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  • 2015.07.11 Saturday
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森鴎外「百物語」  〜〜生まれながらの傍観者ということ〜〜

 すぐに書こうと思っていたのだが…
 森鴎外の『妄想外三篇』(岩波文庫)にやはり「百物語」というのがある。
 
 語り手が人に誘われて、「百物語」の催しに出かけるという話である。
《百物語とは多勢の人が集まって、蝋燭ろうそくを百本立てて置いて、一人が一つずつ化物ばけものの話をして、一本ずつ蝋燭を消して行くのだそうだ。そうすると百本目の蝋燭が消された時、真の化物が出ると云うことである。》

 百物語で出かける途中のことから、出逢った人たちのことなどが語られていくが、会場である人物に出逢って、そちらに深く興味をひかれて、百物語はどうでもよくなる。
 語り手(僕)は〈飾磨屋という男〉に興味を引かれる。

 「百物語」の催しを主宰した〈飾磨屋という男〉のことを述べる部分。

《飾磨屋は一体どう云う男だろう。錯雑した家族的関係やなんかが、新聞に出たこともあり、友達の噂話(うわさばなし)で耳に入ったこともあったが、僕はそんな事に興味を感じないので、格別心に留めずにしまった。しかしこの人が何かの原因から煩悶(はんもん)した人、若くは今もしている人だと云うことは疑がないらしい。大抵の人は煩悶して焼けになって、豪遊をするとなると、きっと強烈な官能的受用を求めて、それに依って意識をぼかしていようとするものである。そう云う人は躁狂に近い態度にならなくてはならない。飾磨屋はどうもそれとは違うようだ。一体あの沈鬱なような態度は何に根ざしているだろう。あの目の血走っているのも、事によったら酒と色とに夜を更(ふ)かした為めではなくて、深い物思に夜を穏(おだやか)に眠ることの出来なかった為めではあるまいか。……僕は考えれば考えるほど、飾磨屋という男が面白い研究の対象になるように感じた。
 僕はこう云う風に、飾磨屋と云う男の事を考えると同時に、どうもこの男に附いている女の事を考えずにはいられなかった。》

この人が何かの原因から煩悶(はんもん)した人、若くは今もしている人だと云うことは疑がないらしい¥」

 つまり語り手(あるいは鴎外)は、飾磨屋というこの人物に自分を同化して見ているいるのだ。

 それは「自分は生まれながらの傍観者である」という点にある。

《僕は生れながらの傍観者と云うことに就いて、深く、深く考えてみた。僕には不治の病はない。僕は生まれながらの傍観者である。子供に交って遊んだ初から大人になって社交上尊卑種々の集会に出て行くようになった後まで、どんなに感興の湧(わ)き立った時も、僕はその渦巻(うずまき)に身を投じて、心(しん)から楽んだことがない。僕は人生の活劇の舞台にいたことはあっても、役らしい役をしたことがない。高がスタチストなのである。さて舞台に上らない時は、魚(うお)が水に住むように、傍観者が傍観者の境(さかい)に安んじているのだから、僕はその時尤もその所を得ているのである。
そう云う心持になっていて、今飾磨屋と云う男を見ているうちに、僕はなんだか他郷で故人に逢うような心持がして来た。傍観者が傍観者を認めたような心持がしてきた。

《生まれながらの傍観者である》という自己認識は、語り手の「僕」(鴎外)にとって、いわば「不治の病」のようなものであって、たぶん生涯にわたってずっと煩悶し続けてきたのである。

僕はその渦巻(うずまき)に身を投じて、心(しん)から楽んだことがない。僕は人生の活劇の舞台にいたことはあっても、役らしい役をしたことがない。高がスタチストなのである。

《僕は飾磨屋の前生涯を知らない。あの男が少壮にして鉅万(きょまん)の富を譲り受けた時、どう云う志望を懐(いだ)いていたか、どう云う活動を試みたか、それは僕に語る人がなかった。しかし彼が芸人附合(つきあい)を盛んにし出して、今紀文と云われるようになってから、もう余程の年月(としつき)が立っている。察するに飾磨屋は僕のような、生れながらの傍観者ではなかっただろう。それが今は慥かに傍観者になっている。しかしどうしてなったのだろうか。……飾磨屋は、どうかした場合に、どうかした無形の創痍(そうい)を受けてそれが癒(い)えずにいる為めに、傍観者になったのではあるまいか。》 

 飾磨屋という人物に興味を感じ、自分と同じなのではないかと想像している。
 そこには、語り手の〈僕〉がなめてきた傍観者であることにに伴う人生の傷、苦しみ、悩みのごときものがかいま見られる。もちろんそのような傷、苦しみは、文学をするモノという別の視線から見れば、このうえない魅力(財産)でもあり得るのだ。
 この作品のツボはそこにある。

 この視点の上にもう一つ、この作品で、飾磨屋が長年連れ添っている、〈太郎〉という女のことが書かれている。この部分も印象に残って興味深いのだが、それはここでは省略する。

森鴎外「心中」  〜〜岩波文庫「妄想外三篇」から〜〜 

 森鴎外『妄想外三篇』読み終える。(読み返し)

 もうかなり昔に買った薄っぺらい岩波文庫、1992年第8刷

 以前に読んだときもそれなりの印象をもったと思うが、作品そのものの出来とか形とかよりも、自分にとって意味があると思われるのは、作品中の「ある一部」だという思いをもった。

 たとえば「心中」という作品がある。料亭に勤める〈お金〉という住み込みの女性が、語り手(書き手)である〈僕〉に、仕事中に体験した奇特な(珍しい)話をする、という設定。

《お金(きん))がどの客にも一度はきっとする話であった。どうかして間違って二度話し掛けて、その客に「ひゅうひゅうと云うのだろう」なんぞと、先()を越して云われようものなら、お金の悔やしがりようは一通りではない。なぜと云うに、あの女は一度来た客を忘れると云うことはないと云って、ひどく自分の記憶を恃(たの))んでいたからである。
 それを客の方から頼んで二度話して貰ったものは、恐らくは僕一人であろう。それは好く聞いて覚えて置いて、いつか書こうと思ったからである。》

 こんなふうに鴎外は、状況を設定し、その状況の中に深く入り込んで、話そのjものは細ごまと凝った展開になっている。
 それ自体は、話題として語るに足る話で、それでいいのだろうが、ただそれだけのことで、とくに印象には残らない。魅力的とか面白いとか思うほどのことはない。

 この作品の中で「面白い」と感じ、印象に残ったのは、主人公〈お蝶〉の、性格を記述した部分である。
彼女はその夜男と心中する。それがこの話である。

《こう云う入り組んだ事情のある女を、そのまま使っていると云うことは、川桝(この料亭)ではこれまでついぞなかった。それを目をねむって使っているには、わけがある。一
つはお蝶がひどくお上さんの気に入っている為めである。田舎から出た娘のようではなく、何事にも好く気が附いて、好く立ち働くので、お蝶はお客の褒めものになっている。国から来た親類には、随分やかましい事を言われる様子で、お蝶はいつも神妙に俯向(うつむ)いて話を聞いていても、その人を帰した跡では、直ぐ何事もなかったように弾力を回復して、元気よく立ち働く。そしてその口の周囲には微笑の影さえ漂っている。一体お蝶は主人に間違ったことで小言を言われても、友達に意地悪くいじめられても、その時は困ったような様子で、謹んで聞いているが、直ぐ跡で機嫌を直して働く。そして例の微笑)んでいる。それが決して人を馬鹿にしたような微笑ではない。(怜悧)で何もかも分かって、それで堪忍して、おこるの怨むのと云うことはしないと云う微笑である。「あの、(えくぼ)よりは、口の(端)に、(縦)にちょいとした(皺)が寄って、それが本当に可哀うございましたの」と、お金が云った。僕はその時リオナルドオ・ダア・ヰンチのかいたモンナ・リザの画を思い出した。お客に褒められ、友達の折合も好い、愛敬((あいきょう))のあるお蝶が、この内のお上さんに気に入っているのは無理もない。
 今一つ川桝でお蝶に非難を言うことの出来ないわけがある。それは外の女中がいろいろの口実を拵()えて暇を貰うのに、お蝶は一晩も外泊をしないばかりでなく、昼間も休んだことがない。佐野さんが来るのを傍輩がかれこれ云っても、これも生帳面()に素話()をして帰るに極まっている。どんな約束をして、どう云う中か分からないが、み舞をしないから、不行跡だと云うことは出来ない。これもお蝶の信用を固うする本になっているのである。》

 この短篇ではこの部分がいいと私は思った。ここだけ肖像画の中から切り抜いて額におさめておきたいと思うところだ。

 鴎外は世間で見かけたある女性の中にこういう特徴を見て取って(あるいは想像して)、それに強く興味を感じたのにちがいない。
 あるいはこれは鴎外自身の心を書いたのかもしれない。
 そういった鴎外の関心のほどが思い浮かぶので、この部分がおもしろく興味深いのである。
 
国から来た親類には、随分やかましい事を言われる様子で、お蝶はいつも神妙に俯向(うつむ)いて話を聞いていても、その人を帰した跡では、直ぐ何事もなかったように弾力を回復して、元気よく立ち働く。そしてその口の周囲には微笑の影さえ漂っている。》

《一体お蝶は主人に間違ったことで小言を言われても、友達に意地悪くいじめられても、その時は困ったような様子で、謹んで聞いているが、直ぐ跡で機嫌を直して働く。そして例の微笑)んでいる。それが決して人を馬鹿にしたような微笑ではない。(怜悧)で何もかも分かって、それで堪忍して、おこるの怨むのと云うことはしないと云う微笑である。》



ひとりきりでひたすら自分のために書いたもの

 何年か前にプルーストの本から書き写した文章がノートに残っていた。
 とてもいい言葉だが、すっかり忘れてしまっていた。

 どんなに深く印象に残る言葉でも、繰り返し目にしていないと忘れてしまうのだ。

 以下、マルセル・プルースト『サントブーブに反論する』(保苅瑞穂訳、ちくま文庫所収)より。

《一冊の書物は、私たちがふだんの習慣、交際、さまざまな癖などに露呈させているのとは、はっきり違ったもうひとつの自我の所産なのだ。このもうひとつの自我を理解しようと希うのなら、私たちはわが身の深部にまで降りて、自分のなかにこの自我を再創造してみるほか、成果を得るすべがない。こうした内心の努力を免除してくれるようなものは、何ひとつありはしないのだ。この真実は、一から十まで、私たちが自力で作りあげねばならぬものだ。ある朝、友人の図書館司書が、未発表書簡を一通送ってきてくれて、かくて郵便物とともに真実が手元にころがりこむとか、作者と非常に親しかった某の口から、真実が入手できるとか当てこむのは、あまりにも安易にすぎる。》

孤独にひたりつつ、自分のものでもあれば、他人のものでもあるような言葉には、沈黙を命ずる。たとえひとりきりでいようと、自分になりきらないまま物事を判断しているようなとき、私たちが使っている言葉は、黙らせてしまう。そして自分自身にあらためて面と向いあい、おのが心の真の響きを聞き取ってそのまま表現しようとする。それが文学の仕事というものだろうが、サント=ブーヴは、この仕事と会話とのあいだに、どんな境界線も引こうとしなかった。
 実際には、作家が一般読者に提示するのは、ひとりきりで、ひたすら自分のために書いたものであって、それこそが彼自身の作品なのである。

深いところで私たち自身の本質をなしているこうした過去と比べれば、知性の真実などには、まるで現実味がない。》

芸術家は単独で生き、目に見える事物の絶対的価値など問題にせず、もっぱらおのれの内部にのみ価値の尺度を置くものだということが 知力自慢の人々には分らないのである。どこか、地方の劇場の、聞くに耐えない演奏会でも、趣味の良い人たちからすればとんだ物笑いのダンス・パーティでも、オペラ座で聴く完璧な演奏や、フォープール・サン=ジェルマンの優雅この上ない夜会よりも、芸術家の内心にずっと豊富な回想を呼び起すことがあるし、一連の夢想や関心事と、はるかに強く結ばれあうことだってありうるのだ。北フランスの鉄道時刻表に、さまざまな駅名が載っている。それを見ながら彼が思い浮ぺるのは、秋の夕ぺ、車両から降り立つ自分の姿だ。木々はすでに葉を落し、澄みきった空気に特有の匂いを放っている。…趣味の良い人たちには、時刻表など無味乾燥と映るだろうが、そこには、少年時代このかた、絶えて耳にしなかった名前が満載されていて、彼にしてみれば、立派な哲学書とはまたまったく別様の価値があるものなのだ。高尚な人たちはそれと知って、才能ある男なのに趣味はひどく低級だなと言うかもしれない。》

 ただ引用することができるだけでも、嬉しくなる言葉である。

自分のものでもあれば、他人のものでもあるような言葉には、沈黙を命ずる。自分になりきらないまま物事を判断しているようなとき、私たちが使っている言葉は、黙らせてしまう。そして自分自身にあらためて面と向いあい、おのが心の真の響きを聞き取ってそのまま表現しようとする。

 そのとおり、これだ、と思う。しかし、それをどう自分の文章に生かしていくのかとなると、まったくどうしようもない。


カフカ「城」をよみはじめる ―ーK氏への手紙から―ー

 

 その後どうですか。当方は、ずっと買い物以外には家に籠もっている毎日です。

 どこかへ出かけても何もないし、それが自然体という感じもあります。

「○○○文学第5号」お送りします。

 いつもの事ながら「何も書けない」というのが基本。このたびもぎりぎり締め切りに間に合わせてでっちあげたというところ。書くべきことを見つけられないというべきか。結局、これが限界だと感じています。気が向けば軽く目を通してください。

 

カフカの『城』を読み始めました。何度目になるか。どうしてカフカはこんなことをこんなふうに書くことができたのか?

 本を読んでも、何のために読んでいるのか、時間の無駄ではないか、と思うことが多いなかで、カフカを読みはじめると、これは面白い、こういうのを読まなくては、という思いになります。

 測量技師が城のある村についてあれこれ、という最初の方の印象が特に残っていますが、この作品の本領はそこにはなく、読みすすめるうちに、こんな人がでてきたのかと思わせるいろんな人が登場してきて、それぞれの人たちが興味深い言葉を発する、それが実に微妙で精彩にとんでいて、それにしてもそんなに詳細に心や思いのひだを記述しても意味があるのだろうか、読者はついていけるのだろうか、と思われるような記述が延々と続いていく。

 ごくありふれた「リアルな」現実世界を書くような文体で、「現実のようでいて現実ではない」「現実ではありえない」世界を書いていきます。つまり「不条理な恐ろしい夢の世界」といったようなものを。

 非現実でも、超現実でも、あるいは実際の現実でも、なんでもいい。他の人に理解してもらえるか、読んでもらえるか、ということもどうでもいい。

 ともあれ、「今現在の自分」の中から紡ぎ出されてくるものを、紡ぎ出されてくるままに「思う存分に吐露」する、そんな文章。

そう考えると、要はそういうふうに、思いきって「思いのままに」「思いきり好きなように」書けば、何かが生まれてくるのではないかという希望のようなものも生じてくる、気がする。

 

 ブログ、興味深く読ませていただいています。最近読んだ記事で印象に残っているのは、「恐怖の一夜 ダージリンの山の家」です。

《村人にとって虎は自然の一部であり、虎の餌食になる運の悪い人がいるというのも含めてそれが村人の日常なのである。虎が出たという私の話になんの反応も示さなかったダージリンの宿の管理人もそういう村で育った人なのかも知れない。後になって管理人の無関心な態度を思い出して、私はそう思った。》

 


『日の砦』を読んだ  (黒井千次著、講談社文庫)

  インターネット(楽天ブックス)で、『日の砦』(黒井千次著、講談社文庫)を取り寄せて、読んでみた。
 黒井千次については、名前は知っていて、多少の興味を感じていたが、読んだことがなかった。
 何年か前の新聞記事切り抜きをたまたま見て、興味を感じて、読んでみたくなったのだ。

 文庫本の表紙カバーの裏にこんな紹介文章がある。

《郊外に家を構え、還暦を過ぎて会社も勤め上げた父親、結婚を控えた恋人のいる息子、母親の誕生日に携帯電話をプレゼントする娘、老朽化した家屋の建て替えを娘と相談する母親……。人生の区切りを迎えてようやく訪れた家族の穏やかな日常にしのびよる、言いしれぬ不安の影を精緻に描き出した連作短編集。》

 10の短編を連ねた形の作品であるが、各短編の中心人物は、一つの家族の一員であり、個々別々の作品であるわけではない。互いに関連をもちながら、全体として、ある「いいようのない何か」を言いあらわしているようなのである。

 最初の「祝いの夜」「昼の火」と読むうちに、なるほど、それなりに興味を引かれる作品だ。日常生活の中の得体のしれない無気味な要素が、表れている。しかし、それはただそれだけのことではないのか、という印象があった。期待したほどではないのではないか。……
「日暮れの影」は高太郎のとなりに住むお婆さん(家の鍵があかないであがいている)のことを書いている。このあたりからこの作者の作品世界が佳境に入る感じ。

「冬の腰」では、年老いたマッサージ氏のことが書かれている。ここにもさりげなく深刻な影をみせながら、ひそかに滅び行く人間の姿が記されている。

 とりわけ深い印象を残したのは、最後の2つの短編。「家の声」「空き地の人」
 先に鍵を開けられないであがいていたとなりのお婆さんが登場したが(同居人として実の娘でもないらしい女性がいて、それも得体が知れない感じである)、その後この家はどうなったのか。

 婆さんの姿も人の気配も見かけなくなったある日、家が取り壊されることになった模様である。どういう事情があってどうなったのかははっきりしない。しかし、とにかく……(その前にこの家族の家が老朽化して、妙な音をたてるなど、立て替えなければならないのではないかという話がある。)

 最後の「空き地の人」というのは、婆さんが住んでいたとなりの家が取り壊された後、更地になって、その一角がごみの集積場になっている、高太郎がごみを捨てにいくと、カラスが食い散らす。からずを追い払い、猟銃を撃つ真似をする。その場所に見知らないの女(脂気のない顔の中で円い目だけが際立つ)がきて、話を交わすうちに、女が奇妙なことをいう。

《「向こうは必死ですもの、敵うわけがない」
 勝ち誇ったように目を見開いた女は立ち去りかけて足を止め高太郎を振り返った。
「石をぶつけたり、猟銃を撃ったりしたらだめ。必ず復讐されるわよ」》


 会話と叙述。説明は極力避ける文体で、一文一文はさりげなく、書いている内容もごく普通の感じ。しかし、それをとおして背景の無気味さ、奇妙さ、不安のようなものが作り出されている。

 どうも感想文を書くことは難しいものだ。こう書いているうちにも、ただ思いつくまま脈絡もなく書いているだけで、舌足らずというか、頭が回らないというのか。

 ちょいちょいと簡単に書こうと思うからいけないのだろう。
 ちょっとしたことを書くにも、じっくりと腰を据えてかからないと思うようにはいかない。

 こうした作品を読むとき、いつも注意が向かうのは会話の作り方。

 なるほど会話は、こんなふうに幾らでも「作り出せる」のだ、と思う。
 なるほどこんなふうに会話を作り出せばいいのだ。

 家族間の会話なら頭で想像できそうだが、たとえば「雨の道」
 高太郎は郵便局に用があって家を出るが、雨が降ってきたので、傘をとりにもどる。
そのとき妻との間に会話がある。この会話には、日常生活の中での妻との間柄が的確におもしろく捉えられている。

どうしたの、と家の奥から堤子の声が聞えた。
「降ってるんだよ。小雨ともいえないような奴だけど、間違いなく降っている」
「だから、傘を持って行かなくては駄目よ」
 彼のでる前、堤子はそんな注意を一言も口にしてはいなかった。
「だから、傘を取りに戻ったんじゃないか」
 思わず言い返しながら高太郎は下駄箱の戸に手をかけた。押し込まれた靴でも引っかかっているらしく、少し開いた戸はその先に動かない。
「濡れたら風邪を引きますよ」
 傘を取りに戻った者にどうしてそうもわかりきったことばかり言うのか、と高太郎は無性に腹が立った。》


 これは家族間の会話。さりげなく書かれているが、夫に対する妻、それに対する夫の関係があらわれている。それが作品のテーマではないのだろうが、作品に妙な味わいを与えている。

 家の外で出会った人と会話を交わすことは普通はあまりない。
 ところが小説ではいくらでも随意にそういうことが起こる。

 ごみ置き場で出会った女が話しかけてくる。(「空地の人」)

《「鴉ですか」
 頭に紫のバンダナを巻き小さなゴミ袋を手に提げた見かけぬ女性がいきなり空地に現れて高太郎に声をかけた。
「もうやられました?」
 曖昧に頷く彼にたたみかけるように言葉を重ねた中年の女は網を持ち上げたところで手を止め、破られた袋の傷に一瞬目をやってからその脇に素早く自分の袋を押し込んだ。
「ゴミの日を覚えていて、時間に合わせて来るんですよ」
「ここに袋を置いて、背を向けたとたんに破られました」》


 なんでもないように見える会話であるが、こんなふうに自在に作っていけるのだ。

 「案ずるよりは産むが易し」
 「思いきって」飛びこんでみる(試してみる)ことだ。

 会話文には思った以上に「情報力」がある、と思う。
 第一わかりやすい。頭にすーっと入ってきやすい。


 図に描くとすーっとわかるのと似たようなわかりやすさがある。

黒井千治著『日の砦』を読んでみたくなった

 朝、6時40分起床。
 目が覚めても起きないでいたが、ふと着想が浮かんで、ようやく起きた。
 さっそく手帳にメモする。

「われわれが何気なく営んでいる生活は不安定で危険な闇に包まれている。われわれは不確実な地盤の上に日々の暮らしを営なんでいる。事故や病気はいつでもそこにあって、われわれをおとしいれることができるのだ。そのような状況を見る目があれば、われわれは楽観的であることなどできないだろう。そんな状況なのにわれわれは不思議なほど楽天的である。そうあることができるのは、実は幸いなことであるだろう。
 必要以上に悲観的になることによって、ストレスが高じて、われわれの免疫機構は壊れてしまうだろう。事実をありのままに理解することは自分を滅ぼすことになる。」


 昨夜、黒井千次の『日の砦』についての、2004年の新聞記事の切り抜きをたまたま読んだ。
 また自作「日常生活の背景」を少し読み返した。そんな影響が残っていたのだろう。

 黒井千次『日の砦』(短編10作から成る)刊行についてのインタビュー記事から。(2004年9月14日、毎日新聞)

 主人公・群野高太郎の定年退職後の平穏な日常。

《「息子は結婚して家を離れ、長年生活を共にした妻と会社に勤めている娘との3人暮らし。高太郎を中心に、時に視点を家族に移しながら、一見穏やかな日々がつづられていく。
 ところが、各編とも、平穏な日常に深い裂け目がのぞくように、意外な起伏を見せる。たまたま乗ったタクシー運転手の鬱屈をかかえたようなしぐさ、ふと入った喫茶店で耳にした不幸、近所に住む老女のはっきりしない行動、正体の知れない老いたマッサージ師、小雨の降る中で出会った無気味な男……。何気ない出来事のようなのだが、よく見据えると怪しく、底知れない。そんな意味ありげな事件が高太郎たちを不安に陥れる。
「戦争とか、病気とか、特定の何かを恐れているわけではないんです。もしかしたら、何でもないこととして、見過ごしてしまうようなことかもしれません。でも、立ち止まって、おや?と考えると、、妙に暗い、よくわからないものが見えるような気がする。暮らし全体の底にうごめいている異物というか。それで、生きていること自体の危うさに気づく。『現代の怪談集』と感想を言ってくれた人もいました。」(笑い)
「結局、人間というのは、そういう上で生活していて、折り合いをつけたり、かかわりを持ったりしながら、せめぎ合いを続け、なんとか暮らしを守っているのだと思うのです。それを『砦』と呼びたかった」
 演劇にたとえると、家族が会話をしたり、生活をしたりしている手前は明るいライトで照らされている。ところが、その背後には闇が広がっていて、ふとした瞬間に、その底無しの暗さに気づくような感じといえるだろうか。
 (中略)
「主人公たちの不安の正体を考えると、他者との関係のあり方だったり、家族の結びつきの根拠だったり、人生というもののつかみにくさだったり、時の流れを前にした無力感だったり、いろいろだ。主人公たちは日常を揺さぶられ、非日常を体験し、また、日常に回帰してくる。
「出発点の日常と戻ってくる日常がちょっと違ってくるんですよね。それが毎日毎日続いている。低い目線で、何でもない毎日を見ると、どうなるか。この気味悪さは、生きていることの基調ではないかと思っています」》


 そういえば、上記の自作「日常生活の背景」(2年ほど前)でこんなことを書いた。

《何でもなく過ぎていく日常生活の周辺に、思わぬ深い闇が広がっていたことを、改めて知る思いだった。通常、人は日常性の中の決まった道を決まった仕方で歩いていて、何となく安心感を得ている。けれども、この世界は決まった道ばかりで成り立っているのではない。道の周辺には、知ることのできない深い闇の地帯が広がっていて、常に私たちの暮らしを取り巻いているのだ。》
《おそらく彼にとって家族は自明性の砦であったのだ。それは舟がつながれている堅固な岸壁のようなもので、それが取り除かれると、日常生活の自明性が消えてしまって、背景にあった闇が前面に出てくるのである。》

 これは明らかに黒井千次さんの『日の砦』(についての新聞記事)からきている、と今日気づいた。

《立ち止まって、おや?と考えると、、妙に暗い、よくわからないものが見えるような気がする。暮らし全体の底にうごめいている異物というか。》

 この言葉が僕の心の中に残って広がっていたのだろうか。

 実は黒井千次さんのこの本を僕はまだ読んでいない。
 インターネットデ調べると、文庫(講談社文庫)になっていた。

 読んでみたくなったので、注文した。
 このところちょっと本を買いすぎ、と思いながら。


読み返し、勉強する 〜プルーストの『失われた時を求めて』〜 

 何を書くべきか、自分が書く文章の目標とすべきか。

 あてもなく探っていくなかで、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』を読み返してみる。
 いや、昨年、ようやく読み終えた後、もう一度始めから読み返そうと、はじめたが、すぐ中断していた。なにしろ、何度読み返したとしても、そんなに簡単にスラスラと読めるシロモノではない。

 今日、中断していた続きを読んでみて、たしかにここには自分にフィットするものがある。最近同じ目的から読み返していた(村上春樹などの)作品よりもずっとそういうものがある。そのことをあらためて感じた。

 この部分は、それほど決定的なものではないが、それにしても、自分の心に触れてくるものが多々ある。

《夕食後は、悲しいことに、まもなく私はママのそばを離れなくてはならなかった、そのママはあとに残ってほかの人たちと雑談をするのだった、天気がいいときは庭で、天気がわるいときはみんながひきさがる小さなサロンで。みんなといっても私の祖母はべつで、祖母の考は、「田舎にいて部屋にこもってじっとしているなんて、なさけないわね」であり、雨のひどい日には、私の父が私をそとに出さないで部屋へ読書にやるから、彼女はそんな父と果てしない議論をした。「それではいけないというのですよ、あなたがこの子を頑丈な強い子になさるには」と彼女は悲しそうにいうのであった、「とりわけこの坊やは体力と気力をつけることがたいせつな子なのに。」私の父は両肩をそびやかして、それから晴雨計をながめる。彼は気象学を好んでいるのだ。そのあいだ私の母は、そうした父の心を乱さないために、物音を立てることを避け、敬意をこめてうっとりと父をながめるが、しかしあまり強く見つめて父の優位の秘密を見通すことはさしひかえていた。しかし私の祖母はというと、どんな天候でも、たとえ雨がはげしくふってきて、フランソワーズがぬらしては一大事とたいせつな柳の肘掛椅子をあわててとりこんでしまったあとでも、※雨にたたかれている、誰も人のいない庭のなかで、灰色の乱れた髪をかきあげながら、健康のためになる風や雨をもっとよく額にしみこませようとしている姿が見られた。彼女はいうのであった、「やっと、これで息がつける!」そしてびしょぬれの庭の小道をあちこち歩きまわった。》

 この部分の内容そのものは、さておいて、上の文章には、「作品を構成する何人かの人物の描写がタイル状にちりばめられている」

 その点に興味を引かれたというわけ。

 この方式は、参考になる、使えるという感覚。




青いティッシュペーパーと、花柄のついたトイレットペーパー

ちょっと考察  (村上春樹『ねじ巻き鳥クロニクル』より)

 もちろん、それぞれの部分部分、随所に面白いもの(魅力)がある。けれどもその部分部分の文章の面白さ(魅力)は必ずしもそれほどのものでもないところもある、という気もする。それは読者の好みの問題であるが。
 
 部分部分の面白さを取り上げてみよう。

 冒頭部分。いきなり「知らない女」から謎の電話がかかってくる。

《「あなたにかけているのよ。十分だけでいいから時間を欲しいの。そうすればお互いよくわかりあうことができるわ」と女はいった。低くやわらかく、とらえどころのない声だ。
「わかりあえる?」
「気持ちがよ」
 僕は戸口から台所をのぞいた。スパゲッティの鍋からは白い湯気が立ちのぼり、アバドは『泥棒かささぎ』の指揮を続けていた。》

 このトーン(文章上の「装い」といってもいいだろうか)は作品のはじめから終わりまで貫かれている。というよりも、この作者は何かを書けば、自然にこういうトーンになってしまうのだ。
 ここには非日常的で意外な出来事があり、それだけで読者を引き込む。
 それに対して、スパゲッティを作っている「僕」の有様、白い湯気、クラウディオ・アバドなどがユーモラスに配置されている。

 次に仕事先の妻から電話がかかってくる。「僕」は失業中で家事をしている。

《「ところで今日は何曜日だっけ?」
「火曜日」少し考えてから僕は言った。
「じゃあ銀行に行ってガス料金と電話料金を振りこんでおいてくれる?」
「そろそろ夕飯の買い物に出るし、そのついでに銀行に寄るよ」
「夕飯は何にするの?」
「まだ決めてない。買い物に行ってから考える」
「あのね」あらたまった口調で妻は言った。「ちょっと思ったんだけれど、あなたべつに急いで仕事を探すこともないいんじゃないかしら」 
「どうして?」と僕はまたびっくりして言った。世界中の女が僕をびっくりさせるために電話をかけてきているみたいだ。「失業保険だってそのうち切れるんだよ。いつまでもぶらぶらしているわけにもいかないだろう」
「でも私のお給料があがったし、副業の方も順調だし、貯金だってあるし、贅沢さえしなきゃ十分食べていけるでしょう。今みたいにあなたが家にいて家事をやるっていうのは嫌? そういう生活はあなたとしては面白くない?」》

 これもごく何でもない文章であるが、ここにも面白さがある。妻が働き、夫が家事をするという形、これは普通世間の考えと逆転した発想なので、面白味がある。また「僕」という人間の特徴を映し出しているのだ。
 平明な「会話」の形で、言うべきことを説明している。

 こうした何でもない平明な文章の中にときどき線を引きたくなるような文章が入り込んでくる。

《ひとりの人間が、他のひとりの人間について十全に理解するというのは果して可能なことなのだろうか。つまり、誰かのことを知ろうと長い時間をかけて、真剣に努力をかさねて、その結果我々はその相手の本質にどの程度まで近づくことができるのだろうか。我々は我々がよく知っていると思い込んでいる相手について、本当に何か大事なことを知っているのだろうか。 ( ……… )
 僕がそのような疑問を抱くようになったきっかけは、非常に些細なことだった。》

 ずっといっしょに暮らしてよく知っているはずの家族について、われわれは何を知っているのだろうか、ほとんど何も知っていないのではないか、という認識、発見がある。
 これは、妻クミコとの間に心の行き違いがあったときに、「僕」が抱いた感慨である。 ある夜、妻の帰りが遅くなった。「僕」はきちんと夕食の準備をして待っていたが、落ち着かない。一人で先に食べる気にもなれない。ようやく九時に帰ってきた妻は、ぐったり疲れていて、目が赤い。これは悪い兆候だ、と「僕」は思う。

《彼女の目が赤くなるときには、必ず何か良くないことが起こる。僕は自分に言い聞かせた。〈クールにやろう。余計なことは何も言わないように。静かに、自然に、刺激しないように〉
「ごめんなさい。どうしても仕事が片づかなかったのよ。なんとか電話を入れようと思ってたんだけれど、いろいろわけがあって連絡もできなくて」
「いいよ。大丈夫、気にしないでいい」と僕は何でもなさそうに言った。そして実際の話、僕はべつに気分を悪くしていたわけではなかった。僕にだってそういう経験は何度かあった。》

 恐ろしく奇怪なことを語るこの作品がこのような細部をもっていることはおもしろいことだ。
 「僕」はガスに火をつけ、鍋に油を引く。妻は「先に食べればよかったのに」という。そこまではよかった。
 彼女は洗面所に行き、顔を洗ったりしているようだったが、やがてティッシュペーパーとトイレットペーパーをもってもどってきて、「どうしてこんなものを買ってきたのよ」という。「僕」には何を言おうとしているのかわからない。
 そこの部分の書き方が、「誇張法」というのか、特有の〈シャレたユーモア〉があって面白い。(これはリアリズムではないが、リアリティがある。ものごとの本質をついている。また、文章を面白くする一つの技法でもある。)

《「ティッシュペーパーとトイレットペーパーを買うのはちっともかまわないわよ。当たり前でしょう。私が訊いているのは、どうして青いティッシュペーパーと、花柄のついたトイレットペーパーを買ってきたりしたのよ」》

《「私は青いティッシュペーパーと、柄のついたティッシュペーパーが嫌いなの。知らなかった?」
「知らなかった」と僕は言った。「でもそれを嫌う理由は何かあるのかな?」
「どうして嫌いかなんて、私も説明できないわよ。おなただって(…中略…)でしょう。それはただの好き嫌いよ」 
「結婚してからこの六年間に青いティッシュペーパーと、柄のついたトイレットペーパーをただの一度も買わなかったのか?」
「買わなかった」とクミコはきっぱりと言った。
「本当に?」
「本当によ」
 僕にとってもそれは驚きだった。》

 こういう細部を豊富にもっている村上作品は、単なるエンターテインメントではない。人間やこの世界の問題について考えるために読む〈文学作品〉なのだ。


 

『ねじ巻き鳥クロニクル』をはじめて読んだときの感想

 まず、手はじめに、何でもいいや。『ねじ巻き鳥クロニクル』をはじめて読んだときの感想はこんなふうだった。(2006年9月22日付ブログ、このブログはいまは廃止になった。) 

◇『ねじまき鳥クロニクル』を読み終える 2006/09/22
 ようやく全3冊を読み終えた。間に何冊か他の本を挟んだりしながら読み進み、3か月くらいかかったか。
 村上作品に通じているわけではなく、一度通読しただけだから、作品評などできない。ただ、非常に面白く読めたので、思いつく限りの感じたことや思ったことを書いてみたい。
『海辺のカフカ』もそうだったが、この作者の作品は、謎に満ちていて、奇怪でわけのわからない、読んで何を意味しているのか、何を書こうとしているのか、理解が難しく、想像をふくらませるものがある。というのもいろいろな出来事が深いところで繋がりあっていて、何やら意味ありそうな構造になっているようだけれども、作者はそれを直接には説明しないままで終わる。
 言ってみるならシュールレアリズム的(超現実主義的)な内容の話であるが、文章上は非常にわかりやすく読みやすい。
 いろんなものが絡み合って謎に満ちた話であるにもかかわらず、わかったような思いで面白く読み進めていける。不可解に思いながら、謎を解こうという好奇心によって、読んでしまえるのだ。

◇まず何よりも文章が平易でわかりやすいという点
 個々の部分の文章は具体的でわかりやすく秩序だっている。きわめて日常的な細々したことを日常的な言葉で書いているといったタッチ。
 独特のリズムがあるのだろうか。快く楽しいと感じながら、エンターテインメント的に快適に読むことができる。
 しかも日常の平易な描術が流れていくあいまに、ユニークな人間観察や深刻な問題や恐ろしい謎が入り込んでくる。

《台所でスパゲッティをゆでているときに、電話がかかってきた。僕はFM放送にあわせてロッシーニの『泥棒かさささぎ』の序曲を口笛で吹いていた。スパゲティーをゆでるにはまずうってつけの音楽だった。
 電話のベルが聞こえたとき、無視しようかとも思った。スパゲティーはゆであがる寸前だったし、クラウデイオ・アバドは今まさにロンドン交響楽団をその音楽的ピークに持ちあげようとしていたのだ。しかしやはり僕はガスの火を弱め、居間に行って受話器をとった。新しい仕事の口のことで知人から電話がかかってきたのかもしれないと思ったからだ。》

《結局猫を探しに行くことにした。(……)僕は薄手のレインコートを着た。傘は持たないことにした。テニスシューズを履き、レインコートのポケットに家の鍵とドロップを幾つか入れて家を出た。》

といった具合。
 進行する話と直接関係がないと思われるような具体的詳細(日常的な行為)が、几帳面に書き込まれている。これも村上作品の特徴で、一つの魅力を作りだしているようだ。それが主人公への親しみをわかせ、作品世界に実在感を与える効果をもつのだろう。


◇ねじ巻き鳥とは何か?  現実世界に滲出する奇怪な世界
 けれどもそんな日常的な文章の中へ、少しずつ奇怪な幻想の世界が滲出してきて、読みすすむうちに物語はしだいに佳境に入っていく。本当はとんでもない恐ろしい世界がそこで展開されているのだ。

 ねじまき鳥とは何か。それは文章のあちらこちらで短く顔を出す。
 最初の記述はこんなふうだ。

《近所の木立からまるでねじでも巻くようなギイイイッという規則的な鳥の声が聞こえた。我々はその鳥を「ねじまき鳥」と呼んでいた。クミコ(妻)がそう名づけたのだ。本当の名前は知らない。どんな姿をしているのかも知らない。でもいずれにせよねじまき鳥は毎日その近所の木立にやってきて、我々の属する静かな世界のねじを巻いた。》

 この鳥はねじを巻いて世の中の動きを推し進めている、人々はねじの推進力で日々の営みを営んでいる。生きることへの推進力が自分の中に欠乏している悲しさ、物憂さの中で、ただねじを巻かれたように淡々と日々の営みを営んでいく、そんなイメージだろうか。最初に思ったのはそんなこと。

 読みすすめるうち、どうやらそれは違うようだ、と気づく。
 人間が生きているこの世界の背後には、何かしら理不尽で恐ろしい世界があって、ねじ巻き鳥はその世界に由来する破壊的で暴力的な力のようなものをあらわしているようだ、と。
『海辺のカフカ』も、今にして思うと、まさにそういう恐ろしい人間の暴力性を主題とする作品だったのだとうなずかれる。
 知る前には、村上春樹というと、都会の孤独と悲しみを書き、何となく甘く優しい印象がある作家だろうかと思っていたが、どうやら彼の中にはとてつもない怪物が住んでいたのだな、彼はいよいよそれと本格的に取り組み始めたのだな、と知らされる。
 
 『ねじまき鳥』について作者の頭にあった核心は、中国大陸(ノモンハン)での戦争や数々の恐ろしい事件についての衝撃だったのだろう。人間(日本人)がなしうる残虐行為といったものへの衝撃。それを平和で安穏とした現在の世界とどう係わらせるか。その一つの装置として、彼は古びて涸れた「井戸」を登場させる。中国大陸で兵士や動物園の園長などが体験した恐ろしい残虐な行為。(それを描く作者の文章の力は見事で凄いというほかない。とても読み続けられないと思われるほど。)それが大陸の古井戸と主人公の家のすぐ近くにあった古井戸を通して繋がるという設定。戦争時代にあった世界が現在の世界に滲出してきて、強い影響を与えるという超現実的な話だ。その結果、飼い猫がいなくなり、妻が失踪をし、主人公が理不尽でわけのわからない暴力をふるったりする。

◇自分がしたくない恐ろしい行為をする状況
 作者が特に書こうとしたのは、自分が望まないのに(非常に嫌だと思うのに)暴力をふるわなければならない(人や動物を撲殺しなければならない)、上からの命令や義務感などからそうせざるをえない、そういう立場に追い込まれた人間の行動、という問題だったのではないかと思う。『海辺のカフカ』でも、主人公のカフカ少年がアイヒマンについての本を読む場面があった。アイヒマンは強制収容所でユダヤ人の大量虐殺を遂行した担当者だ。ある意味では非常に忠実で優秀な職務遂行者だった。これは作者にとって基本的な問いの一つだったのだろう。
 こういうことは、日常のわれわれの地域社会、職場社会のなかでも、起こりうることではないだろうか。
(残虐な行為という形ではなくても、職務上、あるいは役割上、自分が望まないことを人に対してするようなことがあるのではないか。)
 
 ねじまき鳥が登場するのは他でもないそういうときだ。ねじまき鳥がギイイイッとねじを巻くと、人は自分がしたくない恐ろしい行為をしなければならなくなる。みずからまったく望まないのに自動的にねじを巻かれた人形みたいに残虐な行為を行う。その息苦しいさまがあのように真に迫って詳細に書ける、あれは真似ることのできない凄い腕前だ、と思う。……


ショーペンハウエル『幸福について』(角川文庫、石井正、石井立訳)

 ◇賢者と愚人
《だいたいわかりきったことだが、昔から賢者は常に同じことをいってきたし、愚人も――いうまでもなく昔から彼らが世の人の大部分なのだが――常に同じこと、つまり賢者の言葉とは正反対のことをやってきた。しかも、それは今後もそのまま繰りかえされることだろう。ヴォルテールはいっている。「わたしたちのやってきたとき、この世の中には、無知と意地悪とが満ちていたが、それはわたしたちの立ち去ってゆくときにも変わるまい。」》(ショーペンハウエル『幸福について』角川文庫、石井正、石井訳)

 こういう書き方(少数の賢者と多数の愚人というような)は、ショーペンハウエルが生きた時代には、ごく一般的な風潮だったのではないか。こういう表現にはそれなりに率直な真実性があり、またたしかに魅力的でもあったのだろ思うのだ。(ただ、現代という時代には、あるていど違和感があることは否めない。違和感があるものの、それでもその文章には、独特の高踏的な調子、敵対する者たちを論破し揶揄する調子が込められているのである。)

◇人は
《すべての人は、直接には、その独自の表象・感覚及び意欲の動きに伴って行為しているわけで、外界の事態は、それが人の表象・感情・意欲の動きの原因となり得るかぎりにおいて、人に影響を与えるばかりだ。すべての人の生きる世界は、先ずもってその人がその世界をどう考えているかに依存し、なおその人の頭脳の相違によって、その方向が異なってくる。この頭脳に応じて、世界は貧弱・無趣味・平凡なものともなれば、また豊富な・興味深い・有意義なものとなる。》
《例えば、多くの人が、他の人が生きているうちに遭遇した事件などを見て、あの人は興味ある事件に出会ったものだといって羨ましがることがあるけれど、実はむしろ彼らは、その人がそのような事件などを記述するうちに、それに深い意味をもたせた理解力をこそほめたたえ、羨んでしかるべきなのだ。何といっても、同一の事件が、精緻な頭脳の持主には甚だ興味深く表現されるのに、浅薄な・平凡な頭脳につかまえられては、ただのありきたりな世の中の気の抜けた一場面に過ぎないものになってしまう。このことを最も著しく証明しているのは、ゲエテやバイロンの数多い詩で、これは明らかに現実の出来事に基づいているものだ。ところで、愚かな読者は、詩人が、日常茶飯事から、かくも偉大な美しいものを作り上げることのできた力強い空想力について羨むまでには至らず、すべての人からかくも持てはやされるようになった事件に出逢ったことを羨むのがせいぜいなのだ。》
《人間のために存在したり・生起したりする総べてのことは、直接には常にただ人間の意識のうちに存在し、意識において生起するだけだから、意識そのものの性状が、最も本質的なものであって、多くの場合に、意識のうえに現われる形象などより、この性状の方が一層大切だということは明白である。たとえば、或る愚物の鈍重な意識に映じた・ありとあらゆる豪奢や享楽などは、セルバンテスがあの不快な牢獄の中で「ドン・キホーテ」を草した際の意識と較べれば、はなはだみすぼらしいものという外はない。》
《現実と真実との客観的半面は運命の手中にあり、従って変化するが、主観的半面はわたしたちそのものであり、本体的なものであるから、不変である。だから、すべての人間の生涯は、外界のあらゆる変遷にもかかわらず、同一の性格を一貫して持ちつづけ、いわば一つの主旋律にもとづく一系列の変奏にも似通ったものなのである。誰でも自分の個性からは脱け出し得ない。》
《要するに、最も高尚な・最も多彩な・最も持続的な享楽は――わたしたちが青年時代に、どんなにかこれに就いて思い違いしようとも――精神的享楽であり、精神的な享楽は主として精神的な力量に従属する。――以上のことから、わたしたちの幸福がどれほど強く、私たちが在るもの・わたしたちの個性に従属しているかがはっきりするだろう。にもかかわらず、たいていの人はわたしたちの運命のみを、わたしたちの持つものやわたしたちの表象するものばかりを、勘定に入れている。運命はもっと好転するかも知れないし、それに人は、内面の豊饒さに応じて、運命からさほど多くのものを要求しないで済むだろう。だが、最後まで愚人は愚人、鈍物は鈍物で終り、臨終の際までも、キリスト教の天国に蘇り回教大国の美女たちに囲まれたいと願ったりするのだ。だから、ゲエテはうたう。
  民も、農奴も、陶酔者たちも
  しみじみという、いずれの時にも
  地の子らの試行の福(さいわい) ただ
  人の天稟にあるばかりだ と     (西東詩篇)》
            
 ショーペンハウエルの文章は素晴らしい楽しみを精神に与える。ただ、あまりにも豊富、豊饒すぎて、読むのがしんどい。あらゆる行、あらゆる部分に、素晴らしい考察、意見、洞察が充ち満ちている。どの行も書く写して記憶に残したい、座右の銘にしたい、と思う。それがあまりにも多すぎて、書き写していると、前に読み進めない。 


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