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  • 2015.07.11 Saturday
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ゆがんだ風景

  
   ゆがんだ風景


   傾  く

  世間のことやこの世界のことについて、まだ何も知らなかった子どものころ、夜になると、ときどきぼくは遠いどよめきを聞くことがあった。ほとんど聞きとれないくらいの遠く鈍いどよめき。たとえていってみるなら、ドーン、ドーンと巨大なハンマーで地面をたたくような音。遠く、実に遠くで起こる物音なので、ほとんど音とはいえないような響きなのだ。その音に、かすかに、何ものとも知れないイヤらしい奇声が混じって聞こえるような気がした。ぼくの想像では、それは悪魔たちが世界を引きずり下ろす音だった。大人たちのだれにも聞こえないその音が、子どものぼくの耳には入ってきた。どんなに耳をふさいでも、それは聞こえてきた。聞くまいと思っても、どうしても耳を傾けないではいられなかった…
  また、別の夜には、どこからともなく、キーンという音が聞こえてきた。その音は、地面の底からのように、長くいつ果てるともなく続くのだった。すると、ぼくの脳裏には一本の火の見やぐらの姿が見えてきた。それは鋼鉄の棒を組み合わせて出来たもので、ぼくらはそれを『ハンショ(半鐘)』と呼んでいた。ぼくの家の近所にもそれが一つあった。そこはぼくらの恰好の遊び場所の一つだった。一番上の所に釣鐘が一つぶら下がっていた。ぼくはよく下からハンショを見上げた。すると、青い空を明るい真っ白な雲が動くにつれて、ハンショはどんどん傾いていった。
  夜、ぼくの脳裏に浮かんだハンショは、ぼんやりしたもので、昼間のような明るさはなかった。どこか向こうの方にあって、じっと見ていると、キーンという音とともにやはり少しずつ傾いていった。少しずつ、ほんの少しずつ…不思議なことにそれはいつまでたっても傾き続けた。傾いても傾いても、まだ傾き続けて、しまいには見ているぼく自身までがいっしょに傾いて、闇の中へと沈んでいくのだった…
 

     火の玉 
     

  子どものころ、ぼくは幽霊を異常なほど怖がっていた。夜、外出するときや便所に行くときなど、いつも幽霊のことを思って、周りに目を凝らした。いつもありもしない影を想像して、心臓が凍りつきそうになった。後ろから何か気味悪いものの影が近づいてくるような気がし、前方に何か得体のしれないものがあらわれないか、見えてはならないはずのものが見えたりしないかという思いから自由になれなかった。
  そのころ火の玉のうわさを子どもたちはよくした。田舎の風習で、当時はまだ人が死んだら土葬する風習が残っていた。ぼくの祖父が死んだときもそうだった。葬儀があったあと、墓地の近くの家の子どもが、火の玉を見たといっていた。大きな火の玉が、夜、彼の家の屋根の上をグルグルまわって飛んでいたとか…「気持ち悪かったで…」とその友達はいった。
  祖父はぼくをとても可愛がっていたので、ぼくの名前を繰り返し呼びながら死んでいった。母はぼくに「おじいちゃんのところへ行ってやり。あんなに名前を呼んでいるじゃないの。もう死ぬかもしれないのよ。最後に行って手を握ってやり」としきりに言った。しかし、ぼくは祖父の寝ている部屋に近づくことをイヤがって、絶対に行こうとしなかった。祖父は死のうとしている。呼吸をするたびに、喉が変な音をたてている。ぼくはどうしても祖父に近づくことができなかった。
  祖父がぼくの名前を呼びながら死んだ陰には、ぼくの実父の思い出があったのだ。実父は養子としてぼくの家に来た。彼は、地味で、人目を引くことを嫌う、憂鬱な性分だったようだが、気立てがやさしく人なつこいところがあったらしく、ひどく祖父の気にいっていたらしい。ぼくが3才にならないうちに父はこの世を去った。そのとき祖父は泣いて彼の死を惜しんだ。「どうして先に死んだのか」と。祖父は盲目で、その後の生活は真っ暗だった。
  ぼくは父と瓜二つだとよくいわれた。しばしば祖父は間違えて父の名でぼくを呼んだ。死ぬときも、祖父はしきりにぼくの名を呼ぶ一方で、とっくに死んだぼくの父の名を繰り返し呼んでいた。
  ぼくの名前と父の名前を交互に呼びながら死んでいったという人が、ほかにも三人いる。父の母親や兄姉たち。父は若くして病気で死んだので、その思い出が近親者から特に大事にされていたようだ。彼らがぼくの名を呼びながら死んでいったというのも、ぼくへの親愛からというよりは、父の思い出がそれだけ深かったということなのだ。ぼくはごく小さい子どものころを除いて、彼らとはそれほどつきあったことがない。それにいろんな点でぼくは父ほどには人から愛される人柄ではなかったのだから。
  夜、外出するとき、あちこちの家の電灯の光が火の玉に見えてしようがなかった。ぼくは真っ暗な田舎の屋外を歩きながら、あれは火の玉ではないか、向こうのは何だか尻尾を引いているように見えるぞ…ひょっとしたら…といったことばかりを思っていた。冷たいものを背筋に感じながら。
  そんなある夜、部落の子どもが集まって祭りの練習をした帰りのことだった。ぼくは一人いつものとおり、こわごわと、あちこちの光の玉を吟味しながら歩いていた。意識しはじめると、いくらおさえてもだめなのだ。まるで冷蔵庫の中に入ったみたいな感じ…ふと遠く西の空にいつもとはちがった小さな光の玉が飛んでいるのが目に入った。するとぼくの目はもうそれから逃れられなくなった。それは紛れもなく尾を引いていて、おたまじゃくしのように尻尾を振りながら北から南へと動いていた。ぼくは、まるで魔につかれたように、歩きながらじっとそれを見ていた。それは、向こうの山までは遠くない、しかしすぐ近くというほどは近くでもないあたりの空間を、ゆっくりと泳ぐように飛んでいた。じっと見ているうちに、怖さがこうじてくると、目をそらして、もう二度と見まいと思うのだ。しかし、しばらくすると、またそれを見て確かめたくなった。見ると、まぎれもない…飛んでいる…ちょうど神社の巨大な樹木がひろがっているその近くの空をふわりふわりと飛んでいて、その大きさからみて、樹木よりはかなり向こうのように見えた。見るたびに説明できないような恐怖を感じた。そのようにして、ぼくはようやく家に帰った。家には祖母がいた。ぼくは真っ青な顔をして、祖母の顔を見たが、何も言わなかった。そして窓のところへ行くと、こわごわと、そちらのほうの空を見た。すると窓の外にアレがやはり見えるのだった…
「何をみているの?」と祖母がきいた。
「いや、何も、別に…」
  祖母に火の玉のことをいうことはできなかった。それは恐ろしいことで、祖母を不安に巻き込むだろう…ぼくはそれが怖かった…
 
  いったい、あれは何だったのだろうか?  幻覚だったのだろうか?  と今でもときどきぼくは思うのだ。確かにあれを見た。それはまちがいない。気のせいなどではなかった。しかし、いったい、あれは幻だったのだろうか?  それとも本物だったのだろうか?
 

     揺れる
      
  夜中、部屋にこもっていて、ふっと何気なく書棚の方を振り向いたとき、おかしなことに気づいた。本たちが揺れているのだ。もう一度振り返ってみると、やはりまちがいなかった。書棚の本たちが海の底の海藻みたいに、いっせいにゆらゆらと揺らぎ、ある段のはちょっと右に、別の段のは左にといった風に微妙にかしぎながら、ふくらんだり縮んだりして、奇妙な具合に揺れ動いている。みんな何かしら喜ばしい精気を与えられた生き物たちであるかのように。 ああ、そこには何という生命がぎっしりと詰め込まれていることか。いや、待てよ。これはみんなぼく自身の中の風景かもしれないぞ。本たちはぼくの中で息づき揺らめいているのではないだろうか?  不思議な可能性をささやきながら、本たちは揺れているのだ。いや、いや、待てよ、揺れているのはぼく自身の方かもしれないぞ…
  ふっと気がつくと、揺れているのは本だけではない。本棚も、柱も、ドアも、木目の着いた板壁に張ってあるシャガールの絵、時計、カーテン、室内灯、机、椅子、さらには机の上の書きつぶしの紙片、ペンたて、コーヒーのコップ…それらのものたちが、まるで呼吸する生き物であるかのように、膨らんだり縮んだりしながら、揺れている。しかも奇異なことに、そのことがぼくには少しも不思議ではなく、遠い昔から慣れ親しんでいるごくあたりまえの、ありふれた現象であるかのように感じられた。何の違和感もない、とても快い現象…
  ふっと気づくと、ぼくの周りには無数の海藻類がそよぎ揺れている。暗黒の鱗(うろこ)をもった奇怪な深海の生き物たちが息づき脈打っている。そんな中を不気味に一匹の巨大な魚が泳いでいる…
  深海の怪魚…そのイメージは以前からぼくの中に巣くっていた。そいつは目玉が鈍く光る怪物で、傷だらけの暗色の胴体には、様々の海藻類や苔や樹木の枝などがまとわりつき、塩や砂が傷口に深くしみこんでいるのだ。まるで原始の岩につけられた太古の切り傷みたいな黒い傷。中には不気味な深い傷もあって、それはぼくになぜともしれない戦慄と喜びを感じさせるのだ… 


     さとみ 
     
  ぼくは娘のさとみを連れて海水浴場に来ていた。さとみは小学校の一年生。真夏の太陽の光の中、広い砂浜は水着姿の人々であふれていた。ぼくは砂浜でさとみを泳がせていた。そのうち不思議なことが起こった。砂浜に打ち寄せていた波が一瞬のうちに引いていったのだ。見事なほどすうっと下の方まで引いていった。今まで海水があったところが砂浜になり、ずっとずっと下の方まで砂浜が広がった。見た感じ、海水浴場は大きな碗のような感じで、丸みを帯びてずっと深く下方まで続いていた。一瞬ぼくは強い不安を感じた。波がもどってくるにちがいない…わけもなくそんな考えにとらわれたぼくは、小さな娘の手を引いて、急いで上方の土手を目指してかけ出した。入江は深く、土手ははるか上方にあって、そこにわずかな樹木が生えている。急がないと危ない…土手の所まで逃げてもまだ安全かどうかわからないけれど…気がつくと、もうすべての人たちが逃げ出していて、ぼくら父娘が最後になっているのであった…

  また、あるとき、ぼくはさとみと神社の境内で蝉取りをしていた。さとみは女の子のくせに、蝉やクワガタ、カブトムシなどの昆虫が気狂いみたいに好きなのだ。もう夕方になろうとしていた。巨大な樹木の枝と葉が広がっていた。ふっと気がつくと、樹木の背後に、月よりは少し小さいくらいの、ひどく明るい天体が見えた。《おや?  いやに明るいな?》とぼくは思った。見ていると、それは次第に大きくなって、その表面の濃淡の模様がはっきりと見えてきた。青ざめた海みたいな色の天体で、木星みたいな感じだった。どうして木星なのかよくわからないが、そのときぼくはそう思ったのだ。それはみるみるうちに地球に近づいてきて、ついには空全体をおおうほどになった。近づくにつれて、それはますます青ざめて真っ青になっていった。ああ、衝突は避けられない…とぼくは感じた。避けようもない…
  ぼくはさとみに不安を与えまいとして、手を強く握って言った。
「心配しないで。だいじょうぶ。だいじょうぶだからね…」


     来訪者
      
  日は暮れかけていた。けれど本当は始まろうとしていたのだ。
  K氏は、二階の部屋で仲間たちの来るのを待っていた。日頃めったにする機会のなかった遊びをする約束ができていて、それを心待ちにしているところだった。本当ならもっと早くから始めたかったところである。そうすれば、さらに長い時間にわたって、こころゆくまで愉しみに耽ることができたであろうに!  そうすることもできたのに、そうしないでむざむざと時間を空費していることはひどく残念なことだった。相手がいなくて遠ざかっていた遊びの機会。K氏は、ムズムズする気持で、その機会が来るのを待っていたのだ。もっともそのことを自分に対しても他人に対しても認めたくない、といった微妙な気持もあったわけなのではあるが…
  仲間の中で、自分を感じたいという自然な欲求を、彼は、自分の中に認めたくない気持をもっていた。自分は孤独な性分で、孤独を愛している。人々との交流を求めなくても、充分楽しく充実して生きていけるのだ、という誇り、或いは自分は人々の中ではうまくやっていけないのだ、と感じるときの一種の悲哀への、こだわりの気持…
  事実、今日来る予定になっている仲間というのは、彼ら同士では仲間であっても、K氏にとっては必ずしもそういったものではないのだ。どういう加減でかはよくわからないが、彼は、人々の間に自分を感じるということができないのである。自分を彼らの仲間であると感じることができないのだ。自分には彼らになじめない異質なものがあり、彼らはそれを自然に察知してしまう。そんなふうに彼のほうで一人ぎめに思い込んでしまう傾向があるのだ。人と話している状態は、彼には自然な状態ではない。会話するとき、彼はいつも腰が落ち着かず、早くそれを切り上げることを考えている。
  しかしながら、仲間たちのなかで自己の存在を示したいといった欲求は、孤独を求め、孤独の中に特別な価値を認める彼の感じ方に反して、しばしば彼の内部にわき起こって来た。日頃、人々から軽視されているような感じをもち、あるかなきかわからないような、影のような存在であることを感じているだけに、K氏は、このめったにない遊びの機会に過大な期待を寄せずにはいられないのだ。
  もうそろそろ彼らが来る時間だ。ほうら、訪ねてくる人の気配がする。K氏は、階段を駆けるように降りていく。玄関の戸を開ける…

  戸口に立っていたのは、見たことのない中年の男だった。いや、どこかで見たことがある。それも遠い過去のことではない。つい最近のはずだ。どこで見たのだったか、それが思い出せない。どうしても思い出せないのだが、たしかに見たような気がする。
  タスキのついたズボンをはいていて、すっきりしたシャレた印象の人物。顔立ちが際立って聡明、やや陰のある考え深そうな容貌。長い頭髪、とがった耳…美男子といってよかった。独特の強い印象を与える顔立ちなのだ。そう、それはたとえていうなら、ドラキュラ伯爵のような…なぜかK氏はそんな名前を思い浮かべた。それはなにもはっきりした意味があってのことではない。ドラキュラ伯爵に似ているかどうか、ドラキュラ伯爵がどんな顔だったか、K氏にははっきししていない。いや、ドラキュラ伯爵というのでもないぞ…誰だったかな…確かに見たことがあるような気がするのだが…
  男は配達夫なのであった。電報を届けるのと同じように、何かを届けにきたのだ。
「お父様から預かってまいりました…」
  男はそういって、何か長い棒のようなものを差し出した。受け取ると、紙製の箱である。高級な箸でも入っているのかと思われるくらいの大きさの豪華な箱だ。開けてみると、薄い紙に包まれて、驚いたことに、美しい金色のペンが出てきた。しっとりと濡れたようなすばらしいものだ。黄金のペン…
「父から?」
「さようでございます。お父様は、ついさきほどお亡くなりになりました。これはお父様のお形見で、貴い魂がこもっております…お父様の霊の力が…」
  K氏はペンを手に持って、深い感動の中に、不思議な力に満たされるのを感じた。何かしら神秘的な未知の力…
  実をいうと、彼の父親はもう十年も前に死んでいたのだ。死ぬときにはひどくやつれて、憐れなものだった。肝臓が傷んでものも食べられず、おまけに脳にも精神にも障害が出始めていた。しばしばわけのわからない、明らかに異常と思われるような言動を繰り返すようになっていた。
  K氏は、見知らぬ使者からペンを受け取ってから、玄関横の暗い部屋を通った。二階へあがる途中、そこを通り抜けなければならなかったのだ。するとその部屋の隅っこのところに、小さくひからびた父親が、古びた小さな布団にくるまって寝ていた。父親は今外から帰ってきたばかりのようだった。K氏には、父親がそこに寝ていることが、いつもの何でもないことのような気がしていた。彼が通りかかると、父親は布団の中から、聞きなれた弱々しい声で、息子の名を呼んだ。
「あ、Mかい?」
  そのとき、再び玄関のブザーが鳴った。出てみると、さきほどの配達人であった。タスキのついたシャレたズボンをはいている。このとき男は意外に若く見えた。まだ三十才にはなっていない。ひょっとしたら二十五才くらいかとも思われる。目がみずみずしいほどにきらりと光っている。男は、突然、K氏の手から先ほど渡したばかりのペンをもぎ取った。すばやい動作だった。ペンのふたをエイッと抜き放った。すると何とそれは切っ先の鋭い短剣ではないか…相手は、いきなりそれをK氏の方へ向け、刃物の先を鋭く突き出して、襲いかかってきた。それは、直接明白に命そのものを狙ってくる、恐るべき脅威に満ちたやり方だった…K氏は逃げまどい必死で身をかわす。かわしてもかわしても、相手は迫ってくる。彼の顔はもともと静かで無表情、妙に沈んだような顔なのだが、このときには恐ろしいものだった…目はひたすらに鋭くK氏の上に据えられて、恐るべき脅威をもって彼に迫ってくる…
  攻撃の手がちょっとゆるんだすきに、ようやくK氏は電話のある場所に近づくことができた。ダイヤルを回す…はやく…一一〇番…だめだ…うまく回せない…始めからやりなおす…一…一…〇…だめだ…また始めから…そのとき彼が再び鋭くつきかかってきた…彼は逃げる…逃げる拍子に机から花瓶が落ちる…カラカラ…すると不思議なことに、次々と連鎖反応式に落ちていく…コップや書物、書類が…それから本棚や壁の棚までが崩れるように…あっという間になにもかも…気がついてみると、それは夢であって、今はもう朝であった…彼はほっと胸をなでおろす…
  そのあと、K氏は、朝の街路を電車の駅に向かって急いでいた。出勤だ。街路はやけに広く、美しい樹木がずっとまばらに生えている広い公園の中を通り抜けていた。駅に急ぐ人たちの姿があちこちに見られた。K氏は、昨夜の訪問者のことを思っていた。まがまがしい悪魔…彼はいまもまだ不吉な脅威を感じていた。あいつはきっとどこかにいて彼をつけ狙っているだろう…果たして彼の顔がチラリと見られた…街角の最初の曲がり角で…その顔がはっきりと鮮明に見えた。独特の顔だ。暗い印象の顔。つりひものあるズボンをはいている。とても広い街路。K氏は、人影、物陰に隠れるようにしてそこをすり抜ける。彼はこちらを見ていなかったようだ。しかし、はっきりしたことはわからない…K氏は急ぎ足で歩いていく。先ほどの男の顔を思い出し、どこかで見た顔だ。たしかに最近…と感じる。思い出そうとするが、思い出せない。しばらく行って、次の曲がり角を曲がったところが電車乗り場だった。ちょうど電車が入ってきた。彼は乗ろうとする。ところがそのときあいつが乗っているかもしれないと感じた。きっと乗っているのではないか…ずいぶんとチャチな感じの電車で、三両仕立て。人がかなり乗っている。あの男と顔を合わさない車両に乗ろうと考えて迷う。真ん中の車両は随分空いていたようだ。K氏は一番前のドアから乗り込んだ。あいつの顔は見当たらないようだが…おそるおそる見まわした…するとそこにまさに〈彼〉が乗っていた…あの暗い陰のある男が…それは美しいといっていいほど鋭くとぎすまされた容貌で、まさに脅威に満ちて不吉な〈悪魔〉そのものではないか…


   Z君の身におこったこと
    
  Z君がF市にあるI社に勤め始めてまだ二年にもなりませんでした。
  ある夜、Z君はこよなく甘いビールを飲み始めました。ビールがちょっとまわってきたころ、Z君はふっと後ろに人の気配を感じたのです。見ると、一人の見知らぬ男がそこの椅子に坐っているのでした。男は何の前ぶれももなく、いつのまにかこっそりと影のように忍びこんでいたのです。黒っぽい服装をしており、冴えない地味な感じの顔立ちで、ひどく控え目に微笑みました。Z君は別に怪しみませんでした。ごく当たり前のことであるかのように、男を見たのです。Z君には、この男がどうしてだか以前からよく知っている人のような気がしていたのです。
  男は無表情な顔で、ただ考えこんだような控え目な様子で、そこに坐っているばかりでした。そのうちZ君は男の存在をすっかり忘れてしまいました…
  それからどのくらい時間がたったでしょうか。突然、男は何の前ぶれもなく両手を広げて、背後からいきなりZ君に襲いかかったのです…首をしめつけ息の根を止めようとしました…いや実をいうと、男はただそこに何もせずに坐っているだけなのです。Z君の目にはそれがはっきりと見えます。しかし、同時にたしかに男は現にZ君の首をしめつけているのです。男が二人に分裂したかのようでした。しかもその二人は全く別々の存在ではなく、まさに同一の存在なのでした。突然、何のきっかけもなく、Z君はもがき始めました。おぞましくむごたらしい苦しみ…生きることそのものを恐ろしいことに感じさせるような苦しみ…ふだん、Z君は生を愛しており、生きることがとても気に入っていました。しかし、そんな発作がやって来る夜には(その後この発作は何回となく繰り返されたのです)、正真正銘の恐怖を感じました。恐ろしい苦悶と不安にさいなまれながら、Z氏は身をよじってもがき、こんな状態でどうして朝まで耐えることができるのか、と思いました。
  彼は繰り返し心で叫びました。「ああ、こんな苦しみを耐えなければならないのならば、生きることは恐ろしいことだ…」
  たいていの場合、朝になると不思議に安らかになっていたのです。

  彼がある女性を見て突然心を動かし始めたのは、ちょうどその頃のことでした。
  ある特定の女性に強い不断の興味を寄せ、それまで興味をもっていたものすべてがそっちのけになってしまって、ただ彼女のことばかりを思うようになるといったことは、たえてないことでした。
  ところが彼女を見たとき、まさにそういうことが、Z君の身の上に起こったのです。
  Z君は以前その女性をちょっと見かけたことがありましたが、別に注意を払ったわけではありません。ちょっとした魅力はあるかもしれない。しかし、別に大したことはないし、どうせ彼には縁のないひとだ、とくらいに思ったのでした。
  ある日、彼女は歩いていくZ君を後ろから呼び止めました。彼女は用件をいいました。そのとき、彼女の顔を見て、Z君は強い印象を受けてしまったのです。そんなことになるとは、予想もしていませんでした…
  このとき、彼がまずしたことは、例によって当惑をおさえて、無関心を装うことでした。というのも若い女性と話すとき、彼はいつも多少当惑を感じるのが常だったからです。女性の前で感じるその当惑は恥ずかしいものだったので、それを見せまいとする内心の努力のため、Z君は彼女の顔をあえてまっすぐに見ました。彼女の顔を見て、「おや?」と思いました。そして思わず彼女を見つめ、それからすぐに目をそらしました。するともう、まともには彼女を見られなくなってしまいました。Z君は困惑し、冴えない伏目の顔を彼女の方に向けたまま、妙に彼女の顔を見ないで、応答することになってしまいました。彼の奇妙な当惑ぶりを見て、彼女は彼の心の中に起こったことを見抜いているのではないか、と感じながら…そして見抜かれることは彼にはなぜかとても嬉しかったのです…
  彼女のもとを離れて歩きながら、Z君は胸に深い感動の波紋が広がっていくのを感じました。彼は、何度も繰り返しぎゅっと唇を噛み締めている自分を見出しました。「ああ」と自分に言いました。「これはどうしたのか…いったい何事がおこったのか…」
  ふしぎな戦慄を伴う独特の喜び…心の奥で何かがふるえ、紛れもない悦びが湧き出るのをZ君は感じました。たとえば、モーツァルトのハ短調のピアノソナタを聞くとき目覚めるのと似た様な、深い複雑な種類の感銘、苦悶を含んだような強い歓喜がわき起こるのを感じたのです。それは驚きでした。予想外のことでした。
  彼女を見たとき感じた幸福感は、独特の優しい深い色調をもっていて、それはいままでに感じたこともないようなものだと思われました。ある音楽が人の心に独特の複雑な感動を引き起こすように、それとまったく同じように彼女の存在は彼の心に独特の性質の喜びを引き起こすのだ、喜びの強さとともにその〈質〉が貴重でまれなのだ、と彼は考えたものでした。
  それからは、彼はしばしば彼女の方に視線を向けるようになりました。ずっと彼女のことばかり思っている自分を見出しました。
  最初は知らなかったのですが、彼女は彼よりも年上ですでに結婚しており、子供もある身でした。そのことは彼には安心できることに思われました。もし彼女が独身であったならば、彼は現実的な余計なことを考慮しなければならなかったでしょうから。
  ひそかにこっそりと彼女を見るということが、彼の大きな関心事となりました。彼女を見ると彼は深い喜びを感じ、実に素晴らしい質の、この上なく優しい感情が心臓から全身にいきわたるのを感じました。それはそれだけで(その感情が本来目的としているはずのものが得られるかどうかなどに関係なく)、すばらしく価値のあるもののように思われたのです。ただ彼が恐れたのは、いつかはそれが自分から失われるだろう、彼女を見られなくなる日がいつか必ずくるだろうという思いでした。
  人は財物を貯えるようには、感情を貯えることはできません。感情は次々と新しい刺激がなくては消失してしまい、後にあいまいな記憶しか残しません。感情を貯えるためのどんな企ても成功しないのです。わずかに芸術的な創造がそれを可能にしますが、それも完全ではないでしょう。それは彼女が目の前に存在する今、彼が彼女を思うことのできる今しか存在しない価値なのです…後に何も残らないそんな価値のために、情熱を燃やすことは愚かなことなのでしょうか?  彼にはそうは思えないのでした。
  彼女のいる場所に行くことが、彼には大きな楽しみであると同時に強い不安のもとになりました。彼女が近くに来ると、彼はひどくぎこちなく無様な感じになって何もできない状態になりました。ことばも出なくなるのです。Z君が人と話しているときに、彼女がすぐそばに来たとします。突然彼の言葉つきが怪しくなり、言葉が唇の上で凍ってしまうのです。また、たとえば彼が書類を書いていたとします。彼女が近くに来ると、彼はそれまで書いていたことが何もかも頭から抜け出てしまい、もう何を書いているのかわからなくなります。混乱を隠すために、彼は適当にペンを走らせて、書いているふりを装うのですが、紙の上に表れる文字は意味もなくでたらめなのです。あるいは別のときには、ペンをもった手が震えだして、それまではきちんとていねいな文字で書いていたのに、途中から奇妙なひょろひょろとした文字になってしまいます。あるときなどは、書き終えてからふっと気づくと、彼女が彼のふるえる手をじっと見ていたようなのでした…
  彼はいつも彼女を見ることに奇妙な疚しさを感じていました。用があって彼女のいる近くへ行くのがいつもひどくとてもためらわれるのです。彼女を意識して、彼女を目当てに行くのだと、人から見抜かれるような不安、恐れを強く感じるからです。
  だから、Z君はいつも彼女に対しては完全な無関心を装っていました。彼女が近くに来ても彼女の方を見ることができないのでした。必要があって彼女と話さなければならなくなると、彼は著しい不安と動揺を感じて、心臓が激しくときめき、頭がぼーっとなったり、言葉が発音できないほど精神が麻痺してしまったりしました。
  誰にも見られていないと思われる極めて稀な瞬間には、こっそりと思いきって彼女の顔を見つめることができました。そういうときには彼は強いためらいを感じました。強いてそれを押しきって彼女の顔を見ると、濃厚な喜びが身体の中に呼びさまされ、いい知れぬ興奮が彼を包みました。きょうはもうこれで十分だ、これ以上の何があり得るだろうか、という気がしました。他ならぬ〈あのひと〉を〈そのような目〉で見ることには、奇妙なためらいと、悩ましい感情、見てはならないものを見、感じてはならないものを感じているという感情が伴うのでした。
「いったいこの感情はなんなのだろうか?」としばしば彼は考えました。「ひょっとしたら、これは禁じられたものをあえて感じようとしたときに、自分の中に呼びさまされる感情なのではないのだろうか?  だからいつも悩ましい気持、疚しい気持がともなうのでは?」
  ちょうど、最近、Z君は、女性作家アナイス・ニンの書いた驚くべきすばらしい日記を読んでいるところです。アナイスは書いています。《後年パリでスペイン舞踊の発表会を開いたとき、私は観客の中に父の顔が見えたような気がした。その顔は青ざめ、いかめしかった。私は踊りの真っ最中に凍りついて立ちつくし、一瞬、踊り続けられないと思った。…》
  アナイス・ニンは、他の女のために彼女と彼女の母親を見捨てた父親への愛と、彼女が受けた心の傷のことを語っているのです。
  これを読んだときZ君は、強い感銘を受けたのでした。彼は考えました。自分の感情は通常の男女の間に生じるものとはいささか趣がちがっている。ひょっとしたら彼女を見るときの自分の思いは、今は亡き母への彼の幼い感情の名残ではないだろうか?(彼の母は若くして再婚したのでした。)母への愛は禁じられたものだったにちがいない。彼は疚しい気持なしでは母を見ることができなくなり、母を見ることは禁じられた喜びを味わうことであっただろう。それだけにその喜びと不安は強いものになっただろう。そして後年女性に思いを寄せるとき、彼は幼いときの母への思いをそっくりそのままの形で繰り返しているのではないか。この感情がこのように高められ、複雑になり、独特の素晴らしい色調を帯びるのは、そのせいではないだろうか。そんなふうに彼は想像しました。
  きびしい番人に監視されている犬のように、彼はいつも疚しい思いを心にもっていて、いったいそれが自分に何をさせ始めるのかと、不安に感じているのでした。何かとんでもない恥ずかしいこと、愚かなこと、非難に値するようなことをしてしまうような不安…
  こんなふうに進行していく彼女への思いは(それはかつて経験していた母親への思いでもあるかもしれない)、もともとあってはならないもの、ありうべからざるものというニュアンスをもった感情だったのです。彼はいつも心を引かれる女性に対してはそのような感じ方をしたものでした。しかし、他方では、彼はそんな高価なえがたいものを手放そうという気にはなりませんでした。反対に彼はひそかに考えました。それを自分自身の内部にとどめておくかぎりは、何も悪いことはないではないかと。勿論そう考えたとしても、疚しい感じはつきまとうのでした。「いったい自分は何をしているのか。彼女が知ったらどう思うだろうか。すべてはおしまいではないか…」と彼はしばしば思いました。彼女の顔をこっそりと異常な思いをこめて見ている現場を誰かに見られるのではないか、彼女を見て彼が感じるもの、彼が思うことがすべて知れわたっているのではないか、という思いが彼を不安な気持にさせました。
  彼の思いは次第に邪悪の色合いを深めていきました。一人で味わう邪悪な楽しみ…誰にも知られてはならない悪事…そしてそれに思いきり耽ること…その感覚がまた非常な魅力なのでした。決して誰にも知られてはならないもの、知られるなどということは、とんでもない恥ずかしい恐ろしいことである、そういうもの、彼一人の中だけでようやく生きることのできる性質のもの…そういうものに彼は心をまかせきりにしていたのです…
  さらに、気狂いじみていることに、しばしば彼は自分の心を彼女に知ってもらいたいという欲望を感じるようになってきたのです。彼女もまた彼を思っているという思い(ほとんど確信にまで達するほどの思い)が彼にしばしばやってきて、彼はその考えをふり払うことができなくなりました。勿論奇妙で愚かな妄想です!  彼女を見るとき感じる喜びがあまりにも強いために、彼はそのような妄想を抱いてしまうのす。しかも、やっかいなことに、その妄想は、繰り返し彼の中に現れてきて、彼を次第に大胆な気持にさせていくのでした。不思議なことに、彼女から離れて冷静に考える余裕ができると、それが何の根拠もないものであることがはっきりしてきます。強いて根拠といえば、彼女を見て彼が感じる強い喜びがあるだけです。何と結構な根拠!
  彼は思ったものです。「彼女のあのときの目は何を意味したのだろうか?」彼のつまらない問いに対して、彼女は、そのはかりかねない意味を理解しようとするかのように、一瞬彼の顔をじっと見たのでした。そのとき彼は深い稀有な体験をしたかのように感じました。周りのすべてが消え失せて、別次元に入ったかのように…一つの宇宙がそこに開け、言葉にはならない非常に多くのことが起こって、全てが濃厚な歓喜でいろどられている、そんな状態…それはほんの一瞬のできごとだったのですが…
  彼は心臓を彼女の目に射られたのでした。そして彼女もまた彼を思っているという強い印象にとらえられました。あとになってから彼は思ったものです。「いったいあれは何だったのだろうか。すべて単なる幻想だったのだろうか」と。そのとおり。彼女としてはただ何気なく、誰に向かってもそうであるような、ふつうのしかたで彼を見たにすぎません。Z君の狂気が愚かな幻想を生み出していたのです…
  たしかにこんなすばらしい喜びも、相手から思われているということなしには、虚しいものとならざるをえなかったでしょう!
  やがて、恐れていたように、終極が訪れました。それは突然やって来て、あっけない幕切れとなりました。
  ある日から彼女がぷっつりと姿を見せなくなったのです。理由はわかりません。彼はだれにも聞く勇気がありませんでした。そして彼女のことはそれきりになってしまいました。ほんの数カ月の出来事でした。まさに春の嵐のように過ぎ去ってしまったのでした…

  例の奇妙な男の夜の訪問は、彼女が彼の目の前にあった間はとだえていました。彼女の姿が見えなくなってからしばらく経ったある夜、ひょっこりとまたあの男が、何の前ぶれももなく、彼のもとに現れました。いつのまにかこっそりと影のように彼の部屋に忍びこんできて、静かに椅子に坐っていたのです。黒っぽい服装、冴えない地味な感じの顔立ち、男はひどく控え目に微笑みました。Z君はごく当たり前のことであるかのように、男を見ました。そしてZ君が彼の存在をすっかり忘れて本読みに熱中しているとき、男は、突然襲いかかって、Z君の首をしめつけました。男は椅子に坐ったまま、しかし同時に一方では立って手を広げ、後ろからZ氏の首を締めつけたのでした。断末魔のもがき…ああ、助けて…
  それからはしばしば男は訪れ、Z君は恐ろしい苦悶におちいりました。しばらく遠ざかったかと思うと、また忘れたころに男はやってきて、Z君を絶望におとしいれました。Z君は強い不安に襲われ、苦悶にもがきながら、呼吸がとだえそうになって、ばったりと床に倒れるのでした。そんなふうな発作がまだこれからも何千回、何万回となく繰り返されるでしょう。それは彼の宿命のようなものかもしれません。
 「ああ!」とZ君は声にならない絶望の声で叫びます。「こんな苦しみがあるのなら、生きることはなんて恐ろしいことだろう…生きることはなんて恐ろしいことだろう…」
 


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  • 2015.07.11 Saturday
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