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森鴎外「百物語」 〜〜生まれながらの傍観者ということ〜〜
- 2010.11.03 Wednesday
- 読んだ本のこと
- 00:38
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- by jouhouko
すぐに書こうと思っていたのだが…
森鴎外の『妄想外三篇』(岩波文庫)にやはり「百物語」というのがある。
語り手が人に誘われて、「百物語」の催しに出かけるという話である。
《百物語とは多勢の人が集まって、蝋燭 を百本立てて置いて、一人が一つずつ化物 の話をして、一本ずつ蝋燭を消して行くのだそうだ。そうすると百本目の蝋燭が消された時、真の化物が出ると云うことである。》
百物語で出かける途中のことから、出逢った人たちのことなどが語られていくが、会場である人物に出逢って、そちらに深く興味をひかれて、百物語はどうでもよくなる。
語り手(僕)は〈飾磨屋という男〉に興味を引かれる。
「百物語」の催しを主宰した〈飾磨屋という男〉のことを述べる部分。
《飾磨屋は一体どう云う男だろう。錯雑した家族的関係やなんかが、新聞に出たこともあり、友達の噂話(うわさばなし)で耳に入ったこともあったが、僕はそんな事に興味を感じないので、格別心に留めずにしまった。しかしこの人が何かの原因から煩悶(はんもん)した人、若くは今もしている人だと云うことは疑がないらしい。大抵の人は煩悶して焼けになって、豪遊をするとなると、きっと強烈な官能的受用を求めて、それに依って意識をぼかしていようとするものである。そう云う人は躁狂に近い態度にならなくてはならない。飾磨屋はどうもそれとは違うようだ。一体あの沈鬱なような態度は何に根ざしているだろう。あの目の血走っているのも、事によったら酒と色とに夜を更(ふ)かした為めではなくて、深い物思に夜を穏(おだやか)に眠ることの出来なかった為めではあるまいか。……僕は考えれば考えるほど、飾磨屋という男が面白い研究の対象になるように感じた。
僕はこう云う風に、飾磨屋と云う男の事を考えると同時に、どうもこの男に附いている女の事を考えずにはいられなかった。》
「この人が何かの原因から煩悶(はんもん)した人、若くは今もしている人だと云うことは疑がないらしい¥」
つまり語り手(あるいは鴎外)は、飾磨屋というこの人物に自分を同化して見ているいるのだ。
それは「自分は生まれながらの傍観者である」という点にある。
《僕は生れながらの傍観者と云うことに就いて、深く、深く考えてみた。僕には不治の病はない。僕は生まれながらの傍観者である。子供に交って遊んだ初から大人になって社交上尊卑種々の集会に出て行くようになった後まで、どんなに感興の湧(わ)き立った時も、僕はその渦巻(うずまき)に身を投じて、心(しん)から楽んだことがない。僕は人生の活劇の舞台にいたことはあっても、役らしい役をしたことがない。高がスタチストなのである。さて舞台に上らない時は、魚(うお)が水に住むように、傍観者が傍観者の境(さかい)に安んじているのだから、僕はその時尤もその所を得ているのである。そう云う心持になっていて、今飾磨屋と云う男を見ているうちに、僕はなんだか他郷で故人に逢うような心持がして来た。傍観者が傍観者を認めたような心持がしてきた。》
《生まれながらの傍観者である》という自己認識は、語り手の「僕」(鴎外)にとって、いわば「不治の病」のようなものであって、たぶん生涯にわたってずっと煩悶し続けてきたのである。
《僕はその渦巻(うずまき)に身を投じて、心(しん)から楽んだことがない。僕は人生の活劇の舞台にいたことはあっても、役らしい役をしたことがない。高がスタチストなのである。》
《僕は飾磨屋の前生涯を知らない。あの男が少壮にして鉅万(きょまん)の富を譲り受けた時、どう云う志望を懐(いだ)いていたか、どう云う活動を試みたか、それは僕に語る人がなかった。しかし彼が芸人附合(つきあい)を盛んにし出して、今紀文と云われるようになってから、もう余程の年月(としつき)が立っている。察するに飾磨屋は僕のような、生れながらの傍観者ではなかっただろう。それが今は慥かに傍観者になっている。しかしどうしてなったのだろうか。……飾磨屋は、どうかした場合に、どうかした無形の創痍(そうい)を受けてそれが癒(い)えずにいる為めに、傍観者になったのではあるまいか。》
飾磨屋という人物に興味を感じ、自分と同じなのではないかと想像している。
そこには、語り手の〈僕〉がなめてきた傍観者であることにに伴う人生の傷、苦しみ、悩みのごときものがかいま見られる。もちろんそのような傷、苦しみは、文学をするモノという別の視線から見れば、このうえない魅力(財産)でもあり得るのだ。
この作品のツボはそこにある。
この視点の上にもう一つ、この作品で、飾磨屋が長年連れ添っている、〈太郎〉という女のことが書かれている。この部分も印象に残って興味深いのだが、それはここでは省略する。
森鴎外の『妄想外三篇』(岩波文庫)にやはり「百物語」というのがある。
語り手が人に誘われて、「百物語」の催しに出かけるという話である。
《百物語とは多勢の人が集まって、
百物語で出かける途中のことから、出逢った人たちのことなどが語られていくが、会場である人物に出逢って、そちらに深く興味をひかれて、百物語はどうでもよくなる。
語り手(僕)は〈飾磨屋という男〉に興味を引かれる。
「百物語」の催しを主宰した〈飾磨屋という男〉のことを述べる部分。
《飾磨屋は一体どう云う男だろう。錯雑した家族的関係やなんかが、新聞に出たこともあり、友達の噂話(うわさばなし)で耳に入ったこともあったが、僕はそんな事に興味を感じないので、格別心に留めずにしまった。しかしこの人が何かの原因から煩悶(はんもん)した人、若くは今もしている人だと云うことは疑がないらしい。大抵の人は煩悶して焼けになって、豪遊をするとなると、きっと強烈な官能的受用を求めて、それに依って意識をぼかしていようとするものである。そう云う人は躁狂に近い態度にならなくてはならない。飾磨屋はどうもそれとは違うようだ。一体あの沈鬱なような態度は何に根ざしているだろう。あの目の血走っているのも、事によったら酒と色とに夜を更(ふ)かした為めではなくて、深い物思に夜を穏(おだやか)に眠ることの出来なかった為めではあるまいか。……僕は考えれば考えるほど、飾磨屋という男が面白い研究の対象になるように感じた。
僕はこう云う風に、飾磨屋と云う男の事を考えると同時に、どうもこの男に附いている女の事を考えずにはいられなかった。》
「この人が何かの原因から煩悶(はんもん)した人、若くは今もしている人だと云うことは疑がないらしい¥」
つまり語り手(あるいは鴎外)は、飾磨屋というこの人物に自分を同化して見ているいるのだ。
それは「自分は生まれながらの傍観者である」という点にある。
《僕は生れながらの傍観者と云うことに就いて、深く、深く考えてみた。僕には不治の病はない。僕は生まれながらの傍観者である。子供に交って遊んだ初から大人になって社交上尊卑種々の集会に出て行くようになった後まで、どんなに感興の湧(わ)き立った時も、僕はその渦巻(うずまき)に身を投じて、心(しん)から楽んだことがない。僕は人生の活劇の舞台にいたことはあっても、役らしい役をしたことがない。高がスタチストなのである。さて舞台に上らない時は、魚(うお)が水に住むように、傍観者が傍観者の境(さかい)に安んじているのだから、僕はその時尤もその所を得ているのである。そう云う心持になっていて、今飾磨屋と云う男を見ているうちに、僕はなんだか他郷で故人に逢うような心持がして来た。傍観者が傍観者を認めたような心持がしてきた。》
《生まれながらの傍観者である》という自己認識は、語り手の「僕」(鴎外)にとって、いわば「不治の病」のようなものであって、たぶん生涯にわたってずっと煩悶し続けてきたのである。
《僕はその渦巻(うずまき)に身を投じて、心(しん)から楽んだことがない。僕は人生の活劇の舞台にいたことはあっても、役らしい役をしたことがない。高がスタチストなのである。》
《僕は飾磨屋の前生涯を知らない。あの男が少壮にして鉅万(きょまん)の富を譲り受けた時、どう云う志望を懐(いだ)いていたか、どう云う活動を試みたか、それは僕に語る人がなかった。しかし彼が芸人附合(つきあい)を盛んにし出して、今紀文と云われるようになってから、もう余程の年月(としつき)が立っている。察するに飾磨屋は僕のような、生れながらの傍観者ではなかっただろう。それが今は慥かに傍観者になっている。しかしどうしてなったのだろうか。……飾磨屋は、どうかした場合に、どうかした無形の創痍(そうい)を受けてそれが癒(い)えずにいる為めに、傍観者になったのではあるまいか。》
飾磨屋という人物に興味を感じ、自分と同じなのではないかと想像している。
そこには、語り手の〈僕〉がなめてきた傍観者であることにに伴う人生の傷、苦しみ、悩みのごときものがかいま見られる。もちろんそのような傷、苦しみは、文学をするモノという別の視線から見れば、このうえない魅力(財産)でもあり得るのだ。
この作品のツボはそこにある。
この視点の上にもう一つ、この作品で、飾磨屋が長年連れ添っている、〈太郎〉という女のことが書かれている。この部分も印象に残って興味深いのだが、それはここでは省略する。
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