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座りっぱなしの弊害は喫煙に匹敵
- 2015.07.11 Saturday
- 雑記事(日記・つぶやき)
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- by jouhouko
座りっぱなしの弊害は喫煙に匹敵
原爆の忌まわしい歴史直視を チョムスキー教授
- 2015.03.02 Monday
- 歴史的興味
- 01:30
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- by jouhouko
2005年ころの新聞切り抜き(毎日新聞)の記事から。
「原爆の忌まわしい歴史直視を――マサチューセッツ工科大のチョムスキー教授に聞く――」
◆米国民の原爆感を知るショック
これはアメリカ人であるチョムスキー氏がアメリカ人の本質を知ったときのショック。でもわれわれ日本人のショックでもある。
16歳の時、彼(チョムスキー少年)はフィラデルフィアで林間学校に参加していて、ラジオで原爆投下を知った。
「そのとき周囲の子どもたちが歓声を上げた」のに、彼は非常なショックを受けた。
さらに彼に衝撃を与えることになった光景。
50年代にボストンで上映された原爆投下の記録映画「ヒロシマ」を見たときのこと。これは「ポルノ映画」という触れ込みっだった。
「被爆者が沸騰した川に飛び込む映像を見ながら、観客が大笑いしていた。」
「米国はアパッチ、ブラックホークなど、自ら虐殺した先住民の名前を兵器につける国だ。もしドイツ空軍が戦闘機を「ユダヤ」などと名付けたら、どう思うだろうか。」
「原爆投下はおぞましい犯罪だ。個人的には東京大空襲はさらにひどい犯罪だと考えている。しかし、戦争犯罪を定義したのはニュルンベルク裁判だった。枢軸国の行為のみを戦争犯罪、平和に対する罪と定義し、大都市への空爆など連合国もした行為は定義から除かれた。」
◆問題はそういうことが「特殊」ではなく「一般」であるということ
日本に原爆が投下され、恐ろしい被害を与えたのを知ったとき、
「子どもたちが歓声を上げた」
それはありそうなこと、当然あると予想されることである。
何しろ、日本は憎むべき凶悪な敵国、アメリカに甚大な被害と恐怖を与えようとした国なのだから。
国民感情、特に戦争、国際紛争などがからんできたときの国民感情は、通常そのような強い盲目的な偏見に導かれるものなのだ。
「ヒロシマ」の映画を見ながら、観客が
「被爆者が沸騰した川に飛び込む映像を見ながら、観客が大笑いしていた。」
アメリカ軍が投下した原爆で、おびただしい数の人間が一瞬にして死に、あるいは恐ろしい破滅と苦しみを被った。そのさまが、多くのアメリカ人に笑いと快楽を与えた。
ちょっとひどいと思われるだろうが、こうした恐ろしい面が、あるいは愚かしく無恥な面が人間には、ごく一般的にありうるのだ、という思いを抱かせる。
つまり、われわれ日本人だって、中国、韓国にたいして、言語に絶するひどいことをやってきた。そんなひどいことを日本人の多くは積極的に声援し、恐ろしい不正を正義だと信じながら参加し、国民一体となって罪を犯してきたのだ。
或いは、もし原爆投下国が日本で、被害国がアメリカ人であったとした場合、多くの日本人は、アメリカ人に劣らず大歓声をあげて喜んだだろう。
このような狂気、理性(冷静な良識)に反した感情の氾濫が人間集団にはありうるのだということ。
◆アメリカ人のなかにもあるこのような良識
「原爆投下はおぞましい犯罪だ。個人的には東京大空襲はさらにひどい犯罪だと考えている」
この記事を読んで、ぼくが何よりも最初に「嬉しい」と思ったのは、この問題について、アメリカ人の中にも、このように公正で自省的な認識をもった人たちがいるのだ、ということだった。
こういう声がアメリカにおいても、もっと大きくなることを期待したいもの。
原爆投下も、東京大空襲も、ベトナム戦争、アフガンの空襲、イラク戦争も、アメリカの行っている行為は、大規模農園で殺虫剤を大量に散布して害虫を全滅させる、というアメリカ式合理主義の延長にある。
いや、驚くべきことは、アメリカにおいては、戦争が遠い過去になった今でもなお、原爆投下(人間をいっせいに大量に抹殺するというおぞましい行為)について、「あれは正義だった」という一般的で根強い偏見が残っているらしいことである。
さらにいえば、大量に抹殺したとしても、それがアメリカ人、あるいは白人とは本質的に異なる人間(日本人、ベトナム人、アフガン人、イラク人… )であるならば、それほど問題ではない、というような感覚があるように思われることだ。
それは良識ある現代人としての感性と良心を欠くことである。けれどもアメリカ人は今なおそのような偏見から自由になれていないところがある、という気がする。
赤い靴をはいた女の子
- 2015.02.19 Thursday
- 材料(雑)
- 01:29
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- by jouhouko
「赤い靴をはいた女の子」の話―昔のテレビの番組から―
3歳か4歳のころだったと思う。
大阪の従姉たちが、淡路島洲本の我が家へ来ることがあって、いろいろ歌を教えてくれた。
童謡「青い目の人形」とか、「鐘のなる丘」とか、「赤い靴」とか。
幼いながらにそうした歌に魅せられたものだった。
赤い靴
作詞 野口雨情
作曲 本居長世
赤い靴はいてた
女の子
異人さんに
つれられて
行っちゃった
横浜の埠場(はとば)から
船に乗って
異人さんに
つれられて
行っちゃった
今では青い目に
なっちゃって
異人さんの
お国に
いるんだろう
青い目を見るたび
考える
異人さんに
逢うたび
考える
その後、この歌はラジオなどで何度も聞いたことがある。
「異人さんにつれられて行っちゃった」
「今では青い目になっちゃって」
「赤い靴見るたび 考える 異人さんを見るたび 考える」
「考える」というところが印象的だった。
少女歌手の声も清楚で懐かしく感じられとても好きな歌だった。
書庫の隅から、忘れられていた古いメモが出てきて、見ていたら、もう何十年も前に見たテレビ番組についてのメモが混じっていた。
赤い靴をはいた女の子は、野口雨情が下宿していた家の近く(?)に住んでいた独身の母親から生まれた、そうだ。
やがて母親は子供を連れて北海道に渡る。
アメリカ人の牧師は、アメリカに帰ることになった。そのときアメリカへ子供を連れていったはずだという。
その後母親は生涯、この子供に対して悪いことをしたという思いを抱き続けてきた。
ところで、テレビ取材者は、その後の少女の行く方を追ってアメリカまで足を伸ばした。
日本でもう一度調べてみると、その子供は9才(7才?〉で死んでいたことがわかった。肺結核。
神父がアメリ力へ渡るとき病気の子供を連れていけなくて、孤児院に預けたらしい、ということだった。
Word by Noguchi Ujo
Music by Motoori Nagayo
Translation by Tsuruta Kiyoko
1. O' little girl nice on you pretty "Red shoes"
She has gone far away with a foreigner (American)2. From the port of Yokohama, over the waves
She has gone with him to his home3. I wonder, if she is happy and have nice days
I wonder, if her eyes are blue like foreigner4. I remember her when I see pretty "Red shoes"
I wonder how she is when I meet a forei
イチリットラ〜 ――懐かしいマリつき唄――
- 2011.01.10 Monday
- 材料(雑)
- 01:14
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- by jouhouko
今から思うと、当時の女の子たちは、よくあきもせず、来る日も来る日もあんなことを繰り返していたものだ。
もちろん「楽しくて楽しくて」というところがあったのにちがいない。
男の子であるわが輩は、マリつきなどやったことはなかった。けれどもいつのまにか自然と唄を覚えて時に口ずさんだりした。
そうした唄は、不思議なことに、部分的ではあるが、今もなお思い出せる。
マリつきは、唄に合わせてポンポンポンと片手でリズミカルに地面にゴムボールをついて、ときどき片足をあげてボールを潜らせたり、挙げた足の後ろから手を差し出してボールをついたりする動作を入れる。そして一区切りつくところで、ボールをお尻で受け止めるのだ。(両手でボールを押さえて受け止める。器用といえば器用だが、慣れている子ともにとっては、朝飯前の作業である。)
第1段階がクリアされると、次に第2段階が始まる。
唄はだいたい1からはじまって10まで行く。
たとえば当時定番のようによく使われていたのはこんなふうな唄だった。
1丁目のイ助さん、 イの字がきらいで
1万1千1兆億の お札(ふだ)をおさめて
2丁目にあがった
その次は 「2丁目のニ助さん、二の字がきらいで、2万2千2兆億のお札をおさめて3丁目にあがった」と続く。
もう一つ記憶に残っている唄はこうだった。
あんたどこの子
新京 南京
わたしゃタイの子
マライの手まり
ポンと打ってポンと飛んでって
日本の桜見に
この唄に2番以降があったかどうか思い出せない。
紀州の殿様が出てくる有名な手まり唄、「てんてんてんまりてんてまり、てんてんてまりの手がそれて」
というのは、当時聞いたことがない。
もうひとつ、かすか(不明瞭)ながら思い出せる歌がある。
いちりっとら〜〜ア らっとりっとせ〜〜 ホウホケキョウの……
というところだけ覚えている。
「ホウホケキョウ」のなんだったっけ? どうしても思い出せない。
きょうこの記事を書こうと思ったきっかけは、実はこの「いちりっとらア… らっとりっとせ…」
という、まりつきうたを思い出したからだった。
「1リットラー」のあとは、「2りっトラー…」、「3りっトラー…」と続いていく。
こんな曖昧な記憶でわかるのだろうかと、インターネットで検索すると、案に相違して、けっこう引っかかってきた。
たとえばこんなサイトにぶつかる。
《「いちりっとらい」は昔父が教えてくれた曲だ。
あまりに不思議で意味不明なので、てっきり創作したのかと思っていたが
伝承唄としてあちこちの地方に残っているらしい
父の唄はこうだ
♪「いちりっとらい とらいとらいとし ちんがらほけきょう で鈴がなる」
ところが山口のほうだと
♪「いちりっとらい らいとらいとせ しんがらほけきょ 梅の花」
という階段遊びに残っているというし
東京のあるところでは
♪「いちりっとらいらい らっきょくってしっし しんがらもっちゃきゃっきゃ きゃべつでほい」
というまりつき唄になるらしい
「キクとイサム」という今井監督映画のなかでも
♪「いちりっとら らっきょくってし しんがらもっちゃきゃ きゃべつでほい」》
また別のサイトでは…
《こんな遊び、覚えてますか?
「♪いちりっとらい、らいとらいとせ
しんがらほっけっきょう 夢の国 ♪」
階段を使った遊びで、
みんなは階段の一番上に、鬼の子は一番下の段にいて、この歌にあわせて階段を移動し、
歌が終わったときに、鬼と一緒の段になった人が次の鬼になる、っていうやつ。
この歌、このあと「にーりっとらい、らいとらいとせ〜」 「さんりっとらい、らいとらいとせ〜」
と 続いていきます。
長い間、わたしにとって謎の歌だったんですが、
もしかしたら、仏教に関係するのかなって最近思うようになりました。
漢字で書くと
「一里渡来、来渡、来渡せ、秦から法華経 夢の国」
ってなりません?
調べてみたら法華経が本格的に訳されたのは、後秦(中国)の時代だそうです。
といっても私の勝手な想像ですので、あんまり信用しないように・・・
ちなみに、これ、職場で聞いてみたけど、
福岡、大分、熊本の人は誰も聞いたことがないことがわかりました。》
もともとは「法華経」に関係する唄だったようだ。
「一里渡来、渡来渡来… 」という原型が浮かんでくるような…
こうした歌には、案外歴史的な事件などのことを唄ったものが子どもたちの間に流行って残ってきたものがあるようだ。
たとえば、ごく小さい頃、母親が教えてくれた「せっせっせ」の唄を今なお覚えている。それには西郷隆盛が出てくる。
せっせっせ――
1かけ、2かけ、3かけて、
4かけて、5かけて、6かけて、
橋の欄干腰掛けて、
はるか向こうを眺むれば、
十七八の姉さんが、
花と線香(センコ)を手に持って、
姉さん姉さん、どこ行くの、
わたしゃ九州鹿児島で、
お墓参りに参ります(この部分の記憶曖昧、ツジツマあわせに勝手に作ったのかも知れない)
お墓の前で手を合わせ、
ナンマイダアブツナンマイダ…》
(なぜ「6」から「8」(橋)へ飛んだのか昔から疑問だった。)
記憶の中の歌詞に直接西郷隆盛は出てこないが、インターネットで調べると、これは西郷隆盛が西南戦争で割腹自殺して、その墓に若い娘がお参りするという話で、いろいろ変種があるものの、古いある時代に非常に流行した歌だったことがうかがわれる。
【短篇】 街路にて (2)
- 2010.12.02 Thursday
- My作品
- 03:11
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- by jouhouko
つまり、相手が気の弱い男であるならば、ぼくの視線に傷つけられたように感じるだろうし、相手が気の強い人物ならば、面と向かって見られることを敵意ある挑戦ととるかもしれない。
相手が健康で正常な人ならば、ぼくを無視するか憐れむべきとるにたりない存在だと感じるだろう。
若い女ならば、ぼくのような取るに足りない貧弱な男に見られることを心外に思うだろうし、それが魅カ的な娘であったとしたら、なおさら彼女を見て目で快をむさぼるというぼくのあさましく卑しい下心が公衆の面前で明るみにさらされることになり、その上彼女はぼくを鼻で笑うだろう……
これは理屈ではない。ただ、理由もなくぼくはそんな気持ちによくなったものだ。用もなくひとりで人中に出かけてきたこと、そしてあわれな泥棒犬のようにうしろめたい気持ちをいだきながら、ぼくのために存在するのではない若い女たちの顔や手足やうなじや胸のところを盗み見ているのだということ……そうしたことがみんな明るみに出て、笑われ、蔑まれ、〈非難〉さえされるといった気がするのだ。他のすべての正常な人々にくらべて、自分は異常に孤独なできそこないである。(そんなふうにぼくは
常に感じていた。)孤独であるということ、それは貧乏人、ルンペン、不具者、犯罪者であることよりも悪いことだ。なぜなら彼らのほうが仲間と親しくしたり、入々の中で自由に気軽に冗談をいいあったり、いたずらをしあったりすることを心得ており、普通のことを普通におこなって生活する術を知っている。どんなに不具な入間でもオレよりはずっとまともであり、ずっと人間味がある。オレときた日には、いつも陰気なアナグマみたいに人を避けてばかりいて、誰とも親しい言葉をかわすことがなく、人間としてごく普通の交わりをもつことさえないのだから。……
くる日もくる日も、こんな思いを繰り返しながら路上を歩きまわる。するとふしぎなことこに、やがてぼくにはこうした自分のありかたがすべてひどく意味のある、特別のことのように思えてくるのだった。こうしたことは何かしら独自の高められた体験であって、そこには人知れない深い価値が潜んでいる。普通一般には知られることもなく理解されることもない、捨てがたい独特の要素がここにはある、そんな気がしてくるのだ。それが何であるのかは、ぼく自身にもはっきりしていなかった。
そんなわけで、くる日もくる日も虫けらのように街々をほっつきまわった。泥棒犬があちらこちらで食物をあさり、匂いをかぎ、みじめったらしく徒労に走りまわるように、ぼくはいたるところで女たちの姿を盗み見ては、甘さをむさぼり、そしてそのわずかな甘さをもっと強めるために自分を紙屑のようにみなしてあざ笑うのだった。このみずからあざ笑う気持には、それでまたふしぎな甘さと慰めがあった。できるだけこっぴどい罵りの言葉を探しだしては、それを自分に当てはめてわれとわが身をさいなむのである。〈言葉の短刀〉でみずからの胸を思いきりぐさりとえぐり、それから何度も繰り返して切りさいなむである……
もっとも、実のところはそれも一つのゲームにすぎなかった。そのことは自分でも充分に承知していた。要するに、そんなふうにして、ぼくは自分で自分の心を慰め愉しませてやっていたのだ。
とはいっても、実際のところそんな慰めに甘んじてばかりはいられなかった。自身の本質的な無力を感じることにともなう何ともいいがたい不満の感じが、くる日もくる日もぼくをさいなんでいた。
『N※※やC※※など、世界の成功者たちは、オレの年齢ではすでに華々しい成果をあげていた。オレはいまだに何も始めようとはしない』
そんなふう、ぼくはよく自分にいったものだ。
『おい、意気地なしの虫けらめ』とぼくはよく自分に向けて言いった。『何者かであろうと思うなら、おまえはいますぐ計画をたてて偉大な一歩を踏みだすべきではないか。そうしないかぎり永久に踏みだすことはないだろう。それとも生涯虫けらでありたいと願うのか……』
ぼくは自分の中に力を見出そうとした。が、そこには何も見当たりそうでなかった。ぼくは憂欝になり、イライラし、いっそうひどい無力状態におちいった。そうなるとますますひんぱんにN※※やC※※のことが引
き合いにだされ、あのような存在でないかぎり、「自分の生涯は永久に無だ」という無茶苦茶な観念をふりかざして、自分を無理矢理駆りたてようとするのだった。
もっともこれもまた一種のゲームであり、単なる道化芝居にすぎな
い、そのことはちゃんと自分で承知していた。
そんなある日、突然、自分が虫けらである事実に反逆を企ててみる気になった。
というのはほかでもない。ある〈素敵な着想〉が天から降って湧いたのである。
こうしたことはたいてい突然に起こるのだ。天から降るというのではないにしても、どこからともなく奇跡のように忽然と湧いてくるのだ。
その素敵な着想とは、簡単にいえばこうである。
自分はいつも人の前に出ると、相手に比べて、自分のことを〈吹けば飛ぷような軽い存在〉だと感じる、逆らいがたい傾向がある。
〈何者かである〉ためには、ぜひとも自分の中に〈自信〉を養い育てなければならない。そこでひとつ実験をやってみるのだ。
その実験とは、つまり「内心は別として少なくとも外観だけは、あたかも自信のある人間であるかのように振舞う」というものだ。
つまりこうだ。ぼくには自分の存在を人に対して申しわけないもののように、すまないもののように感じる困った性避があり、それは自分でもどうしようもないものだ。人に対して常に遠慮がちにしりごみし、人の気を害するのではないかという恐怖心に支配されている。人がそばにいると落ち着かず、浮き足だった状態におちいり、すぐさま逃げ出したい気持にならずにいることは不可能といったありさまである。自分という人間が人とくらべて、軽くて滑稽で馬鹿げているという気がしてしまうのだ。相手にくらべて自分をずっと価値の低いもののように、実にとるに足りないもののように、いや、そればかりか…
【短篇) 街路にて (1)
- 2010.11.30 Tuesday
- My作品
- 03:52
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- by jouhouko
ぼくは用もないのによく街に出かけた。
いっしょに遊んだりしゃべったりする友人もなく、出かけて行くべき知り合いもなかった。毎日一人きりで部屋にいると、ただむしょうに外に出かけたい気持になる。出かけて行って、人ごみに混じつて歩くことへの理不尽な欲求が内部からわき起こってくるのだ。
出かけても部屋にいても、一人であることにはなんら変わりがない。むしろ入ごみの中に混じって歩くことによって、みずからの孤独性、笑うべき惨めさをいやというほど思い知らされるのが落ちなのだ。
群衆の中では知った人がいないため、気を使わなくてもいい気楽さはった。しかし、行きかう人の目が気になつて、ぼくは終始ひどくうつむいてばかりいた。滑稽なくらいくよくよと神経を使い減らし、ボロくずのようにくしゃくしゃに疲れはてて、ああ今日も時間をむだに費やしてしまったという苦い後悔の味をかみしめながら、自分の部屋に帰ってくる。
本を読んだり、音楽をきいたり、自分の好きなことをして過ごしたほうがどれだけよかったことかと心底から反省するのだ。そしてそのたびにもう二度と出かけまいと、「石のように固い決意」を固めることになる。その決意を有効に持続させるために、ノートにくどくどと書きつける。
それはもうおきまりのコースだった。
やがて再び新しい太陽が昇り、金色にかがやく美しい一日が始まる。
すると、とてもふしぎなことに、どこからともなく決して死ぬことのない鳥のように蘇ってくる甘い希望に満ちた情念がぼくをとらえるのだ。
その鳥は外へとぼくを誘い、ぼくはひたすら外出の口実を探しもとめることになる。
そうなると前日の「石のように固い決意」などはひとたまりもない。なにかつまらないちょっとした口実が頭に浮かびさえすれば(それはいつでも頭に浮かんだものだが)、ぼくはすぐさまそれに飛びつく。憐れな犬ころが投げられた肉片に飛びつくように。それは幻の肉片で、飛びつくと同時にさっと引こめられるのだ。しかし、そんなことにかまっちゃいられない……何はともあれぼくはさっそくでかけることになる。「おい、またしてもこりもせずご立派なことだな!……ハハ!……まあいいさ!……」
前後のみさかいもなく、とるものもとりあえずといった体で、ぼくは自分の棲む穴ぐらを飛び出していくのだ。
入々が行きかう場所を目指して、電車に乗り、通りから通り、街から街へとあてもなく歩いてまわるのだ……
正常な普通の人々のように自分もちゃんとした用があって出かけてきたというふりを、自分に対しても他人に対しても装う必要を感じるので、ときおり本屋やデパートのレコード売場に立寄りはする。
が、その実は、ただあちこちと歩きまわっては、どこにも自分の居場所がないと感じる憐れな宿なし犬にほかならなかった。
いや、かならずしも目的がないというのではなかった。
そうだ、ちょうど腹を空かした犬が、あちらこちらで人に追いたてられながら、餌をあさってまわるように、人にとがめられるのを気にしながら、通りかかる若い女たちの顔や姿をひそかに盗み見ては、罪ぷかい目で喜びをむさぼり享受してまわる……そういう目当てがあるにはあった。
そしてそれをぼくは内心うしろめたいことのように感じていた。
だからそれらの行為のために、別のちゃんとした「本当の用件」を自分のために当てがってやる必要を感じていた。
ぼくはいつもひどく玖しい気持に悩まされた。
路上でも、乗り物の中でも、書店によって本を買うときでも、いつでも罪びとのように顔を伏せていた。
通りがかりの人々の顔を見ることが妙に出来にくかった。用もないのにでかけてきた者の本質がが見ぬかれていると感じていたからかもしれない。
それに、あえて顔をあげて通行人と眼が合えば、相手の心を害するか自分が傷っくことになるという気がした。
つまり、相手が気の弱い男であるならば、ぼくの視線につけられたように感じるだろうし、相手が気の強い人物ならば、面と向かって見られることを敵意ある挑戦ととるかもしれない。
相手が健康で正常な人ならば、ぼくを無視するか憐れむべきとるにたりない存在だと感じるだろう。
若い女ならば、ぼくのような取るに足りない貧弱な男に見られることを心外に思うだろうし、それが魅カ的な娘であったとしたら、なおさら彼女を見て目で快をむさぼるというぼくのあさましく卑しい下心が公衆の面前で明るみにさらされることになり、その上彼女はぼくを鼻で笑うだろう……
頬がげっそり落ち込んでいる、気をつけなよ
- 2010.11.28 Sunday
- PLAN 【A】
- 01:31
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- by jouhouko
「あんた頬がげっそり落ち込んでいる。どうしたの? 気をつけなよ」
そういわれればそうかなと思い当たる。いつも睡眠不足のせいか、頬の当たりに苦痛を感じている。頬がげっそり落ち込んでいる感じもある。鏡を見てもそうはみえないのだが。
〈彼女に何とも思われていない〉という思い。もとよりそれは承知のこと。
〈思うだけにしておこう、思うだけならいいではないか、思われることは望むべくもない……たとえ思わることがあったとしても、その先は少しも望ましいものではない……〉
それでも、一方では、それを望みたくなるのだ。〈思われていない、望みがない〉となれば、その状況は余りにも苦しくなるから……
基本方針「固く隠す」「何も期待しない」「機会を利用する」
- 2010.11.23 Tuesday
- PLAN 【A】
- 00:44
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- by jouhouko
朝、彼は職場の駐車場で、時間ぎりぎりまで車の中でピアノ曲を聞いていた。
聞いている間だけ情熱的な喜びを感じるので繰り返し聞いていた。
モーツァルト、ハイドン…
朝方、見た彼女の姿はややうつむき加減で、こよなく優しく、憂鬱げで、魅力的だった。
憂鬱な甘い魅力。独特のやさしい感じ…
いや、適切な表現は難しいが、そのときの感動が今日一日の心の糧となっていた。これで彼女をひと目見られたから、出張で外へ出かけることができる。そう思って彼は出かけた。
出るとき、強いためらいがあって彼女の方へちらりと視線を向けることができなかった。
朝方、彼女を見たあとで彼女によって心に呼びさまされた独特の甘美で複雑な喜びのことを思いながら、車庫に向かう道々、ふとこんな考えが浮かんできた。
モーツァルトやハイドンのピアノソナタ(短調)を聞くとき、独特の興奮、独特の喜びを感じる。その曲が彼の心に、ある複雑で甘美な喜び、感銘を引き起こすからだ。つまり「その曲には独特の魅力が備わっている」ということである。
それと同じように、「今朝方彼女を見たときに、やはり彼はある深い、いいようのない喜び」を感じたのだった。それは、「優しい、どことなく憂鬱な優しさを感じさせるもので、彼女の姿態、顔立ちが、そういうものを心に呼びさます効果をもっている」のだ。
彼女の魅力は、色香といっても、いわゆる色気といった感じのものではない。彼に感じられる彼女の魅力は、もっと複雑で、精神的な(というのは適当ではないが)何かである。その感じをあらわすことはできないし、それに近いニュアンスさえも伝えることは困難だ。
甘美な、憂鬱な、メランコリーのイメージ…
昼休み。彼は自分の年齢を忘れ、またしても愚かな妄想を抱きそうになる自分に水をかけた。
それはもちろんそうだ。当然のことながら、〈基本方針〉はこうである。
1 彼女への関心を「かたく隠しておく」こと。
2 彼女に対してはいっさい「何も期待しない」こと。
(これは絶対的な大原則。この二つの原則を厳守しながら、次のことが要求されるのだ。)
3 彼女を「見る機会をできるだけ利用する」こと。
4 「見る喜びを深く感じる」こと。
すっかりお顔を拝見できなくなりましたがお元気ですか(ある意味大胆な手紙)」
- 2010.11.18 Thursday
- PLAN 【A】
- 23:02
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- by jouhouko
これこそモーツァルトのハ短調ピアノソナタ
彼女に自作の本を送った。その送付文に
《すっかりお顔を拝見できなくなりましたがお元気ですか。
この度『×△×△』(彼女への思いを書いたとわかるかもしれない作品)を出しましたのでお送りします。》
「すっかりお顔を拝見できなくなりましたが… 」
ある意味非常に大胆。 その大胆さが普通ではないところに、劇的な要素がある。
彼女との間柄から考えるとそんなことは唐突で非常識すぎる。
そんな大胆な、いや、「厚かましい」ことをあえてやった、という驚きと困惑、戦慄…
病院訪問、複雑な状況、弟の病状は…
- 2010.11.06 Saturday
- 材料(雑)
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- by jouhouko
(7年くらい前の日記から)
昨日、病院の医師から、病状を聞く。もう長いことはないという。治療しても効果があがらないどころか、数値が余計に悪くなっていく。今は治療の手だてもないので、痛みを抑えながら、様子をみるしかない。云々…云々…
弟の宏喜は全身あちこちに痛みを感じながら、日々をベッドで過ごしている。歩くことは出来るが、歩くと痛むのだという。宏喜の顔、相貌がいつもとはちがって、きれいに、ある意味、崇高に見えた。口の髭をそっていなかった。
気の滅入るところだ。もちろん、宏喜が可哀想である。
ぼく自身の精神にとっても、一つの危機だと感じられる。つまり魂がどうしようもなくメゲルのである。それに抗して前を向いていく心の姿勢を保たなければ、潰れてしまうと感じる。
昨日横浜へ行く途中の新幹線の中で読もうと、アンリ・バルビュスの『地獄』(岩波文庫)を持っていった。昨日から少しだけ読み始めていた。最初の方で、今の自分にはあまりおもしろくなさそうだ、読むのを止めようか、と何度も思いながら読んでいたところだが、今日新幹線の中でほぼ半分近くまで読んだ。
たしかに素晴らしい才能だ。けれども自分が求めるのは、プルーストのようなものであって、こういう作品ではない。恐ろしい容赦のない絶望がここには立ちこめていて、人は孤独だ、決して孤独から抜け出ることはない、人は死に向かって進むだけだ、すべてがそれに帰する、人間が経験するどんな喜びも最終的にそこへ向かっていく限りは無意味である、ということを、豊かで素晴らしい表現力で、これでもか、これでもかと繰り返す。何とも苦しい気持ちにならせる作品世界だ。救いがまったくない思いにならせるのである。びっしり書き込まれているせいもあるのか、いや、それよりも暗くたれ込めて、まったく救いのない文章なので、読んでいるととても苦しい。
バルビュスを半分ほどで中断して、横浜へ着いたころから、もう一冊持っていた本を出して読んだ。それは鷲田小弥太著『パソコンで考える技術』
これはずっと以前一度読んだことのある本で、これは非常に面白いし、軽く読める。帰りもずっと読み耽って、ついに一冊読み終えた。
朝、九時過ぎに家を出て、横浜の病院へ。
夜十一時半ころ家に帰ってきた。
心に重すぎる陰があって、どうしようもない。何とかそれを乗り切るしかない。たしかに人生は陰に満ちている。暗いことや死や破滅や泥沼が至るところにある。そういう災難、惨めさは、いつでも人の暮らしの中へ侵入してくる可能性がある。そういうことを感じるとき、人生の惨めさの感覚が生じて、気が滅入り、くじける思いになる。そういう至る所で惨めさに隣り合わせている暮らし中にあって、バルビュスのように、救いのない絶望、虚無の心ではなく、生きることの喜びへと手をさしのべる心の必要があると感じた。絶望、虚無に蝕まれる生き方は、悲惨のなかで悲惨のまま終わってしまう。悲惨は悲惨、人生は悲惨に満ちている。それは抗いようのない事実だろう。けれども、そういう中にあって、自分や周囲の悲惨を現に目にしながらも、生きていられる限りは、絶望の方向ではなく、希望の方向に目を向けていることが重要なのではないか。通常、みな人はそうしているのではないだろうか。
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