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  • 2015.07.11 Saturday
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思われているという幻想

前中、事務所でずっとワープロに向かっていた。
 さらに午後出張に出て帰ってからもずっとワープロに向かっていた。
 しばらくすると嬉しいことに彼女が帰っていた!
 
 それを知ったのはいつだったか。
 彼は彼女の方をあえて見ようとしなかった。自分のことの中に閉じ籠もっていた。

 一度彼女が近くへきたとき、S氏が彼女に「Mさん、午後帰ってきたの。帰らなくてもいいのに… 総務課長が帰れといったのか… 」といっているのが聞こえた。S氏が彼女に好意を感じているらしいことは察せられる。

  どうやら彼女は神戸へ出張にいっていたらしい。通常神戸へ出張したときには、事務所に帰らなくてもいい、という慣例があった。

 彼女はS氏に何か答えていたが、その声はやや低いおさえめの声で、彼女独特の優しい調子である。その声を聞くだけで、その語調を聞くだけで、彼は彼女の優れた品性、魅力を感じてしまうのだ。そのときの彼女の声の調子がおさえぎみで、感じがよかったこと、やや当惑しているように彼には感じられたこと(いつものことだ。彼には彼女の語調が彼を意識して、心持ち当惑しているように感じられてしまうのだ)が彼に喜びを与えた。

 彼の感じたのは、「彼女が出張から帰っていままさに彼を傍に見て喜びを感じている…」ということだった。
 彼女の存在を見、彼女の声を聞くとき、深い喜びや震えとともに、彼がほとんど反射的に感じるのは、「彼女に愛されている」という気持である。
 ああ、実に奇妙なのはこの点である!
 彼の理性は現実的な判断力を失ってしまったのだろうか? 気をつけてみるなら、他の女性の行為も、見ようによっては、彼を意識しているかのように感じられるものである。しかし、そんなことはありえないということは明らかだ。普通の何でもない態度、語調が、見ようによって意味ありげに感じられるということにすぎない。彼女の素振り、当惑、語調も、そう考えて見れば、何ら特別のものではないことがわかるはずだ。ただ、彼女をひどく意識する彼の想像力(感受性)がそれを意味あるもののように感じとってしまうのだ。
  考えても見よ。S氏と彼女との短い会話は、ただのありふれた会話にすぎない。そのとき彼は彼女の方をまったく見向かなかいで、ワープロに向かっていたが、彼が耳にしたのは彼女の短い言葉、語調だけである。彼女が彼を思っていると感じた根拠と言えば、彼女の語調だけであり、他には何もない。いったいこれは何という乱暴な推論であろうか!  彼女がもし彼の推論を知ったなら、さぞ驚きあきれ、困惑するにちがいない!

  彼は一瞬強い幸福を感じたが、やがて以上のような反省を行い、彼女に思われているなどというありえない甘い幻想を繰り返し自分に対して打ち消した。彼は多忙のせいもあって彼女の近くへ一度も行かなかったし、行くのがひどく億劫な感じもしていた。行けば、われながら醜い気遣いをしなければならない。彼女から離れているほうがずっといいではないか。ただ、時々通りかかる彼女の感じをそっと目の片隅の方で感じとる。彼女の声を遠くから注意して聞いている。それだけいい…そんな気持だった。何も望んではならないし、勿論望むべくもない…愛されるなんて…そう思いながらも、この世に二つとはない彼女の姿がちらっと見えると、こりもせずにやはり同じ思いに支配されてしまうのだ。

  彼はしかしずっと彼女から離れていた。どうとでもなれ。彼はずっと黙っていたが、たまに人と話すときには実に生き生きして、自然で、軽やかな、感じのいいもののいいかたになった。自然にあふれるように、愛想のよさがわいてくるのだ。教育事務所のT氏が来て、ある用件について彼にたずねたときもそうだった。また、近くにK女史が来ていたときにも、彼は彼女にちょっと聞きたいことがあったので、声をかけた。そのあとKさんが彼の近くのワープロ用紙をとりにきたとき、彼はちょっとくだけた調子で、「リボンのテープは高いのでしょう?」といってやった。Kさんは経理担当らしく、経費節約のことを話しはじめた。そうしたやりとりを通じて、彼は自分が自然と軽快で陽気になるのを感じていた。それ以外は一日中彼はほとんど無口で黙ってばかりいたのだが。そしてやはりどうしても彼は、《彼女に思われている》という非条理な確信(というよりは気分)に取りつかれていきがちであった。それはそれでいいだろう。ただ、図に乗らないことだ。あくまでも自分を自分の中にとどめておくことだ。自分一人で(彼女なしで)秘かに甘美な夢想を享受するということだ…たとえばモーツァルトやショパンのピアノ曲を聞いて…ああそれだけで満足できるものならば…

 また、彼の前任者のK氏が彼がワープロを打っているところに来て何か話したそうな感じがした。彼も何かいいたくなったのでちょっと話し込んだ。ケースについていろいろ思い出せる限りのものをあげて彼に質問した。彼は実にいい感じで話すことが出来た。「ああしんどいわ。一日中ワープロに向かっているとしんどいな。字が下手だからワープロで打つしかないし…」
 K氏は「よういうわ…」といった。K氏がこんなにいい人だとは、四月まで思ってもいなかった。彼は、K氏を地味で無口で、さえない人だとくらいにしか思っていなかった。

 

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