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  • 2015.07.11 Saturday
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ミセス・ガードナー  〜オースティンの書いた面白い人物〜

 ジェイン・オースティンの「高慢と偏見」(「自負と偏見」とか「傲慢と偏見」とか、いろんな訳がある)は私のもっとも愛好する文学作品の一つ。
 
 その中にいろんな魅力的な文章があるが、今日は、ミセス・ガーディナーのことをちょっと引用したい。

 主人公のエリザベスミスタ・ダーシーに心を引かれているが、微妙な事情があってそれを人に隠している。 ミセス・ガーディナーは、エリザベスミスタ・ダーシーの間には何かがあると疑っているが、いろいろ詮索してもはっきりした根拠は得られない。
 
 エリザベスはそれを人に悟られたくないと思っている。  ミセス・ガーディナーは、エリザベスのそんな心理を感じ取るのか、そのことについては、何も質問しない。けれども彼女は何よりもそのことを知りたくてならないのだ。  とても知りたいが、それについて尋ねることができない、という状態にある人の、好奇心。…  それがとても面白い形で示されている。
 
(ジェイン・オースティン「自負と偏見」新潮文庫、中野好夫訳から)
 
《帰る途々、ミセス・ガーディナーとエリザベスは、訪問中の出来事すべてについて、話し合ったが、どうしたわけか、とくに二人とも興味をもったあること(=ミスタ・ダーシーのこと)についてだけは、一言も話題にしなかった。会った人たちみんなの容貌、態度、もちろんそれは話に出たが、ただ一番観察したはずのある人(=ミスタ・ダーシー)についてだけは、ついにどちらも口にしなかった。その人の妹、その人の友人、そしてその人の家、果物等々、出ない話題はなかったが、ただ出ない唯一は、その当人の話だけ。そのくせ、事実エリザベスが、一番知りたがっていたのは、果たしてその人のことを、ミセス・ガーディナーはどう思ったかということであり、ミセス・ガーディナーもガーディナーで、これまた早くエリザベスが、その話に入ってくれればいいのにと、しきりに待っているのだった。》

《ところで、ミセス・ガーディナーは、あの例の場所から持ち越していた、エリザベスとあのダーシーに関する謎、それは結局、そのまま持って帰ることになった。みんなの前で、彼の名前が、自発的にエリザベスの口から洩れたことは、ついぞ一度としてなかった。》


  文章はある一定の事実をただ記すのではなく、作家の精神によって(形作られる)ものである。  例えばある心の動き、様子(事実)を書くとき、文章による一つの面白い形が形成される。  そういう(面白い形)は、作家の感性によって、自然と感知されて、紡ぎ出されるのである。

ジャガースさんの頑固な無口…

 チャールズ・ディケンズ『大いなる遺産』に、法律家のジャガーズさんという人物が出てくる。
 この人物がとても面白い。イギリス(小説)的というのだろうか(?)
  (ジェイン・オースティンの作品にも通じるものがあるような気がする。)  

《「わたしはあの邸内におけるジャガーズさんの、頑とした無口ほどの無口を、彼の場合にすらいままでいちども見たことがない。彼は、自分の手もとばかり見ていて、食事中ほとんどいちどもエステラの顔に目をむけなかった。彼女が彼に話しかけると、彼はじっとそれをきいていて、やがて返事をした。だが、わたしの知ってるかぎり、いちども彼女を見はしなかった。一方、彼女は邪推でないまでも、興味と好奇心をもって、なんども彼を見た。だが、彼はわたしとの会話で、わたしの遺産相続の見込みになんどとなく話をもっていっては、サラ・ポケットをいよいよ青ざめさせ、ますます黄色にさせて、何食わぬ顔をして、よろこんでいた。でも、それにもまた気づいているような様子はすこしも見せず、そればかりか、そうした話を無心なわたしに、むりやりさせたように見せかけさえした。》

 どうしてこのような、ユニークで面白い人物が出てくる(発想される)のだろうか?  そう思うのは、そこに独特のユーモア、真似ることができないようなおもしろさがあると感じるから。

 もちろん、現実社会の観察がその根底にあるのだろう。けれども、それだけではない。 
 作者固有の独特の視点。――笑いの視点とでもいうか……


母・セリューズ夫人――『ドルジェル伯の舞踏会』(新潮文庫、生島遼一訳)

 しばしば、彼女に向うとフランソワは自分の快楽を後悔するような気持になったものだ。が、この朝彼ば昨夜の出会いがあまりうれしく、たとえそれとはなしでもいいその話をしたい気持が非常につよくて、ついロバンソンヘ行ったことをしやべった。同時に彼はもしたずねられたらあの村の様子をどう説明していいかにおれば困るぞと思った。しかしロバンソンはフォルバック夫人にかぎりない追憶をよびさました。質問するどころか、彼女の方からいろいろとしやべった。

 フランソワ・ド・セリューズはこういう追憶をよく知つている。フオルバック家では話題はもうきわめて限られていた。いつも同じなのだ。が、そういう話はフランソワには町で聞くゴシップから頭を休めてくれるのだ。あまり何度も聞かされたこの思い出は、今ではほとんど彼の思い出のようになっていた。アドルフ・フォルバックなど、自分の生れる前に行われたそういう郊外遊びに自分も加わっていたと確信しているほどだ。

 しまいには、母と息子の前にいるのでなく、老夫婦の前にいるような気がした。

 この夫婦はじつにうまくその不具な生活をやりくりしていた。その幸幅をいかにうまく処理しているかは、フランソワを驚かしていた。何一つ必要としないこの二人の人間から彼は深い教訓を汲みとった。かりに眼が見えたとして、それがフォルバック夫人に何の役にたつだろう? 彼女は思い出で生きていた。彼女が大切に思っているものはすべてそらで知っていた。ときどき、フランソワは彼女のそばに腰かけて、セリューズ氏の写真の入ったアルバムをはぐることがある。彼の母はそういうものを彼にかくしていた。というのは、彼の父は海軍士官で、海で死んだからだ。セリューズ夫人は息子にそういう呪われた職業に趣味をもたす心配のありそうなものは一切遠ざけていた。フォルバック夫人は父の形見を息子に見せまいとするセリューズ夫人のやり方をあまりいいと思っていない。つまり、彼女は母親の不安というものを知らなかったのだ。世間の母達がおそれているような事柄でさえ、彼女にはとうてい望みえない幸福であったろう。わが子のアドルフは一人ではこの人生に一歩だってふみ出せないのだったから。

 フランソワは、アルバムのぺージをはぐりながら、そういう写真が目に見えないながら一つ一つ心に刻みつけているフォルバック夫人が、透視術の女のように、「それはあなたのお父さんの四つのとき、これは十八のとき。それは船の上でとった最後のッ写真、うちへ送ってくださったの」などというのを聞くと、感動した。

(おれは父とはうまく気が合ったろうな)と彼は嘆息した。この嘆息は母にあてつけてするのでなかった。気が合う、会わないというには、共通の関心がなければならない。ところで、セリューズ夫人の生活はあらゆる意味で《内面》のものであり、息子の生活は外的でその花弁を開いていた。セリューズ婦人の冷やかさは深いつつましやかさにほかならない。あるいはまた、自分の感情をむき出しにすることの不可能ともいえる。世間では彼女を無感動なひとと信じ、息子までが母親をよそよそしいと思っていた。セリューズ夫人は息子が可愛くてたまらない。が、二十歳で寡婦となり、フランソワに女性的な教育をあたえることをおそれて、自分の心の白然なはたらきをおさえてしまった。一家の主婦は屑にして捨てられるパンを黙って見すごせない。セリューズ夫人にとっては、愛撫は心のむだな浪費のごとく思われ、犬きな感情を弱めてしまうものような気がしていた。  

 フランソワは、母というものが別なものでありうるなぞと想像できないうちは、この偏りの冷やかさのために少しも苦しむことはなかった。が、多くの友達ができると、杜交の世界で偽りの熱情を見せられることになった。こういう誇張された熱情をフランソワは自分の母の態度と比較して、そして悲しい気持になった。こうして、この母とこの息子たがいの心を少しも知らずに、べつべつに嘆いていた。顔をつきあわせると、二人とも冷ややかになった。いつも夫がいたらこうしたSろうという態度をかんがえているセリューズ夫人はけっして.涙を見せまいとレた。(二十歳になった男の子が母から遠ざかるのは当然じゃないだろうか? 勇気をもたなくっちゃ)と彼女は思った。そして、フランソワの子としての悩みは、やはりセリューズ夫人がこさえているこの法則にならって、よそに慰籍をもとめていた。

 一つのことがフランソワ・ド・セリューズの心をみだすのだった。それはフォルバツグ夫人が彼の父のこどを話す、その話しぶりだ。夫人は彼の父をごく幼少の時から知っていたので、大きな予供あつかいにしているフランソワに、その父の予供のときを語るのである。同様に、フォルバック家の親しい人々、パリエール氏とかヴィグルース艦長などが(わたしはお父さんをよく存じ上げていましたよ)といい、彼の父のことをあたかも彼自身のこと、つまり大いに将来有望な人といった風に話すのであった。

 フランソワ・ド・セリューズはこの老人連中のあいだではかなり大きな信用があった。彼はこの人達と青春を仲直りさせていたのだ。彼は老人たちのいうことをよ傾聴した。このお愛想のよさのために、将来有望だといってくれた。フオルバツク夫人の知人達は(これは今日の青年にありがちな気ちがい、狂った頭はない)と評判していた。その上、みんなは彼の謙遜なのに驚いていた。研究のことなどをたずねられると、彼はそれ答えず、話をす追憶談にもどしてしまうからだ。フォルバック家に来る人B医とは誰も、こんなに聴き上手の青年が怠け者だといっても承知しなかったであろう。

 


面白い人物像  ポール・ルバン  (レーモン・ラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』より

 ポール・ロバン   『ドルジェル伯の舞踏会』から(新潮文、生島遼一訳) 090909

 故ドルジェル伯欝をさぞ驚かしたと思われる招待客の中に、まず若い外交官のポール・ロバンをあげなければなるまい。彼はある種の家々に客にされるのを機会と考えている男だ。そして、この男にとって、ドルジェル家へ行くのは最大のチャンスなのであつた。彼は人間を二種に分類していた。一方はリュニヴェルシテ街の宴会に招かれる人々、他方はそうでない人々という風に。この分類は彼がものに感心する場合に抑制することさえあつた。彼は一番仲のいい友人のフランソワ・ド・セリユーズにもやはりそういう態度をとる。この友が自分の名についたde(ド)を少しも利用しようとしないのを心ひそかに非難していた。かなり単純な人間であるポール・ロバンはいつも自分を標準に他人を判断するのが癖だ。フランソワがドルジェル夫妻をべつに異常なものとも思わぬことや、少しも無理をして近づこうとしないのが、彼には理解できなかった。もつとも、ホール・ロパンは現在のこのような自分勝手に考えているおのれの優越さで得意だつたし、こういう状態を終らせるような試みはしたことがないのだ。

 この二人の友達ほど、かけはなれた二人の人間を想像することはできない。しかも、二人はたがいが似ているから友達になつたのだと思っていた。つまり、かれらの友情ができる範囲のことで、たがいに似るように強いていたということなのだ。
 ポール・ロバンの偏執は《成功する》ということだった。他人(ひと)は自分を待っていてくれるといった錯覚を普通人はもっているのに、ポールは汽車に乗りおくれそうだと思っていつもぢだんだふんでいた。彼は《役割》というものを信じ、何か一と役演じることができるものと思っていた。
 十九世紀の発明であるこのような愚かしい文学を一切すててしまったら、彼もどんなに魅力のある人間だったろう!
 しかし、深奥な性質を感じることができず、ただ仮面にだまされがちな人々は、動く砂に足をとられるのがこわくて、どんどん思いきって歩く勇気がない。ポールはある一つの像をうまく身につけたと信じている。事實は、ただおのれの短所を克服しないで満足しているにすぎなかつた。こうした雑草が少しずつ彼を侵してしまったので、実際は弱気でそうしているにすぎないくせに、これは政策的にやっているのだと他人に思わせとくのが便利だとかんがえるようになった。卑法だといっていいほど慎重な彼がいろんな場所に出入りした。どんなところにも一本足をつっこんでおくべきだと思っていた。こういうやり方ではとかく平衡を失いやすいものだ。ポールは自分をつつしみ深いと思っているが、要するに、こそこそとつまらぬかくし立てをしあるいているにすぎない。こうして彼は生活をいくつかの仕切りに分けていた。自分だけが一つの仕切りからも一つの方へ自由にうつりうると思っている。世界は小さいもので、どういう場所ででも出会うことがあるものだということを彼はまだ知らなかった。今夜はどうしてすごすのだとフランソワ・ド・セリユーズにたずねられると《ちょっとある人のところへ招待されているんでね》とこたえる。この《ある人》は彼にとっては《おれのひと》という意味だ。そういう人々は彼のものなのだ。彼はそれを獨占している。一時間後に、その晩餐会でセリユ…ズにひょっこり出会ったりするのだ。が、こんな隠し立てでちよいちよい失敗をしながらも、彼はこんなやり方をやめることができなかった。
 これと反対に、セリユーズは無頓着そのものだった。彼は二十歳だ。その年齢と無為の生活にもかかわらず、彼はしっかりした年長者に信用されていた。いろんな点でかなり没常識ではあるが、あまりな無てっぽうをやらぬ常識があった。この男を早熟というのばおよそ不正確だ。あらゆる年齢にはそれぞれの果実がある。それをうまく収穫することが大切だ。しかし、若い者たちはもっとも手のとどきにくい果実を早くとろうとあせり、はやく大人になろうとあせるあまり、目のまえにある果実を見落すのだ。
 一と口にいって、フランソワは正確に彼の年齢なのだ。さて、あらゆる季節の中で、春はもつともよく似合うと同時に、またもつともうまく着こなしにくい季節である。
 彼がそのそばにいて年をとった唯一の人間はポール・ロバンだった。二人はたがいにかなり悪い影饗をあたえあっていた。

 一九二〇年二月七日の土曜日、この二人の友は『メドラノ』曲馬へ出かけて行った。腕達者な道化の出演が劇場の客をこちらへひきよせていた。
 演芸ははじまっていた。道化の登場より観客の入場に気をつけているポールは、見知り顔を目でさがしていた。突然、彼は飛び上るように立った。
 二人のちようど正面に一組の男女が入ってきた。男の方は手袋でかるくポールにあいさつした。
「あれがそのドルジェル伯欝なのかい?」とフランソワはたずねた。
「そうだ」とポールは得意そうにこたえる。
「いつしよにいるのはだれ? 奥さんかい?」
「うん、マオ・ドルジェルさ」
 幕間になるがはやいか、ポールは悪事をはたらいた人間かなんぞのように混雑を利用してこそこそと出て行った。ドルジェル夫妻の姿をもとめてである。夫妻に会いたい、それも自分ひとりで会いたいのだ。
 セリユーズは廊下を一とまわりした後、フラテリニ兄弟の部屋の扉をおした。みんなは踊子の楽屋訪問をするようにこの楽屋へやって来た。
 あたり一面に人目をおどろかすような派手な品々が漂流物のように置かれていた。その本来の意義を失ってしまった品物だが、こういう道化役者たちの手元ではより高い意義をもつのだ。
 ドルジェル夫妻は、曲馬へ来た以上、どんなことがあってもこの道化役者の楽屋訪問をかかしたことがない。アンヌ・ドルジェルはこうやって自分の気さくな態度を見せるのだった。
 セリユーズが入ってくるのをちらと見た伯爵はすぐこの名前を彼の顔にあてはめた。伯欝はたとえ劇場のはしとはしとの座席からであろうと、一度見た人間ならちゃんと一人一人おぼえていた。自分からわざとそうするときのほか、まちがったり人名をとりちがえたりはけっしてしなかつた。
 彼は知らない人間に、言葉をかける習慣を父からうけついでいる。故ドルジェル伯爵は珍奇な動物あつかいにされることを快しとせぬ者達からたびたび不愛想な返事をされたことがあった。
 しかし、ここでは楽屋がせまくてたがいに知らぬ顔はできないのだ。ちょっとの間、アンヌは前から顔を見知っているというふりはせずに二言三言話しかけながら、セリユーズに小手調べをやった。しかし、フランソワの方ではそんな中途半端なあつかいに迷惑していること、これでは勝負は公平でないことがアンヌにわかった。そこで彼は妻の方をふりむいて「セリユーズさんは私達がこの方を存じあげているほどには、こちらを御存じじゃないらしいね」といった。マオはこの名はまだ一度も聞いたことがないのだ。が、夫のこうしたやり口には慣れていた。夫はセリユーズに微笑みかけながらつけくわえていった。
「ロバン君には、《お会いできる何かいい機会をつくってくれ》って、たびたびいっていたんですよ。私達の意向をちゃんとつたえてくれなかったとみえますね」
 平素からその悪い癖を知っているポールとフランソワが仲よくいっしょにいるのを見た矢先だから、お愛想そのままの嘘をいった。二人でロバンの影でちょこまかする癖を笑った。あの男をいっぱいかついでやろうじゃないか、ということになった。アンヌ・ドルジェルとフランソワはずっと以前からの友人同士といった顔をしようと、二人のあいだで相談ができた。
 この罪のないいたずらが友情の前置きのような手数をはぶいてくれた。アンヌ・ドルジェルは、初めてでもないフランソワに曲馬の厠舎をまるで自分のものを見せるような態度で案内したがった。
 ときどき、彼女の方で気づくまいと思うときに、フンソワはドルジェル夫人にちらっと一瞥をおくつた。彼は彼女を美しくて、ひとを軽蔑しているようで、うわのそらといった感じだと思った。実際、うわのそらだった。彼女の心を夫思いの愛情からわきにそらせるものはほとんど何もなかったから。彼女の話しっぷりにはどこか荒々しいところがあった。このどこか峻(きび)しい優雅さをもつ声は、深く考えない者には、しゃがれた、男みたいな声のように思えるのだ。顔の造作以上に、声は血続をあらわすものである。一方、同じような単純さから、アンヌの声を女性的だと思う人もある。彼は家代々ゆずられた声、あの芝居の方にのこっている裏声のもちぬしだった。

 お伽話を実地に生きることはべつに人を驚かさない。ただその思い出のみがわれわれにこの世のものならぬ不思議を発見させるのだ。フランソワは自分とドルジェル夫妻との出会いがどれほど小説的であったかが十分理解できなかった。いっしょにポールをいっぱいかついだことが、かれらを急に親密にさせた。共犯者だという気がした。かれら自身が自分にだまされていたのである。なぜかといえば、自分たちがずっと以前から知り合いであるとポールに信じさせようとして、そのことをかれら自身が信じてしまったからだ。
 ペルが幕あいのおわったことを知らした。フンソワはドルジェル夫妻とわかれてまたポールのそばに行かねばならぬと憂鬱な気持で思っていた。アンヌが、《いっしよになるために》そばの誰かの席をあけさせようじゃないかといった。これで茶番はいよいよ面白くなりそうだ。

 ポールは遅れることが大きらい、すべて無益なことで人目につくのがきらいだ。彼は自分の考えより他人の考えをまず気にする。ドルジェル夫妻のそばへ行けなかったこと、途中で会ったつまらぬ人間をうまくさばくことができなかったことでむしやくしやしていた彼は、フランソワが席へもどってくるのが遅いので大いに御機嬢ななめだった。さて、三人そろって向うにならんでいる姿を見たとき、彼はおのれの眼を信じることができなかった。
 アンヌはいつも世界中の人間から知られているように行動する。ただ、父の老伯爵とはちがって、いい効果がおさめられるように愛嬌よくそれをやる。この自信というか無頓着なやり方が今度もうまく成功した。案内女にちょっと一言いっただけで、二人の観客の席をよそへうつすことができた。
 アンヌ・ドルジェルとセリユーズが仲よく対話しているということは、事の飛躍ということに慣れぬポールには、この二人がずつと以前からの知り合いだと想像させるのだった。やけに腹が立ち、いっぱい食わせられたという感じで、彼は自分の驚きをつとめてかくそうとした。
 アンヌ・ドルジェルが物事に熱中する能力は無限であった。曲馬へははじめて来た人のように見えた。しかしまた上演種目はよく知っているふりをせずにはおかない。矮人(こびと)がトラックの周縁(ふち)にあらわれると、さつきポールにむかってしたように、しきりに手をポール・ロバン   (ドルジェル伯の舞踏会)      090909
 故ドルジェル伯欝をさぞ驚かしたと思われる招待客の中に、まず若い外交官のポール・ロバンをあげなければなるまい。彼はある種の家々に客にされるのを機会と考えている男だ。そして、この男にとって、ドルジェル家へ行くのは最大のチャンスなのであつた。彼は人間を二種に分類していた。一方はリュニヴェルシテ街の宴会に招かれる人々、他方はそうでない人々という風に。この分類は彼がものに感心する場合に抑制することさえあつた。彼は一番仲のいい友人のフランソワ・ド・セリユーズにもやはりそういう態度をとる。この友が自分の名についたde(ド)を少しも利用しようとしないのを心ひそかに非難していた。かなり単純な人間であるポール・ロバンはいつも自分を標準に他人を判断するのが癖だ。フランソワがドルジェル夫妻をべつに異常なものとも思わぬことや、少しも無理をして近づこうとしないのが、彼には理解できなかった。もつとも、ホール・ロパンは現在のこのような自分勝手に考えているおのれの優越さで得意だつたし、こういう状態を終らせるような試みはしたことがないのだ。

 この二人の友達ほど、かけはなれた二人の人間を想像することはできない。しかも、二人はたがいが似ているから友達になつたのだと思っていた。つまり、かれらの友情ができる範囲のことで、たがいに似るように強いていたということなのだ。
 ポール・ロバンの偏執は《成功する》ということだった。他人(ひと)は自分を待っていてくれるといった錯覚を普通人はもっているのに、ポールは汽車に乗りおくれそうだと思っていつもぢだんだふんでいた。彼は《役割》というものを信じ、何か一と役演じることができるものと思っていた。
 十九世紀の発明であるこのような愚かしい文学を一切すててしまったら、彼もどんなに魅力のある人間だったろう!
 しかし、深奥な性質を感じることができず、ただ仮面にだまされがちな人々は、動く砂に足をとられるのがこわくて、どんどん思いきって歩く勇気がない。ポールはある一つの像をうまく身につけたと信じている。事實は、ただおのれの短所を克服しないで満足しているにすぎなかつた。こうした雑草が少しずつ彼を侵してしまったので、実際は弱気でそうしているにすぎないくせに、これは政策的にやっているのだと他人に思わせとくのが便利だとかんがえるようになった。卑法だといっていいほど慎重な彼がいろんな場所に出入りした。どんなところにも一本足をつっこんでおくべきだと思っていた。こういうやり方ではとかく平衡を失いやすいものだ。ポールは自分をつつしみ深いと思っているが、要するに、こそこそとつまらぬかくし立てをしあるいているにすぎない。こうして彼は生活をいくつかの仕切りに分けていた。自分だけが一つの仕切りからも一つの方へ自由にうつりうると思っている。世界は小さいもので、どういう場所ででも出会うことがあるものだということを彼はまだ知らなかった。今夜はどうしてすごすのだとフランソワ・ド・セリユーズにたずねられると《ちょっとある人のところへ招待されているんでね》とこたえる。この《ある人》は彼にとっては《おれのひと》という意味だ。そういう人々は彼のものなのだ。彼はそれを獨占している。一時間後に、その晩餐会でセリユ…ズにひょっこり出会ったりするのだ。が、こんな隠し立てでちよいちよい失敗をしながらも、彼はこんなやり方をやめることができなかった。
 これと反対に、セリユーズは無頓着そのものだった。彼は二十歳だ。その年齢と無為の生活にもかかわらず、彼はしっかりした年長者に信用されていた。いろんな点でかなり没常識ではあるが、あまりな無てっぽうをやらぬ常識があった。この男を早熟というのばおよそ不正確だ。あらゆる年齢にはそれぞれの果実がある。それをうまく収穫することが大切だ。しかし、若い者たちはもっとも手のとどきにくい果実を早くとろうとあせり、はやく大人になろうとあせるあまり、目のまえにある果実を見落すのだ。
 一と口にいって、フランソワは正確に彼の年齢なのだ。さて、あらゆる季節の中で、春はもつともよく似合うと同時に、またもつともうまく着こなしにくい季節である。
 彼がそのそばにいて年をとった唯一の人間はポール・ロバンだった。二人はたがいにかなり悪い影饗をあたえあっていた。

 一九二〇年二月七日の土曜日、この二人の友は『メドラノ』曲馬へ出かけて行った。腕達者な道化の出演が劇場の客をこちらへひきよせていた。
 演芸ははじまっていた。道化の登場より観客の入場に気をつけているポールは、見知り顔を目でさがしていた。突然、彼は飛び上るように立った。
 二人のちようど正面に一組の男女が入ってきた。男の方は手袋でかるくポールにあいさつした。
「あれがそのドルジェル伯欝なのかい?」とフランソワはたずねた。
「そうだ」とポールは得意そうにこたえる。
「いつしよにいるのはだれ? 奥さんかい?」
「うん、マオ・ドルジェルさ」
 幕間になるがはやいか、ポールは悪事をはたらいた人間かなんぞのように混雑を利用してこそこそと出て行った。ドルジェル夫妻の姿をもとめてである。夫妻に会いたい、それも自分ひとりで会いたいのだ。
 セリユーズは廊下を一とまわりした後、フラテリニ兄弟の部屋の扉をおした。みんなは踊子の楽屋訪問をするようにこの楽屋へやって来た。
 あたり一面に人目をおどろかすような派手な品々が漂流物のように置かれていた。その本来の意義を失ってしまった品物だが、こういう道化役者たちの手元ではより高い意義をもつのだ。
 ドルジェル夫妻は、曲馬へ来た以上、どんなことがあってもこの道化役者の楽屋訪問をかかしたことがない。アンヌ・ドルジェルはこうやって自分の気さくな態度を見せるのだった。
 セリユーズが入ってくるのをちらと見た伯爵はすぐこの名前を彼の顔にあてはめた。伯欝はたとえ劇場のはしとはしとの座席からであろうと、一度見た人間ならちゃんと一人一人おぼえていた。自分からわざとそうするときのほか、まちがったり人名をとりちがえたりはけっしてしなかつた。
 彼は知らない人間に、言葉をかける習慣を父からうけついでいる。故ドルジェル伯爵は珍奇な動物あつかいにされることを快しとせぬ者達からたびたび不愛想な返事をされたことがあった。
 しかし、ここでは楽屋がせまくてたがいに知らぬ顔はできないのだ。ちょっとの間、アンヌは前から顔を見知っているというふりはせずに二言三言話しかけながら、セリユーズに小手調べをやった。しかし、フランソワの方ではそんな中途半端なあつかいに迷惑していること、これでは勝負は公平でないことがアンヌにわかった。そこで彼は妻の方をふりむいて「セリユーズさんは私達がこの方を存じあげているほどには、こちらを御存じじゃないらしいね」といった。マオはこの名はまだ一度も聞いたことがないのだ。が、夫のこうしたやり口には慣れていた。夫はセリユーズに微笑みかけながらつけくわえていった。
「ロバン君には、《お会いできる何かいい機会をつくってくれ》って、たびたびいっていたんですよ。私達の意向をちゃんとつたえてくれなかったとみえますね」
 平素からその悪い癖を知っているポールとフランソワが仲よくいっしょにいるのを見た矢先だから、お愛想そのままの嘘をいった。二人でロバンの影でちょこまかする癖を笑った。あの男をいっぱいかついでやろうじゃないか、ということになった。アンヌ・ドルジェルとフランソワはずっと以前からの友人同士といった顔をしようと、二人のあいだで相談ができた。
 この罪のないいたずらが友情の前置きのような手数をはぶいてくれた。アンヌ・ドルジェルは、初めてでもないフランソワに曲馬の厠舎をまるで自分のものを見せるような態度で案内したがった。
 ときどき、彼女の方で気づくまいと思うときに、フンソワはドルジェル夫人にちらっと一瞥をおくつた。彼は彼女を美しくて、ひとを軽蔑しているようで、うわのそらといった感じだと思った。実際、うわのそらだった。彼女の心を夫思いの愛情からわきにそらせるものはほとんど何もなかったから。彼女の話しっぷりにはどこか荒々しいところがあった。このどこか峻(きび)しい優雅さをもつ声は、深く考えない者には、しゃがれた、男みたいな声のように思えるのだ。顔の造作以上に、声は血続をあらわすものである。一方、同じような単純さから、アンヌの声を女性的だと思う人もある。彼は家代々ゆずられた声、あの芝居の方にのこっている裏声のもちぬしだった。

 お伽話を実地に生きることはべつに人を驚かさない。ただその思い出のみがわれわれにこの世のものならぬ不思議を発見させるのだ。フランソワは自分とドルジェル夫妻との出会いがどれほど小説的であったかが十分理解できなかった。いっしょにポールをいっぱいかついだことが、かれらを急に親密にさせた。共犯者だという気がした。かれら自身が自分にだまされていたのである。なぜかといえば、自分たちがずっと以前から知り合いであるとポールに信じさせようとして、そのことをかれら自身が信じてしまったからだ。
 ペルが幕あいのおわったことを知らした。フンソワはドルジェル夫妻とわかれてまたポールのそばに行かねばならぬと憂鬱な気持で思っていた。アンヌが、《いっしよになるために》そばの誰かの席をあけさせようじゃないかといった。これで茶番はいよいよ面白くなりそうだ。

 ポールは遅れることが大きらい、すべて無益なことで人目につくのがきらいだ。彼は自分の考えより他人の考えをまず気にする。ドルジェル夫妻のそばへ行けなかったこと、途中で会ったつまらぬ人間をうまくさばくことができなかったことでむしやくしやしていた彼は、フランソワが席へもどってくるのが遅いので大いに御機嬢ななめだった。さて、三人そろって向うにならんでいる姿を見たとき、彼はおのれの眼を信じることができなかった。
 アンヌはいつも世界中の人間から知られているように行動する。ただ、父の老伯爵とはちがって、いい効果がおさめられるように愛嬌よくそれをやる。この自信というか無頓着なやり方が今度もうまく成功した。案内女にちょっと一言いっただけで、二人の観客の席をよそへうつすことができた。
 アンヌ・ドルジェルとセリユーズが仲よく対話しているということは、事の飛躍ということに慣れぬポールには、この二人がずつと以前からの知り合いだと想像させるのだった。やけに腹が立ち、いっぱい食わせられたという感じで、彼は自分の驚きをつとめてかくそうとした。
 アンヌ・ドルジェルが物事に熱中する能力は無限であった。曲馬へははじめて来た人のように見えた。しかしまた上演種目はよく知っているふりをせずにはおかない。矮人(こびと)がトラックの周縁(ふち)にあらわれると、さつきポールにむかってしたように、しきりに手をふった。

 


ウェミック ―法律事務所職員―

以下『大いなる遺産』から引用
   (チャールズ・ディケンズ、山西英一訳、新潮文庫)〜


「ウェミックさん」と、わたしはいった、「ひとつあなたの意見を聞かしていただきたいんですがね。ぼくは、ある友だちをぜひ助けてやりたいと思ってるんです」

 ウェミックは、そんな手もつけられん気弱い話なんか絶対反対だといわんばかりに、郵便ポストの口をぐっとしめてしまって、首を振った。

「その友だちというのはね」と、わたしは言葉をつづけた。「商業界にのりだそうとしてるんですがね。金がないんで、はじめることができないでがっかりしてるんです。で、ほくなんとかしして助けてのりださしてやりたいんです」

「金を少しだしてですかね?」と、ウェミックは鋸屑(おがくず)よりももっとかさかさな調子でいった。

「少しは金をだしてです」と、わたしはこたえた。家においてある、あのきちんとそろえてつかねた書付けの束の不安な幻が、ちらっと頭をかすめ去ったからである。「多少の金はだして、それから、ぼくが遺産を相続するということを多少見こんでです」

「ピップさん」とウェミックはいった。「ちょっとですね。あのチェルシー・リーチ辺までのいろんな橋の名を、わたしのこの指でひとついっしょに数えあげてみましょうよ。ええと、まずロンドン橋が一つと、…(略)…」彼は金庫の鍵の柄をてのひらにあてて、橋を一つ一つ、じゅんじゅんに数え上げた。

「そら、六つもありますよ、どれを選ばれるにしてもね」

「いったいなんのことか、おっしゃることがさっぱりわかりませんよ」と、わたしはいった。

「橋をひとつえらんでですね、ピップさん」とウェミックはこたえた。「そこへ歩いていって、その橋の中央のアーチの上から、あんたのお金をテームズ川の中へ放りこんでごらんなさい。そうしたら、その金がどうなるかおわかりでしょう。…(略)…」

 彼は、こういっておいて、ものすごく大きな口をあけたので、新聞紙を投函することができるほどだった。

  …(略)…

「すると、あんたの意見としては」と、わたしは少しむっとしてたずねた、「人間はけっして――」

「――動産を友人に投資してはならぬ?」と、ウェミックはいった。「もちろん、してはなりません。その友だちをすててしまいたいというんでなかったらです……(略)……」

「で、そりゃ」とわたしはいった、「あんたの十分熟慮された上での意見なんですか、ウェミックさん?」

「そりゃ」と、ウェミックはこたえた。「わたしのこの事務所における熟慮の結果の意見です」

「ははあ!」と、わたしは、この辺に彼の抜け道があるんだなと思ったので、さらに問いつめるようにいった。「だが、ウォルワスでもそんなお考えでしょうかね?」(注 ウォルワス=ウェミックの住居)

「ピップさん」と、彼はまじめな調子でこたえた。「ウォルワスはウォルワス、この事務所は事務所ですよ。ちょうど年寄りとジャガーズさんとがちがうようにです。二つをいっしょくたにしちゃいけません。わたしのウォルワス気分は、ウォルワスでなくちゃわかりません。この事務所じゃ、事務所的な気分しかわかりません」

「わかりました」と、わたしはすっかりほっとしていった。「じゃ、ウォルワスヘおたずねします。きっとです」

「ピップさん」と、彼はいった、「どうぞいらしてください。私的な、個人的た資格でね」

 これはジャガーズさんの捉え方と同じ。

 仕事は仕事、仕事の自分と、私の自分をはっきりと分けている人間の二重性、複雑さが面白く書かれている。(もちろん、現実の人間はそんなにはっきりと分けられるものではない。本質的なことを誇張して書いている。ディケンズはそういう書き方をする。)


ジャガーズさん 〜ディケンズが創造した興味深い人物〜


 以下『大いなる遺産』から引用
    (チャールズ・ディケンズ、山西英一訳、新潮文庫)〜

 

「ぼくの恩人のことを、きよう教えていただけるんでしょうか?」

「いいや、そりゃだめだ。なにかほかのことを聞きたまえ」

「その秘密は、じきぼくに打ち明けてくださるでしょうか?」

「そいつはちよっとさしひかえてくれ」と、ジャガーズさんはいった。「それより、もっとほかのことを聞きたまえ」

 わたしは、あたりを見まわした。しかし、こうなると単刀直入に聞かないいわけにはいかなくなった。「何か――あの――いただけるんでしようか?」すると、ジャガーズさんは、「そうくると思ってたよ!」と、いかにも勝ち誇ったようにいった。そして、ウェミックに例の紙片をもってくるようにいった。ウェミックは、でてきて、それを手わたしして、引っこんだ。

 

「……わしは、前にも君にいったように、ほんの代理人にすぎないんだからな。わしは、命令されたとおりにやってるまでのことで、そのために謝礼を受けている。こんな命令なんか愚劣なことだと思ってるのだが、しかし、わしはその良し悪しについて意見をのべるように金をもらっているんじゃないのでね……

 わたしが、自分にこんなに寛大にしてくださる私の恩恵者に感謝の意を表しかけると、ジャガーズさんはそれをおしとめた。「わしはな、ピップ」と彼は冷然といった。「きみの言葉をひとに伝えるように金をもらっているんじゃないんだよ」それから、話をまとめあげたように、長い上着の裾をたくしあげ、まるで自分の靴が自分にたいして、陰謀でも計っているんじゃないかと怪しんでいるみたいに、眉を八の字によせて、靴を見つめながら、つっ立っていた。

 

「さあ、そうなると」と、ジャガーズさんは、このときはじめてその深く窪んだ黒い眼をわたしにぴったりむけていった。「わしたちは、はじめてきみの村で会った晩のことを思いださなくっちゃならん。あのとき、わしはきみになんといったっけかな?」

「あなたはあのとき、そのひとが現れるのは、何年後のことかもしれん、ておっしゃいました」

「そのとおりだ」と、ジャガーズさんはいった。「それがわしの返事だよ」

 

「そのひとがいよいよ姿をあらわしたら」と、ジャガーズさんは体をまっすぐに伸ばしながらいった。「君とそのひとは、ふたりできみの問題を決めたらいいんだ。そのひとが姿をあらわしたら、この問題に関するわしの役目はすんで、力もなくなるのだ。そのひとが姿をあらわしたら、わしはもうそのことについてはなにひとつ知らなくてもいいことになるのだ。わしのいうことはそれだけだよ」

 ずっと以前、この本を読んだとき(それ以来今日まで読み返していないけれども)、ジャガーズさんという人物の描き方をとても興味深いと感じた。
 ディケンズのどの作品に出てきたのだったか、『荒涼館』だったか『デイビッド・コパーフィールド』だったか、といろいろ探してみた結果、『大いなる遺産』にあった。

 仕事は仕事、金をもらってやっているのだからと割り切って、そのことが人間としての自分の意に染まないことであっても、冷厳な法律家として、判断し行動する。そういう状況をコミックに、面白く書いているのだが、人間的なものの本質が捉えられているから、単なるコミックにはならない。
 ジャガーズさんも、そこの職員ウェミックも、同じように割り切って、公と私を分離している。公では感情を殺すようにしているが、私では暖かい心に生きる。そこにおかしさと悲哀のようなものも感じさせる。
 


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