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  • 2015.07.11 Saturday
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よく思い出せない夢

 よく思い出せない夢 

    1
 ときどき夢を見るが、目が覚めると思い出せないことが多い。最近はあきらめて、思い出そうという気も起きないままに過ぎてしまう。

 夢はそうしたもので、追跡してみたところでどうせ思い出せない、思い出してみてもそれは後からの作りごとにすぎないものになってしまう、というような、諦めのような思いがある。
 かくいうぼくは、昔から夢には興味を抱きつづけ、これまでに自分の見た夢をいくつもノートに記してきたものだった。

 その朝見たのは死ぬ夢だった。

「ご臨終です」と枕元で医師が言うのをぼくは聞いた。「お気の毒ですが」

 もちろん、医師はぼくに向けてではなく、かたわらにいた家族に向けて言ったのだ。
 どうやらぼくは病院かどこかのベッドに瀕死の状態で横たわっていたようだ。
 状況から推察すると、おそらく点滴を受けていて、いよいよ絶命という状態にいたったのだろう。まわりには家族たちがいたはずだ。といっても夢の中のことで、苦痛や切迫感はまったくなかった。安らかといってもいいような気分だった。
 もっともこうした記述は大部分目が覚めた後からのつけ足しという要素がつよい気がする。
 自分が病院のベッドに横たわっていたのか、自宅で布団に寝ていたのか、周りに誰がいたのか、というようなことは、実のところよくわからない。
 何しろ精神は形もなくはっきりしないものを言葉で語ろうとするとき、実際にはなかったかもしれない(なかったといってもいい)細部をつくりだして、記憶につけ加えてしまうのだ。ものを語るにはそれなりにツジツマを合わせたり、欠けている部分を補完したりすることが不可欠なのだから。
 今見たばかりの夢をぼくは心で再現する。記録しようと考えて何度も繰り返す。するとそのうちに、夢の細部――医師の言葉、瀕死のベッド、点滴、周囲の家族たちなど――は、実際に夢の中にあったものなのか、後からつけ加えられたものなのか、次第にはっきりしないものになっていく。
 夢の中でぼくが経験したことは、極めて単純だった。
 ぼくは医師の言葉を聞いた。
 その文言が正確にどうだったのか、「ご臨終」だったのか、「いよいよ終わり」だったのか、はっきりしない。が、「もうダメ」という意味だとぼくが思ったことは確かだ。「ご臨終」の場合は、ぼくがあれこれと思案を巡らせる余地もないはずなんだけれども。
 言葉を言ったのが医師であること、「いよいよダメ」(又は「ご臨終」)なのはほかでもないぼくで、その言葉がぼくにではなく家族に向けられたものだということは、夢のなかでは明らかだった。
 こうした考察は、もちろん、、夢を思い出して語るときにつけ加えられたことで、夢の中には存在しなかったものだ。
 いずれにしても、奇妙なことだが、そんな切迫した状況のなかで、ぼくの脳裏に一瞬伯父の記憶が浮かんだのだった。
「やっぱり伯父はあのとき意識があったのかもしれない」
 伯父は数年前市民病院のベッドに横たわって、点滴を受けていた。周囲からの呼びかけにまったく応えることなく、静物のように眠り続けていた。ときおり生命のあらあらしい息吹がもどってくるのか、呼吸が激しくなって、胸が波打つときがあった。そんなときにも伯父は周囲からの働きかけには何の応答も示さないままひたすら眠り続けた。何週間かそんな状態を続けた後、伯父は静かに息を引き取った。
 伯父は、彼の妹であるぼくの母が亡くなったあと、終始ぼくの身の上を案じてくれたものだった。ぼくは伯父に対して十分に感謝も敬意も払ってきたとはいえない自分を反省していた。
 伯父が亡くなる数日前、限りなく深く長い眠りに落ち込んでいるらしい伯父の枕元で、ぼくは伯母とことばを交わした。
「ずっと意識もないし、回復の見込みもない」と伯母。「このまま時間が経過するのを待つしかないわね」
「このまま意識がもどることがないのだとしたら」とぼくはあいまいな口調で言った。「いたずらに長引かせてもねえ」
 そんなふうにぼくは考えもなくなにげなく伯母に応え、すぐにはっと気づいた。まるでそこに伯父がいないかのように話しているではないか。病人が眠りから生還することはありえないと決めてかかっているような言い方ではないか。たしかに伯父は後戻りのできない深い眠りの世界に落ち込んでいるようだけれども、ほんとうは案外意識があるのかもしれない。外に向かって言葉をしゃべれない、外からの問いかけに答えることもできない、けれども周囲で何が起こっているか、人々が何をしゃべっているかということは、伯父には案外わかっているのかもしれない。
 今死の床に横たわるぼくの耳に医師の言葉がはっきりと聞こえたのと同じように、あのとき伯父にも、思慮を欠いたぼくの言葉が聞こえたのではなかっただろうか。
 もう一つ、この夢を見た日の数日前、ぼくは夏目漱石の『思い出すことなど』を読んだ。漱石は胃潰瘍で多量の血液をカナダライに吐き「三〇分の間死んでいた」状態から少し回復しつつあったとき、病院のベッドの枕元で医師たちが無遠慮に彼の生死について交わす言葉を聞いた。もう駄目だろう、子供に会わしたらどうだろうか… 枕元で交わされる言葉を耳にして、漱石はしだいに苦痛になりしまいには多少腹が立ってきた。「先がそういう料簡ならこっちにも考えがある。…」
 これを読んだとき、ぼくは改めて伯父のことを思いだしたのだった。
 それはともあれ、夢の中の病床で医師に死を宣告されて、ぼくは一瞬動揺した、という気がする。
「ええ? もうお終い? 急にそんなことを言われても…」
 生涯のうちにぜひともやっておきたいと思っていたことも、今となっては放棄するほかない。あとひと息すれば実を結んでいたかもしれない自分の中の貴重なものも、結局埋もれて消えてしまうのだ。いやいや、もちろんもとよりそれは幻想で、貴重なものなど自分の中には何もなかったのだ。
 書きさしの不完全なままの原稿や、ぜひ書いておきたい、まとめておきたい、と思っていたことがいろいろある。けれども現に残っているのは、いずれも目を覆いたくなるような不完全な書き散らし、本当に書きたいと思う肝心のこととは無関係なガラクタばかりで、後に残った人がそれを読むことがあっても、意味も価値もわからない代物ばかりだ。
 以上のような考えが瞬時にぼくの脳裏を流れて去ったような気がする。
 ただ、そこでぼくは、ひるがえってそれが事実であることをあっさり受け入れてしまったようだった。今さらどうすることができるだろうか。事実上こういう事態になってしまったからには、ほかに選択肢はない。どちらにしても、これはこうなるしかないのだし、こうなったとしても本質的にたいしたことではないのだ。…
「〈ご臨終〉です」と医師が不時の来客の名前を告げ、現にその厳かな来客がぼくの目の前に立ってしまったからには、いま自分にできることは、大きくひろげられた彼の両腕の中に飛びこんでいくことだけだ。
 いずれにしろこうした想いは一瞬のうちに心に生じて一瞬のうちに過ぎ去った。そしてぼくはとっさに思ったのだった。
 ちょうどいい、こうなったらなったで、これは絶好の機会ではないか。
 こうなった以上は一つ死んだ直後の自分をじっくり観察してやろう。死ぬ瞬間に人間の意識は消えてしまうのだろうか。それともどうなるのだろうか。結果によっては、これは人間なるものについての大発見になるかもしれない。
 はたして意識は消えるのだろうか?
 それとも残るのだろうか?
 ぼくは冷静に自分を観察しようとする自分を見出した。結果は驚くべきだった。
「おい、まさか? これはほんとうなのか?」ぼくは自分の目を疑った。「どうやら意識は消えないようだぞ。身体が死んでも魂は生き延びる… これは画期的な発見ではないか… ぜひとも世に伝えていく価値がある…」

 そんなところで目が覚めた。


    
 どうもこのところ気分がすぐれないことが多い。どうやら胃から来るものらしい。
 先の検診で精密検査を受けなければならないはめになった。胃部X線検査の結果「胃潰瘍または胃がん(疑)」と判定されたのだ。
 ずっと以前、もっと若かったころに、職場の定期検診で胃が引っかかったことがあった。多少は深刻な思いで精密検査を受けた結果は「異常なし」だった。何もなくてもレントゲン写真に疑わしい陰影が写ることはままあることなのだ。たぶん、今回もそんなところだろうとタカをくくっているが、万一ということもある。一応念のため検査を受けるほかないだろう。
 前のときには、L総合病院でX線の直接撮影を受けた。時代が進んで今回は、「要精密検査(内視鏡)」とある。内視鏡だって? 直接撮影ではダメなのか。できたらそっちで願いたいものだ。胃カメラによる検査は、ひと昔前に二度ほど受けたことがあるが、ステッキのような棒を喉から呑まされるのは閉口だった。あんなものがよく人間の口から入るものだと思った。麻酔をするので痛みはなかったが、棒を飲み込んだ状態でゲップを抑えるのは大変だった。最近は機器も技術も格段に進み、カメラは小さくファイバーは細くなっていて、鼻から差し込むのだという。〈鼻から〉と聞いて、ぼくは心配になった。ひどくやっかいなことだという気がした。
 結果はどうせ「異常なし」ということになるのだ、面倒なことは早く片づけよう、と思いながら、行くのがおっくうでつい延び延びになり、二か月経ち、三か月経ち、幾らなんでも今月中にはと思っているうちに、飛び入りの用件が入ったり、大儀だったりして、また月が変わった。
 月が変わってようやく八日目に重い腰を上げてK病院を受診した。K病院はこれまでも何度か受診したことがあって、そう待たずに済ませられるかと目星をつけていたのだ。食事をしないで出かけてきたのに、でっぷり太っていてとても穏やかな物言いをする医師に「予約が必要」といわれた。一週間後の今日がその予約日だった。
 たしかにやっかいなことにはちがいない。しかし、以前もそうだったように、どうせ大したことはないだろう。レントゲン写真に何かの陰影が紛れ込んで写っただけのこと、そのことが確かめられさえすればいいのだ。何しろずっと食生活は野菜中心だし、なかでも免疫力を高めるといわれる食材を摂取するように努めている、現にこれというほどの特別な自覚症状は何もないではないか、というのがぼくの公式の見解だった。
 ただ、そう思うときにはいつも同時に他方で、非公式にではあるが、もう一つ別の考えが意識をかすめて行くのだ。ひょっとして「結果が結果」だったらやっかいなことになるぞ。万一手術が必要などと宣告されたら、呑気に暮らしてもいられなくなる。食生活に十分配慮しているって? 何を言ってるんだ。よく考えてみると、食べるものがけっこう片寄っている。過食をやめようとずっと思いながら、相変わらず節度なく食べている。ああ今日も食べ過ぎた、気分がよくない、これは何とかしなければ、と思うのだ。そう思いながら、無節制に好きなだけ食べているのだ。そのうえ夜中になると、毎日やめようと思っている酒を飲みはじめる。量はしれているのだが、身体によくないと思っている。自覚症状がないだって? とんでもない。実際には自覚症状を日々感じているのだ。気分の悪さとか、胃のもたれや膨満感、違和感、苦しさ、痛み、それにときどき訪れる吐き気…
 どうもやっかいなことだ。しかし、行くしかあるまい。
 麻酔をするので車を運転して来ないようにと医師から言われていた。朝八時に車で家を出て、途中のコンビニの駐車場に車を止め、そこから歩いて病院までいった。思っていたよりも時間がかかって、病院についたときには九時を過ぎていた。
 玄関ロビーの待合い空間で、呼び出しを待つ患者がテレビを見たり雑談したりしながら長椅子に坐っていた。
 予約時間に少し遅れてしまったので、急いで受付を済ませようとカウンターに行った。受付職員に声をかけようとしたが、あいにくみな忙しそうで、こちらを見向く気配もない。仕方なくすぐ横手のカウンターに立っていた、痩せて背の高い白衣の女性(眼鏡をかけている)に声をかけた。当然愛想のよい好意的な返事が返ってくるという甘い期待をもっていたのだ。ところが予期に反して、彼女は気を害されたようなつっけどんな調子で、受付に言ってください、といった。後でわかったことだが、彼女は専門の薬剤師で、受付担当ではない。専門職は専門職のプライドがある。彼女の役割は、医師が処方した薬を調合して、患者に服用上の注意などを親切にわかりやすく説明することだった。 
 ようやく受付を終えて、待合いの長椅子に腰掛けた。呼び出しを待つあいだ、本でも読むか、とポケットから読みかけの文庫本を取りだした。ちょうどテレビで、当面の政局についてニュース番組をやっていた。
 ぼくの隣に、古びた感じのハンチン帽をかぶった、七〇歳くらいの老人が坐ってテレビを見上げていた。テレビの画面にはお馴染みの顔が映って、声明文を読み上げるような淡々とした口調でしゃべっていた。
「意外な結果で驚いております」と民心党末長幹事長。「私は何らやましいところはございません。これまでと同様与えられた職務を全力でこなしていくだけでございます」
 数か月前、末長氏の政治資金疑惑を巡る事件で、検察は元秘書の国会議員らを政治資金規正法違反(会計帳簿虚偽記載)容疑で逮捕・起訴したが、末永氏本人は、不正に関与した証拠が不十分として、不起訴処分になった。
 その後「不起訴はおかしい」という市民からの申し立てがあり、それを受けて検察審査会による審査が行われた。審査会といっても、民間から任意に選ばれた素人審査員からなるもので、このたび審査の結果が出た。「起訴すべき」というのである。一一人の審査員全員一致という異例の厳しい議決だった。
 当然のこと政権党の実力幹事長の地位に座り続ける末永氏の去就が注目された。「やめるつもりはさらさらございません」と彼は世論に応えたのだ。
 この事件の背後には、当初から利権にからむもっと黒い疑惑が見え隠れしていたが、検察はそこまで踏み込める証拠を捕まえることができなかった。
 ただ、政治資金規正法違反については、東京地検特捜部は幾つかの有力な証拠を握り、末長氏を逮捕・起訴に追い込めると踏んでいた。マスコミ各社は検察のリーク情報に飛びついて、末長氏の黒い資金の出どころや、それを偽装するために行った不自然な会計処理のことを逐一報じ、政権の最高実力者がいよいよ司法によって裁かれるという衝撃的な結末を描いてみせた。世論が盛り上げられ、いよいよその時がきたかと期待された。そのとき、検察本部がそれを押し止めたのだった。
「昨日、末長氏はテレビのインタビューで言っていましたよ」と隣に坐っていたハンチン帽の老人がぼくに話しかけてきた。「家宅捜査や銀行預金調査などの結果、検察は私の潔白を証明してくれました。審査員のみなさまは、議決に当たってそのことをよーく念頭においてください、と」
「そう、たしか昨夜のニュースで」
「潔白を証明? とんでもない」と老人。「白ではなく灰色。嫌疑不十分というだけじゃないですか。こういう発言が人々の反発心に油を注いで逆効果になることを彼は全然わかっていない。彼の意向に逆らえない丸波首相や、逆らったら次の選挙の候補者選びで干されると恐れている党内の議員連中を相手にするのとはわけがちがう。私はまだ民心党に期待している。けれども末長氏の支配が続く民心党なら、次の選挙で負けたほうがいいと思う。勝てばますます彼の支配力が強まりますからね」
 昨年秋に野党・民心党が衆議院議員選挙で大勝し、戦後始めて本格的な政権交代があった。当初民心党は、世論調査で高支持率を得ていた。その後、繰り返される首相の発言のブレ、政権の迷走ぶり、幹事長と首相の不正資金問題などがあって、民心党の支持率は見る見る下り続け、三か月後に参議院議員選挙を控えた今、民心党にとって形勢は非常に厳しいものになっている。そんななかで幹事長の末長氏は、逆境にもめげず精力的に動き回って、間近に迫った次の選挙で勝利するための方策を着々と進めてきた。
 不起訴処分になったあと、末永氏の黒い疑惑についての報道は下火になっていた。ここにきて再び疑惑に薪がくべられ、彼に向けられる好奇心と反感が燃え上がることになった。
「末長氏は民主主義は〈数〉だという。確かに彼は〈数〉を集めるための方策に精通している。けれども彼のいう〈数〉の背後には不遜なものが見える。数さえ手に入れれば、どんな法案でも通せる。彼のいう〈数〉はそういうものなんだ。いま民心党が支持率を回復するために何より必要なのは、彼の退任だね。彼が何を言っても国民はノーと答えるばかりなんだから」
「なるほど」
 ぼくは何も言わなかった。老人はふたたびテレビに見入ったが、間もなく名前を呼ばれて、診察室へ入っていった。
 三〇分あまり経って、ようやくぼくの名前が呼ばれた。
 広い処置室の中央に近いところにベッドが置かれていた。ぼくはベッドに横になるようにいわれた。
 担当の看護士は、頼まれて臨時的に他の部署からその部署にきている人のようだった。彼女はいつもとはちがう役割を与えられて戸惑っているのか、近くにいるほかの看護士に点滴の薬について尋ねたり、その場で右往左往したり、何かわからない言葉をつぶやいたりした。ぼくの腕に点滴の針を刺すとき、失敗してまた動転する様子。大丈夫だろうか? ぼくは大いに不安を感じた。といって彼女に対して悪意をもったわけではない。たぶん彼女も大変なのだ。ここは何とかうまく切り抜けて欲しいという思いを感じながら、何もいわずに彼女のすることを受け入れていた。何とか注射針が然るべき場所にささり、点滴がスムーズに進みはじめると、そのうちに彼女の動作も落ち着いてきたようだったので、ぼくもほっと一息ついた。点滴が一時間近くも続いたあと、ようやく時間が来て、ぼくは移動用のベッドに移るように言われた。仰向けに寝たまま検査室へ運ばれていった。
 たいそう太って大柄な医師は、とても穏やかな調子で僕を迎えてくれた。「すぐ終わりますから、楽にしていてくださいね」「麻酔薬を注射しますからね」そんなふうに言っているかと思うと、そのうちに魔法使いのようにぼくの鼻に管を入れた。
 準備段階の時間の長さに比べて、検査は思いのほか簡単で、痛みもなく、一〇分くらいで終わった。それはもちろん大変けっこうなことだった。が、問題はそれで終わりというわけではなかった。ぼくはしばらく廊下で待つように言われた。
 廊下の長椅子に坐って待つあいだ、ぼくは目をつむりながら思考停止していた。結果がどうであるかはもう決まっていることだ。異常か正常か。有罪か無罪か。考えてみても変えられるものではない。
 ハンチン帽をかぶった先ほどの老人がやってきて、隣に腰をかけた。テレビにはもう末長幹事長は登場せず、エプロンをつけた女性と男性が鍋料理をつくっていた。しばらく黙っていた後、老人はまた話しはじめた。
「末長幹事長は辞任することができない」驚くべきことに老人はまだそのことを考えていたのだ。「辞任したら党内で影響力を失ってしまうし、検察の追求を勢いづかせる。彼は負けるしかない選挙を戦うためにこのまま突き進むしかない」
「たしかに」とぼくはうなずいて見せる。 
「丸波首相は判断力と権限をもっていながら彼を解任することができない。何しろ首相は就任以来末長氏に気を使っていて、彼の気を害するような決断を行うことができない。このままだと二人抱き合ったまま地獄の底へ飛びこんでいくほかにない」
「なるほど」とぼくは感心して相づちを打つ。「飛びこむのが二人だけだったらいいんだけれどね」
 ここで辞任すれば末長氏は犯罪者にされてしまうかもしれない。当然政治生命は失われる。長年抱いてきた野望もここで終わってしまう。彼の胃の内部はきっと荒れただれてズタズタになっていることだろう。
「ただ、ここに一つ別の展望がある」とハンチン帽の老人は続けた。「首相の〈辞任〉」
 老人はそれを言いたくてムズムズしていたのだろう。
「ちょうど○○○問題が解決の見込みもなく行き詰まっている。いよいよというときになって、首相が責任をとって退任するんです。当然幹事長の末長氏を道連れにして。参院選の直前に民心党の代表選挙が行われ、マスコミが盛り上がる。その結果、末長氏も丸波氏もいない、新しい顔ぶれの政権が誕生すれば、これはまったく思いもかけなかった展開じゃないですか」
「なるほど、なるほど」
 このとき後方からぼくの名前が呼ばれ、ぼくは診察室へ入っていった。
 太って大柄な医師は、ぼくに一枚の紙片を見せた。
 紙には、食道から胃、小腸、大腸、肛門と繋がる体内器官の模式図が印刷されていて、胃の部分に手書きの図と文字の書き込みがあった。
「癌や潰瘍はなかったので安心してください」とソフトな口調で医師は言った。
「あ、そうですか」
 思ったとおりだ。手術や入院をすすめられなくてまずはよかった。何はともあれ、ハッピーというべきではないか。
「この横線部分(ほぼ胃全体)に」と医師は図を指さしながらとても穏やかな調子で説明した。「〈胃ビラン〉が見られます。ビランというのは胃壁があれて、皮がむけたりしている状態ですね」
「なるほど」
「それからこの斜線部分(胃の右最上部を除く大部分)」とさらに医師は続けた。「この部分に〈萎縮性胃炎〉が認められます。これはガンに発展する場合がありますので、年に二度ていど胃カメラの検査を受けてください。これは老人病ともいわれ、歳をとるにつれてままこういうことになるものなんです」
 なるほど紙片に〈胃ビラン〉〈萎縮性胃炎〉の手書き文字が書き込まれている。
「ああ、胃が荒れているのですね」ぼくは軽く受けて言った。「道理で日ごろから気分が悪くなったり、吐き気がしたりすると思っていた」
 胃炎。胃が荒れているのか。日頃感じていた不調の原因がわかって、まずはよかった。気をつけなければな。
 医師は水薬を処方してくれた。眼鏡をかけた薬剤師の女性が笑顔で薬の説明をしてくれた。
「胃のただれなどを治めて症状を緩和する薬です。一日三回、毎食事後にこのプラスチックコップで飲んでください」
 帰りはコンビニの駐車場まで歩いたが、行きよりもずいぶん楽だった。車のフロントガラスに紙が貼られていた。
「本店に御用のない車の駐車はかたくお断りします。万一再び無断駐車された場合には、警察に通告しますので、ご注意ください」
 帰宅してから、インターネットで「胃炎」をキーワードに検索すると、「表層性胃炎」「萎縮性胃炎」と、胃炎にもいろいろあることがわかった。
「表層性胃炎」は、胃の表面が炎症を起こしている状態で、人体の免疫系が活発に防御反応を起こしている。胃酸の分泌が亢進し、胃酸過多になる。胃の粘膜が充血し、びらん(ただれ)状態になる。若いころよく経験した胃炎はたぶんこれだったのだろう、と納得される。
 それに対して「萎縮性胃炎」(自分の場合だ)は「燃え尽きた状態」だとある。細胞は分裂する活力を失い、細胞数が減少する。粘膜が薄く脆弱になる。胃の粘膜にある胃腺が萎縮して、胃酸の分泌が低下する。胃壁が弾力性を失い、機能低下する。食欲がない、胃がもたれる、お腹が張る。等々… 高齢者に多く、胃ガンに発展する可能性もある、と言われる。この状態になると治療によって元にもどることはない。
「燃え尽きた状態」「高齢者に多く胃ガンに発展する可能性もある」「治療しても元にもどらない」
 うーん。これは思っていたほど単純ではない。
 表層性胃炎→萎縮性胃炎→腸上皮下生→胃ガン
 という方向性があるらしい。「腸上皮下生」というのは、萎縮性胃炎がさらに進んで胃の細胞があたかも腸の細胞のような性質に変わった状態だという。「腸上皮下生」になると、さらにガン化の危険度が高まるとされる。だから年に二回内視鏡検査を受けて、進行状態を確かめる必要がある、というのだ。
 さらに酒、タバコをやめなければならない、とあるのはどうもやっかいだ。たばこは吸わないが、酒はよくない、ぜひやめよう、と日頃から思っている。
 そうか。酒をやめなければならないのか。
 よし、これを契機に一つやめてみようか。しかし、はたしてやめられるだろうか。いや、やめないといけないだろう。やめよう。
 大した量ではないが、酒を毎晩のように飲む。実のところウイスキーも焼酎も、飲んで美味しいと思うことはほとんどないのだ。おいしいというよりも、これはひどくまずい。何よりも気分が悪くなる。明らかに身体を傷めている感じがする。翌日などどうも体調がよくない。こんなものを飲み続けていいわけがない。そんなふうにいつも思っているのだ。
 世の中には生まれつきホルムアルデヒドを分解する酵素を持った人と持たない人とがあるそうだが、自分は後者に近いだろう。飲める体質の人の飲酒はいいらしいが、もともと飲めない人が多少飲めるようになった場合はよろしくない、ということも聞く。
 不思議なことに、自分の場合、昼間から夕方、夜間にかけては、飲みたい気がまったく起きないのに、深夜の一一時か〇時ころになると、飲みたくなる。おそるべき習慣の力。
 まあいいだろう。酒を止めるべきか、続けるべきか、という論議は、ここではとりあえず横に置いておこう。ここでいつもぼくが興味を感じるのは、自分の中で毎日起こっている奇妙な思考矛盾のことだ。
 酒は身体に悪いからやめようと思っている。飲めば気分が悪くなる。飲まない方がずっと快適で、趣味の仕事もはかどるにちがいない。そのことは毎日明確に感じているところだし、やめたほうがいいに決まっている。飲まなくても困ることなど何もない。やめることは簡単だ。明日からでもやめてみよう。過去にも健康上の理由から数か月間やめていたことがあったが、そのときはとても快適だった。
 毎日そんなふうに考えているのに、夜中が来るとまた飲むことになる。その時間が来ると、何かしら欠乏を感じるのだ。何かしらないが、何かが欠けているという感じである。肌寒い夜をストーブなしで過ごすのと同じような気がするのだ。寒さがこのていどならストーブをつけないでもいられると思っていても、そばにストーブがあったらやはりつけてしまう、あれと同じである。瓶の残りが少なくなると、次にはあわよくば酒を買わずにすまそうと思っている。ところがそのうち買い物に出ると、必ず買ってしまうのだ。
 美味しいとは思わない、身体を壊すと思っている、そんなものを飲むのは、やはりどこかいいところがあるからだろう。それは酔い心地とでもいうのであろうか。意識の下で押さえつけられている何かが解放されるのである。パンドラの箱が開けられるのだ。
 この件は、ぼくのコレクションノートにもちゃんと書き込まれている。かねてからぼくは人間の心の不思議な矛盾点に興味をもっていて、そのサンプルを蒐集しているのだ。

    
 目が覚めて時計を見ると、真夜中の三時。
 昨夜は一一時前からパソコンに向かって家計簿をつけ、簡単な日記を書きこんで、それから原稿の続きを書きはじめたのだった。アルコールを少しやったためもあってか、気分が悪くなって、部屋の灯りをつけたまま、とりあえず寝てしまった。

 いよいよ原稿締切り目前。少しくらい期限に遅れても何とかなるだろうとタカをくくる思いはあった。
昨日は朝からもちろん書くことに取り組むつもりでいたのだが、日曜日で、テレビの報道番組をずっと見ていた。午後はプロ野球中継があった。身体の調子(とりわけ気分)がよくないこともあって、ぎりぎり期限になってもなかなか書くことに取りかかれない。あるていどまで仕上がっているので、いざとなったら、そこまでの分を出せばいい、と腹は決まっている。
 夜は犬のユキちゃんと散歩に出る。ユキちゃんは、首輪をつけられ、庭の一か所にずっと縛り付けられて暮らしている。空腹を感じると、キャインキャインとあわれな声で食事の催促をする。飼い主は、それをちょっと厚かましいと感じることもあるが、それでもきちんと食べるものは与える。何しろユキちゃんは自由もなく柱に繋がれて、飼い主の好意にすがって生きるしかない身であり、飼い主はふだんユキちゃんのことをすっかり忘れてしまっているのだ。もし飼い主に何かことがあったらユキちゃんはたちまち路頭に迷うことになる、と飼い主はよく思うのだ。

 散歩の後、入浴をすませてから、韓国の連続テレビドラマを見た。ぼくはおよそテレビドラマを見ないほうである。それがいつからだったか、韓国ドラマにだけははまってしまった。自分でもその要点をはっきりいうことはできないが、時代物にしろ現代物にしろ、韓国ドラマはとにかく面白いのである。
昼間からどうにもひどい眠気があって、夜になっても、それが衰えなかった。先ほども書いたように、ようやく深夜の一一時になって、パソコンに向かい、原稿の続きを書き始めた。少し書くと行き詰まり、一時前に寝てしまった。

 夜中の三時に目が覚めて、身体を起こそうと思ったとき、猫のネネちゃんが布団の上でまるくなって、すやすやと気持ちよさそうに寝入っていた。起きたら目を覚まさせることになると気をつかいながら、そっとふとんを持ちあげた。あいにくネネちゃんは目を覚まし、ニャンと鳴いた。

 昼間腹が減ったときなどには、ネネちゃんはニャーニャーと甘えた声で鳴いて頭をすり寄せてくる。ネネちゃんがそんなふうに鳴くのは食事をねだるときか、外出したいときか、どちらかに決まっている。空腹のときには、甘えて可愛げな鳴き声をあげ、家の主人がそれに応えてくれないと見れば、鳴き声を次第に蝉が鳴くような押しつけがましい調子にエスカレートさせていく。ペットとしての本能と経験から、こうすれば家の主人は食べものをくれると心得ているのだ。それを察して家の主人はさっそくキャッツフードの置き場に向かって歩き出す。するとネネちゃんは素早く先に立って歩き、繰り返し後ろを振り返り主人の足にからまりつきながら、その都度甘えた声でニャーと鳴くのだ。

 ときどき主人は気まぐれなイタズラ心を起こして、ネネちゃんに邪険にあたることがある。心では笑いながら、「うん!」と怒ったような声を発して、手を振り上げてみせるのだ。すると、臆病なネネちゃんは、押しつけがましく甘えた姿勢をさっと引っ込め、神妙な態度に変わる。何だかわからないけれども主人は怒っている、人間のすることはどうもわからないことが多い、とにかくいまはおとなしくしておいたほうが無難なようだ、とネネちゃんは判断するのだ。

 ネネちゃんが鳴き声でさいそくするもう一つの場合は、外出したいときだ。用便を果たすためにも、外で気晴らしをしたいときにも、外出は、食事と同じように、ネネちゃんにとって必要不可欠なことであるし、猫を飼って多かれ少なかれ癒しを得ている飼い主ならば、そんな権利にそれなりに配慮してやらなければならないと思っているのはいうまでもない。制限された暮らしをしている猫に対して、食事と外出を保証してやることは、最低限飼い主に課された義務なのだ。外に出たいときには、ネネちゃんはニャーニャーという鳴き声で主人を誘って、玄関のドアの方へ走っていく。主人がついてくるとドアの前で立ち止まって後ろを振り返る。それを見て主人はめんどうだと思いながらも、玄関のドアを 少しだけ開けてやる。するとネネちゃんはドアの隙間をするりとくぐって外に出ていくのだ。

 ネネちゃんがわが家へ来てから七年になる。わが家のお母さんが動物病院からみなしごの小猫をもらって帰ったのだった。その後ひと月ほどおいて、お母さんはもう一匹茶色い毛並みの仔猫をもらってきた。動物病院の待合い室の片隅で小さな檻に入れられていて、檻には「小猫をもらってやってください」と張り紙がしてあったそうだ。

「二匹も猫を飼うの」とぼくは信じられない気がした。何しろわが家は猫を飼ったことがない。かつてお母さんは猫の毛がアレルギー病によくないと言っていたし、そのむかし家の納屋で野良猫が子を産んで、子どもたちが家で飼いたいと言ったときにも、とんでもないと、反対したものだった。
新しくわが家にやってきたのは雄のシャム猫で、ムサシと名付けられた。

 何でも元の飼い主は、相当な借金と五匹の仔猫と幾らかのキャッツフードを後に残して夜逃げしたらしい。五匹の中で生き残ったのはただ一匹だけで、その一匹もひどく痩せ衰えて可哀想な状態だったという。ムサシは食欲が旺盛で、ほかの仔猫たちは残された最後の食べ物をムサシに独占されて先に死んでしまったのだった。

 苦しい飢えの体験がよほど深刻だったのだろう。わが家に来た当初、ムサシはがつがつとよく食べた。ネネちゃんの食べ物はもちろん犬のユキちゃんの食べ物にまで横から頭をつっこんでいった。神経質で臆病なネネちゃんはムサシの旺盛さに圧倒されて、いつも遠慮がちで控えめにしていた。
ムサシは、猫のわりには無神経で人見知りせず、ノホホンとしたところがあった。犬のユキちゃんとも折り合って、親密に鼻をつき合わせたりしていた。ユキちゃんは誰にでも親しさを見せたがる性質があって、ムサシやネネちゃんを見ると、飛びついていくのだ。神経質なネネちゃんは、ぶしつけなユキちゃんを警戒して避けていた。ムサシはユキちゃんが飛びかかってきても逃げずに身をまるくして、するままにさせていた。

 ネネちゃんとムサシ、猫どうしはというと、それなりに許し尊重しあう間柄になっていたように思われる。ネネちゃんとムサシがいっしょに窓辺に並んで外の景色を見ていることもよくあった。ある時期など、夕方飼い主がユキちゃんを散歩に連れ出すとき、ムサシが後をついてきて、それにつられてネネちゃんも後を追ってくるというようなこともあった。

 三年ほど前のある日、ムサシが耳や頭に傷を負って外出から帰ってきた。警戒心が乏しく呑気で大らかな性質だったので、どこかの犬に近づいて噛まれたのか、あるいは人にものを投げつけられたかひどく殴られたのかも知れない。その数日後ムサシは外出したまま、今になっても家に帰ってこない。

 不思議なことに、ムサシがいなくなると、臆病で控えめな姿勢を貫いていたネネちゃんが急に厚かましく自己を主張し始めた。対抗相手がいなくなって、心が解放されたのか、ちょっと厚かましいと思

われるほどに、飼い主にあれこれと催促するようになった。

    4
 犬や猫の生活は全面的に飼い主に依存していて、飼い主に事があればたちまち路頭に迷うことになる。
 生命というのはとてもやっかいな代物で、繰り返したえず食料を補給しなくては存続していけないのだ。

 何年か前、アメリカの大手証券会社の経営破綻がきっかけになって、世界各地へ不況の波が伝わっていった。サブプライムローンという不純な証券が世界中に行き渡った結果だ。それは以前から予期され警告されていたことだったし、危機が一応のおさまりを見せている今でも、いつまた別の危機が発生するかわからないのだ。グローバル世界経済の恐ろしさ。そのときの記憶は現在も生々しく残っている。

 当初日本は比較的その影響を受けないだろうと考えられていた。しかしながら、案に相違して、わずか数か月後に、日本にも太平洋を渡って信じられないような大津波が押し寄せてきて、日本の経済界は深刻な不況に見舞われることになった。大企業においても、その波及を受ける無数の中小企業においても、企業の生き残りをかけて、大規模なリストラ、人員削減が行われ、多くの人たちが仕事を失った。突然収入の道が断ち切られてしまったのだ。

 その年の末近くのある日、わが家の玄関のチャイムが鳴って、出てみると、近所に住む宮西氏が立っていた。彼はペンキ職人である。家屋の戸袋サッシのペンキを塗らせてもらえないか、という。何しろ秋になって急に仕事がなくなった。あちこち探してみてもまったく何一つ仕事がない。これまでは何だかんだといっても、それなりに仕事はあったのだが、今年はちがっている。まったくほんとうに何一つないのだ。
 宮西氏は独身でまだ四〇歳にもならないだろう。ぼくの小学校時代の同級生・宮西ヒロユキ君の弟に当たる。兄弟と言っても年齢は二〇歳以上も離れている。二人の共通の父親は先の大地震で家屋の下敷きになって死んだ。
 ぼくの同級生のヒロユキ君は複雑な家庭に育ったせいか、幼少期からかなり強度の吃音癖があった。情緒不安定だったのか、生まれつきの性分なのか、粗暴なところが目立つ子どもだった。いや、幼少時にはそれほど目立たない子だった。小学校高学年になるにつれて、周囲の子どもたちに喧嘩をしかけたり、いわれのないいちゃもんをつけたりすることが重なるようになった。いわゆる問題児であった。小学校六年生の時、彼はぼくにとっくみあいの相撲を挑んできた。小さい頃彼はぼくに歯が立たなかった。が、今や体力と自信をつけていた。ぼくは気が進まなかった。仕方なく彼の挑戦に応じた。結果はぼくが何とか勝った。負けていてもおかしくなかった。
 中学一年のとき、ぼくは、彼がとても大人しい性分のM君にいいがかりをつけていじめているのを見て、「おい、やめとけよ」と注意したことがある。ヒロユキ君はぼくに向かって殴りかかりそうになった。が、すぐに思いなおして鉾をおさめた。
 ヒロユキ君は中学を卒業してすぐに近所の店で働き始めた。ぼくは高校に進み、さらに大学に入って故郷を去った。
 後に故郷に帰ったとき知ったことだが、ヒロユキ君は二〇歳で結婚し、間もなく行方不明になり、数日後山中で首を吊って死んでいるところを発見されたそうだ。ぼくの記憶のなかでは、およそ自殺などしそうもない子どもだった。
 そのヒロユキ君の若い弟・宮西氏に戸袋のペンキ塗りをさせてくれと頼まれて、ぼくは困惑した。同時にリーマンショックなるものの影響の深刻さを目の当たりにした気がした。
「ペンキ塗りといっても」とぼくは困惑しながら断った。「そんな必要はうちにはないよ」
 彼は建物の外装状態を説明して、ペンキを塗っておいた方が保守のために絶対にいいという。そのまま放っておくと、そのうちにボロボロになってしまう。金額もそうかからない、最低限の手間賃で仕上げるから、何とかやらせてほしいと彼は熱心にいう。気が進まない話だった。が、社会をおおう深刻な黒い不況の雲のことも頭にあったので、ぼくは宮西氏に仕事を頼むことにした。
 彼はどこかに障害をもっているのか、しゃべりながらも、仕事をしながらも、常にシューシューと耳障りな呼吸音を発した。それでも仕事には熱中する性分らしく、機敏で素早く、信頼できるものに思われた。以前は軽自動車を乗り回していたが、いつからか自動車を手放してしまったらしく、自転車で町までペンキを買いに行って、息を切らしながらもどってきた。
 そういえば子どもの頃、とここでぼくはさらに飛躍して、遙か昔の子ども時代のことを思い出す。同じ町内に同級生がたくさんいたものだ。なかに何人か、どこからか引っ越してきて、またどこかへ引っ越していった子もいた。あの頃はみんな貧しくて、その日その日を生き延びるために、親が職を求めたり失ったりするなかで、子どもたちも懸命に生きていたのだ。転校してきた子どもの中には仲間からいじめられる子もいた。

 当時ぼくがよくいっしょに遊んだT君もそんな一人だった。転校したてのころ、彼は学校で何となく馴染めないでいる様子だった。耳の病気のため臭いを発するところがあったので、子どもたちはそのことを彼に言ってはやし立てた。そんな中でぼくは彼に好意を見せたいと思い、学校帰りに話しかけ、彼の家へ行った。彼の家は古びて小さな借家で、昼間両親がいなかった。たぶん廃品回収のような仕事をしていたのではないかと思う。夕方、お父さんとお母さんがいっしょに帰ってきたとき、お母さんは、子どもへの負い目もあったのだろうか、笑いながら友達同士のような調子で子どもに話しかけ、子どももそんな調子で言葉を返すのを見て、ぼくはちょっと驚いた。彼は明るい子だったので、まもなくクラスのみんなと仲良くなり、ある時期には人気者にさえなって、ぼくと遊ぶことも少なくなっていった。その彼は小学校を卒業するのを待たずに両親とともに再びどこかへ引っ越していった。
 もう一人、印象に残っているのはF君である。彼はぼくと同級生ではなく、二つほど年が下だった。大柄で力も強そうな子だったが、微妙に何となく周囲の子どもたちとは異質な印象があった。ある日、近所の子どもたちが寄って、わいわいと遊び回っているなかで、数人の子どもから喧嘩を挑まれ、彼はそのうちの一人と取っ組み合い、相手を仰向けに倒した。倒れるときに相手は頭を強く地面に打ち付けて、泣き出した。ほかの仲間たちがF君を非難してなじった。「ごめんなさい。ごめんなさい」とF君は何度も謝った。それでも相手が許さないので、彼はついにわっと泣き出して、走って家に帰っていった。
 F君の家は母子家庭で、どこから流れてきたのか、山小屋のような粗末な家を借りて住んでいた。彼のお母さんは、生れついての不思議な霊的治癒力をもっているとされたのか、手をかざしたり病人の身体に触れたりすることで病気を治すという評判だった。といってもそれで生計を立てられるほど収入があったとは思われない。何かほかにも生業に就いていたのだろう。
 ぼくはアレルギー体質でよく身体にできものなどができたので、ぼくの母親はF君のお母さんに治療を頼んだ。ぼくはいやだ、いやだと抵抗したのだが、結局何百円だったか、金銭を持たされてF君の家に行かされた。F君のお母さんはとても落ち着いた穏やかな感じのひとだった。ただ、子ども心なりに、何となくくすんで地味な人、苦労人というような印象を受けた。この次もまた来るようにと言われたが、ぼくはそれきりその家には行かなかった。その母子一家はそれから間もなく、いつということも気づかれないままに、どこへともなく転居していった。
 その後彼らはどうなったのだろうか?

 そういえば子どもの頃、近所の小川で魚を取りながらごく普通に出会ったいろんな虫たち、ミズスマシとかゲンゴロウとかアメンボウとかタイコタタキとか、それにちょっと怖くて歓迎されざる存在だったタガメなどというのもいた。今はすっかり見かけなくなった。
 彼らはみんなどこへ行ったのだろうか?
 今でもどこかの水辺でしぶとく生き残っているような気がするのだが。  (了)

 

 

 


 


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  • 2015.07.11 Saturday
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