すぐに三階へもどっていった。事務所のドアに近づいたとき、奥さんが後方のトイレのところで「お父さん、お父さん」と悲鳴に似たような興奮した声で叫ぶのが聞こえた。夫がそんな無残なことになっているとは彼女はまだ覚悟していなかったのだ、まだ何かのまちがいでひょっこりと帰ってくるものと信じたい気持をもっていたのだ、と私は思った。事務所に走りこんですぐさま受話器をとった。救急車を呼ぶ声がうわずって、自分でも思っていなかったような、興奮して泣きそうな声になってしまった。それから落ち着きをとりもどして庶務課長に電話した。庶務課長はすぐに行くということであった。
  「救急車を呼んだから」と私は奥さんに言った。奥さんは何か用があったのか再び外に出ていった。(おそらく親しい友人のTさんに電話しにいったのだろう。すぐ後にTさんが姿を見せていたから。Tさんとは私も以前仕事で親しくかかわったことがある。このことがあって間もなく今度はTさんが入院し、数年後帰らぬ人になったことが信じられないことに思われる。)私は思いついて他の人にも電話連絡を入れた。救急車が来たことを知らせるサイレンの音がしたので、私は急いで駆けだした。奥さんが入ってきて、「だれかきたようです。でも救急車はきていないようです」と言った。そんなはずがない、どうしたのだろうか…私は走って見にいった。数人の隊員らしい人が近づいてきた。話しているうちにすぐにそれが警察官だとわかった。「え?  救急車は?」「一一九番」「あ、そうか」…何ということだろう、私はまちがえて一一〇番に電話してしまったのだった。警察官の一人がトイレの上によじ登り中に入ってドアを開けた。別の警察官が携帯電話で救急車を呼び、まもなく救急車がきた。私は救急隊員に「この人はC病院で治療を受けているから、C病院へ運んでほしい」と興奮した口調で繰り返した。しかし、救急隊員は「お気の毒ですが」と言って、すぐに立ち去っていった。私は救急車をよばずに警察に電話してしまったことで奥さんにとんでもない申し訳ないことをしたと感じた。「まちがって一一〇番に電話してしまった」と一言だけつぶやくように言ったが、それでどうなるものでもなかった。同僚が倒れているのに、真先に警察に電話するなんて何という仕打ちだろうか、人からもどんな白い目で見られるだろうか、と思うと、それがずっと心に引っかかって痛みとして残った。


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