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妻が彼に愛想をつかして家を出ていく

(創作の材料、或いは原料) 

 そのころZ氏は、まだ四十才になっていませんでしたが、ここでは語らないある事情のため、妻との関係が悪化して、妻が彼に愛想をつかして家を出ていくという形で一時的に妻や子どもと別居していました。

 彼自身は、妻や子供を愛していましたし、別居するほどの理由を何も見出さなかったのですが、妻が彼に大きな不満を感じていたということは、一つの紛れもない〈事実〉として認めなければなりませんでした。
 別居生活は、惨めさの感覚とともに、正直のところZ氏に気楽さの感覚を与えました。炊事、洗濯のことは、彼には大して苦にはなりませんでした。
  Z氏は、毎晩真夜中になると、ビールを飲むようになりました。
 アルコールには、もともと強くない彼のことで、少しのビールが彼を酔いの世界へ誘い込むのでした。
 Z氏は酔っぱらっては真夜中にひとり妻のことを思い、自分の愚かさのことを笑い、ときとしてヒヒヒ・・・と奇妙な声を上げたり、ポロポロと涙を流したりしていましたが、実はそのことに彼にはこのうえない慰めと喜びを感じていたのです。彼は、自分がおちいったどんな境遇にも興味深いものを見出し、妻に捨てられるような経験をさえ楽しんでしまう奇妙な能力をもっていました。彼は極めてお人よしだったものですから、妻への怒りや恨みといったものは、不思議と感じないのでした。というのも、別居生活は一時的なもので、妻は帰ってくるにちがいないという思いがあったからです。ただ、万一妻が他に男をつくったりして再婚するなどといいだしたら・・・と想像すると、彼は恐ろしい苦しみを感じて、気狂いのようになりました。もしそういわれたら、彼は妻のいうとおりに離婚届けに印を押すにちがいない。しかし・・・と、そんなことを思うのでした。そう思いだすと、今もうすでに妻は誰かいい男と仲良くなりつつあるのではないかという気がしてきて、彼はもう恐ろしい苦悶にとらえられ、今からでもすぐに妻のところへ行って、家に戻ってもとのように暮らすよう頼みに行こうと思うのでした。妻が他の男と再婚する夢を見ました。彼はさりげなく寛大に妻をその男に譲りました。ところがあとで妻に出会い、彼は恐ろしい後悔にとらえられたのです・・・彼女はもう彼の妻ではない・・・もう人のものになってしまった・・・もう取り返しがつかない・・・そんな恐ろしい憂悶のうちに彼は夢から覚めたのでした・・・
 
  再婚などということには、彼はまるで興味を感じませんでした。結婚生活は彼に多大の不自由と犠牲を強いるものですから、他の女性といっしょに暮らすなどとは、考えるだけでも、気のすすまないことのような気がしました。
 そんなある夜のことでした。(彼はたいてい二時か三時ころまで起きていました。)Z氏は一仕事終えて、さてこよなく甘いビールを飲み始めました。ビールがちょっとまわってきたころ、Z氏はふっと後ろに人の気配を感じたのです。見ると、一人の見知らぬ男がそこに立っているではありませんか。男は何の前ぶれももなく、いつのまにかこっそりと影のように忍びこんでいたのでした。いや、本当に影、正真正銘の単なる影だったのかもしれません。ただ、その時のZ氏には間違いなくそれが実在の存在であるとしか感じられませんでした。男は、黒っぽい服装をしており、冴えない地味な感じの顔立ちで、ひどく控え目に微笑みました。しかし、Z氏は不吉な予感に襲われたのです。Z氏には、どうしてだかこの男を以前からよく知っているような気がしていました。
 Z氏は男の顔を見つめました。男はただ考えこんだような控え目な無表情の顔で、そこにじっと立っているのです。
 

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